小久保佳世子句集『アングル』
・・・関 悦史
私にとっては全く未知の作者、小久保佳世子氏から今月出たばかりの第一句集『アングル』をいただいた。略歴によると、1945年生まれ、「萬緑」を経て現在は「街」同人とある。
アングル(構図)という題名に見られるとおり絵画に日ごろ親しんでいる方のようだが(自分で絵を描いているらしき句もある)画家の名をナルシスティックな審美性の中に取り込んだといった句は全然なくて、《涅槃図へ地下のA6出口より》のような生活実感と視点のクールさを併せ持つ都市叙景の句あり、《脳の標本厚物咲のごとくあり》のような見立ての奇抜さにシュールな諧謔漂う句もあり、《謝る木万歳する木大黄砂》のような時代・社会への寓意の句あり、《十二月蒸しタオルに母軟化して》のような老母を世話する句ありで、要するに素材の雑多さが私と似ていて親しみを覚えた。
まず都市叙景系の句は以下のようなもの。
涅槃図へ地下のA6出口より
東京ドーム膨らみきつてゐる春愁
中心にブランコ化学工場跡
森ビルの鉄塊膨らんでゆく朧
手遅れのやうなる街や春マスク
万緑の味する美術館の水
秋風を縦に感じて六本木
福祉作業所煎餅置かれある西日
電子音させて子等来る冬の坂
毛皮着て東京タワーより寂し
薬缶から冬草電波塔の下
《東京ドーム膨らみきつてゐる春愁》《森ビルの鉄塊膨らんでゆく朧》などはいずれも外から見ている句だろう。《手遅れのやうなる街や春マスク》などとも併せ、巨大異様なものの生動と共存している日常に不気味さが漂う。
《電子音させて子等来る冬の坂》では住人そのものも無機性の網のなかに接続されあって暮らしているさまが摑まれ、《毛皮着て東京タワーより寂し》ではスカスカと骨組みを露出させた鉄塔の空疎さが内面まで貫く線となっている。
謝る木万歳する木大黄砂
薔薇迫る軍用機に耳塞ぐ時
夏来る突然変異の魚跳ねて
木下闇戦の話に猿も来て
この辺りは社会批判、危機意識の句。《謝る木万歳する木大黄砂》は今井聖氏の序文にもあるとおり日本とアジアとの関係史を想起せざるを得ない句で寓意性があらわだが、寓意や思いを「大黄砂」の物質性が受け止めている。《一億の蟻潰しゆく装甲車》《点滅の蛍や地球の持ち時間》などになると寓意が浮き気味だが、肉体を通した《薔薇迫る軍用機に耳塞ぐ時》はその弊を免れた。
《木下闇戦の話に猿も来て》からは谷雄介の《開戦や身近な猿の後頭部》を連想するが、小久保句の場合「猿」を寓意のハリボテから免れさせているのは季語「木下闇」による自然の奥行きであり、無季の谷句の場合は「後頭部」という一部分のクローズアップが実体感を担っているので、相似た想像力のうちに有季と無季との技術や志向の違いもうかがえる。
漬物屋のむらさき黄色春疾風
優先席の少年桜より白く
青春は疎まし菫のむらさきも
足開くプリマ涼しき角度まで
風邪心地三原色の鳥を見て
アングルを変へても墓と菜の花と
ハートダイヤスペードクラブみな若葉
青野から白抜きに犬疾走す
六地蔵の赤の分量芒原
視覚芸術に興味の深い作者らしく、色・形の扱いが際立つ句を並べた。
《青春は疎まし菫のむらさきも》の「むらさき」に端的に見られるように、色や形の抽出は視覚効果の鮮やかを打ち出すこと自体が狙いではない。色や形は抽象化されることで逆に実体感が引き出され、それが内面へ食い入ってくるのである。《漬物屋のむらさき黄色春疾風》などどうということもない写生句に見えて、生活圏内に不意に介入した具体と抽象の相渉の層に触れている。《アングルを変へても墓と菜の花と》は「墓」を死、「菜の花」を生と取らせてしまう知的な整理が働いていて、わかりやすいが「漬物屋のむらさき」の生々しさからは離れた。
具体性と抽象性を句のなかに一度に形象化しようとするときに現れるのが文字である。《黒蟻の集まつてきて鬱の字に》はその方向の佳句だが、こういう一足飛びの方法に偏らない姿勢がその次に並んだ《穴の蟻土臭き空見上げをらん》の蟻の身体感覚への寄り添いに見て取れ、同じ素材での振れ幅の大きさが面白い。
