鯨か恋か?
・・・関 悦史
最近出た眞鍋呉夫の句集『月魄』について短文を書く機会があった。
『月魄』については出てすぐの頃に高山れおな氏がこの豈 weeklyで長く詳細な評文を出してしまったことでもあり、書くことがどれだけ残っているものかなどと思っていたのだが、読んでみて雑誌初出の際と句集 に収録された形とで大きな変更が施されている句が一つあることに気がついた。書評に入れるには内容上も紙数上もやや難かしい話題なのでこちらに書く。
眞鍋呉夫は『俳句』平成14年(2002年)9月号に以下の句を発表している。
たぎりおちる月の潮や鯨の背
今回の句集『月魄』にこの句も収録されているのだが、但し大きな改変が施されていた。
これが句集ではなんと
たぎりおつる月の潮よひと戀し
となっていたのだ。モチーフがまるで変わってしまっており、夜の大海を打ち割って巨鯨が浮上してくる崇高で壮大な写生句が、人を恋う欲動の不定形さ、寂しさをそのまま形象化したような隠喩的な句となっている。何ゆえの改変か。
単独の句としては、最初にこの形で目にしてしまったこともあって「鯨の背」の方が圧倒的に内実が詰まり印象鮮明と見える。それが「ひと戀し」に変更されたのは、句集を編んでいく過程で、句集全体を貫くコスモロジーにこの句が合わないと作者が感じ始めたためではないか。
死と生のあわいを内観的に句にしていく『月魄』の世界では、月光のもとに身をさらした生き物は《月恍(くわう)と煙る名張の落し角》《月魄や片足萎えし蟇》といった句に見られるように身体の欠損・崩壊・衰滅の相を表していることが多い(《月の前肢(あし)をそろへて雁わたる》に限っては両足が揃って地を離れた姿がそのままよるべない不安定さを示すためか、ほぼそのまま収録されることを得ているが)。句集『月魄』の世界において、健常な鯨がその全き姿を浮上させてしまうことはおそらく原理上許されなかったのだ。
ちなみにこの句が収録された「白桃」の章の冒頭6句は以下のように並ぶ。
白桃
この階を昇れば銀河始發驛
水晶のごとき胎兒よ天の川
たぎりおつる月の潮よひと戀し
轟沈のあとはことなき月夜かな
魂まつり兄は鐵底海峡(アイアンボトム)より
鐵底海峡はフィリピン・レイテ島とミンダナオ島閒の
海峡の通稱 「大東亞戦争」末期には わが國の「軍
艦の墓場」だといはれてゐた
月を背に遺骨なき兄黙し佇つ
最 初の2句「銀河始發驛」と「水晶のごとき胎兒」は生死の終わりと始めを宇宙に対照させており、このいわば一般論的な融和の相の句から後半3句の戦死した兄 を主題とする極めて個人性・悲劇性の強い世界へと転じる境目に、この不定形に荒れる寂しさのみを描いた句が介入している。健常な鯨の割り込む余地はない。 句集の中で位置をずらせば良いという話でもない。この辺りの事情については次号でもう少し詳しく検討する。
=================================
当記事について読者から事実誤認の指摘がありました。上掲記事は、指摘にもとづき訂正を施したものです(6月14日差し替え)。訂正箇所は下記の通りです。ミスの経過については次号に記しました。お詫びすると共に、今後このようなことのないように努めます。
■訂正その1
《読んでみて雑誌初出の際と句集に収録された形とで大きな変更が施されている句が一つあることに気がついた。》
訂正後
《読んでみて雑誌初出の際と句集に収録された形とで大きな変更が施されている句があることに気がついた。》(「一つ」を削除)
■訂正その2
訂正前
《眞鍋呉夫は『俳句』2002年11月号に以下の8句を発表している。
たぎりおちる月の潮や鯨の背 眞鍋呉夫
死者あまた卯波より現(あ)れ上陸す
銀の鰭ひしめき遡る良夜かな
鶏小屋の貝殻光る野分かな
月の前足をそろへて雁わたる
火の薪のはじけて屍直立す
雹どれもさびしき翳を芯に抱き
盆荒れの海より喚ぶ声つのる
当時雑誌を見て良い作だと思いメモしておいたのだったが、今回の句集『月魄』にはここから「火の薪のはじけて屍直立す」「盆荒れの海より喚ぶ声つのる」の2句を除いた6句が収録されている。
私の写し間違いでなければ他に細かな用字法等の変更も二三あるようだが、問題なのは冒頭の句である。》
訂正後
《眞鍋呉夫は『俳句』平成14年(2002年)9月号に以下の句を発表している。
たぎりおちる月の潮や鯨の背
今回の句集『月魄』にこの句も収録されているのだが、但し大きな改変が施されていた。》
■訂正その3
《この辺りの事情については次号でもう少し詳しく検討する。》の一文を末尾に付加。
(2009年6月13日・関記)
--------------------------------------------------
■関連記事
0 件のコメント:
コメントを投稿