蝶止まる広場のやうな背中かな
春惜しむ名前に鳥の付く人と
六月の脳より高く鉄亜鈴
山車を曳くわけの分らぬものを曳く
頭に蜻蛉乗せて菜食主義者なる
脳の標本厚物咲のごとくあり
白猫のごとき春日を膝の上
空つぽの母胎のごとく冷蔵庫
来賓のコート次々壁の中
編み耽りセーターの首伸びてゆく
「今投げろ」とて寒卵挑発す
雲食べて太りし羊合歓の花
白シャツからアフリカの腕伸びてをり
十人のひとり残らず霧になる
多摩川の匂ひしてゐる昼寝人
桃ひとつ御霊のごとく運ばるる
大いなる芋の坐つてゐる木椅子
こふのとり二羽ゐて百合の佇ひ
雁万羽日暮の空が壊れさう
卓袱台のごとく脚折り冬の鹿
見立てや比喩、あるいは叙述の省略がシュールさを生む句を並べたが、この作者に体質的に一番近い画家はマグリットだろう。いずれも思い入れの重苦しさと無縁な明快な描出がなされていて、《編み耽りセーターの首伸びてゆく》など些細な日常の破調から恐怖・恍惚・諧謔の要素がにじみ出る。そうした要素は顔や口を扱った句にことに顕著で、そういえば顔を隠すことによる匿名化が恐怖と表裏一体の笑いを生むというのもマグリットの絵にもしばしば現れる手法であった。個人の人格、歴史、人生といった単独性の重さが、ごく表面的な操作で無造作に匿名の永遠へと投げ込まれてしまう恐怖とおかしみである。
顔ほどの窓を余して蔦館
春昼のわが顔の中鯉泳ぐ
緘黙を貫く雛の顔に罅
ピンポン玉大や巣箱の暗黒は
ダイバー消え水面に臍のごときもの
海の日や顔いつぱいに鳶の翳
「口」を開いた句はどちらかというとマグリットよりもフランシス・ベーコンだろうか。《人を呼ぶ口中黒しななかまど》など、匿名化の力場の中に叫びとも哄笑ともつかぬ開口部を黒々と開けてみせるベーコンの口の気配がことに強い。
春夕焼語り始める排水口
人を呼ぶ口中黒しななかまど
限界まで広がる仁王の口枯野
冬夕焼鴉の開く嘴の間も
よく食べて天井に大扇風機
目鼻口流さぬやうに髪洗ふ
恐怖とおかしみでは他に《捕へられざまの混沌蛸の足》などという足だけに還元された句もあり、クトゥルー神話の「ナイアルラトホテップ」でも捕まえてしまったかのようだ。
老母をはじめとする家族、家庭を詠んだ、少なくとも素材の上からはごく日常的な一連の句もあるのだが、これらの句の背後にも具体と抽象、恐怖とおかしみを貫く視線が潜んでいるようである。後記にある作者の言葉は《句集『アングル』の作品にほんの少しでも飾りや作り物ではない私自身の見た「もう一つのほんとう」が描かれていたら本望です》。
雛の頃隣家を包む工事幕
無言夫婦一ミリ伸びる藤の房
蜆汁その日息子の声変はる
笑はない母としりとりして暮春
朝の薔薇血圧計と置かれあり
緑さす四阿に母置いておく
琉金一尾部屋から母の消えてをり
扇風機の羽根の向かうに透けて母
家族にも旬といふもの柿の昼
十二月蒸しタオルに母軟化して
その他文中で触れなかった句を引く。
酢で硝子磨きし夜の緑雨かな
ごきぶりの家を作つてゐる静寂
オンドルの遠き隣国わが生地
耕人や和解のごとく鍬を置く
万緑に隠れしプレハブから祈禱
名刺無数に貼られし駅舎流氷来
霧襖オムレツひつくり返したり
思はざる駅に着きをり蟋蟀と
土俵入り始まる前のかまどうま
月揺れて川揺れて人踊るなり
人間を信じて冬を静かな象
《名刺無数に貼られし駅舎流氷来》が何のことやらわからず検索した。
鉄道マニアならばすぐわかるのかもしれないが、オホーツク海に一番近い駅、釧網線の北浜駅というところの待合室が実際にそういう状態になっているらしい。旅行者が訪問記念に名刺や切符を壁に貼っていく習慣がいつからかついたのだそうだ。
小久保佳世子…1945年11月18日朝鮮平安南道生まれ。1988年「萬緑」入会。1996年「萬緑」新人賞受賞、「萬緑」同人、2003年「萬緑」退会、「街」入会。現在「街」同人、俳人協会会員。
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