高遠朱音句集『ナイトフライヤー』を読む
・・・高山れおな
例えば、
プルタブを押し上げ春の滲み出す
という句がある。これは、〈プルタブを押し上げ滲み出す〉ではいけなかったのか。あるいは、
曖昧なものほど痛い寒の月
という句は、〈曖昧なものほど痛い〉と季語を取ってしまうか、季語を残すにしても〈曖昧なものほど痛い寒月〉と字足らずにする方がよかったのではないか。「春」といい「寒の月」といい、この場合、季語が心理的な影を与え、かつ五七五律に穏当に言葉が収まってしまうことで、一句を凡庸に俳句化しているだけのような気がする。
……と、柄にもなく添削など試みてしまったのは、高遠朱音(あかね)の第一句集であるこの『ナイトフライヤー』が、一句一句の相対的な上手い下手を弁別しつつ、ほどほどに感心したりほどほどに退屈したりする普通の読み方のしにくい、あまりにも我が儘な句集で、おそらく読み手の側も相応に我が儘になっているためであろう。
版元はふらんす堂(三月十八日刊)。しかし、同社のいつもの白っぽいフェミニンな装丁とは異なる、かなり主張の強いいでたちである。四六判、ソフトカヴァー、並製本というところまではよいとして、カヴァー及び本扉、各章扉はWebデザイナーだという著者自身の装画で飾られているのだが、これらのCG画のセンスには馴染めぬ人も多かろう(評者の感覚にも到底受け入れ難い)。あまつさえ見返しは右半分(つまり表2)が表紙おもてと同じ銀色、左側の遊び紙はかなり濃いめのオレンジ色である(しかも二枚)。こうなればもう、帯が銀というのはお約束か。読み手サイドに、期待と反撥をこもごもに呼び起こすことが充分予想できるバッドテイストな装いを選んだ著者の、向意気の強さがまずは印象づけられる。
一九八五年生まれの高遠朱音は、まだ二十四歳。とはいえ、母親が俳人の森須蘭(「祭演」主宰/「豈」同人)という環境ゆえか、作句歴は十年に及び、最初の句集を纏めるにはちょうどよいタイミングのようだ。本書は、以下のように六章に分かれている。
『ナイトフライヤー』目次
初期作品 プロローグ
2000~2003 白昼夢
2000~2003 宵闇
1997~2000 暁
2003~2007 夜間飛行
2007~2008 水平線
著者略歴には、一九九九年に〈高遠朱音として本格的に俳句を始める。〉とあるのに、それ以前に遡る作品が収められていたり、初期作品によるプロローグとは別に、同様に初期作であるはずの一九九七年から二〇〇〇年までの作品による章が立っており、しかも当該章が全体が時系列になった真ん中に挿入されているなど、情報の提示の仕方や構成意図に鮮明を欠くところがある。一方、前田弘(「歯車」代表)による序文、川名つぎお(「豈」同人)による跋、加えて池田澄子(「船団」「豈」「面」同人)の栞文をそなえており、まずは油断の無い船出であろう。
プロローグの扉には、黒服を着た美青年風のウサギが帽子を取ってお辞儀をする絵があしらわれている。それをめくった見開きに並ぶのは、次の三句。
夜間飛行下界すべてが水族館
十六夜に17才が余っている
螺旋状に麗かに捻挫する
どれもよくわかる、みずみずしい魅力的な句だが、音律は順に六七六、五七六、六五五で、すでにして大人しく五七五に収まった句がひとつもない。二句目の「17才」の表記も少しく目を引くところで、「十七才」あるいは「十七歳」でいいじゃないかと思うものの、またあくまで普段遣いの「17才」にこだわるということならそれはそれでありだろう。とりあえず他に算用数字を用いた例はないのかと探ってみれば、次のような作が拾えた。
夏燕ななめ45度の空
38度達磨泳がす熱帯夜
仰ぐのは1パーセントの夏でいい
意外に少ない。「八つ当たり」「春一番」「三が日」といった語中の数字が算用数字になることがないのは当然として、
インターホン一回鳴らして寒明ける
一分ごとに人格変える豌豆
一枚二枚 冬薔薇の時間持ち歩く
セーブし損なう風花の一秒
などの句の「一回」「一分」「一枚二枚」「一秒」などは、「17才」や「45度」を規準にするなら算用数字でもよさそうなところ、そうはなっていない。しかも、混乱させられるのは、巻頭の「17才」を除いた他の年齢表記は漢数字になっていることだ。
十六歳の頂点に銀やんま
最高気温更新十八歳のダリア
夏時間放せなかった一五歳
二十三歳 蝉なら枯野の蝉
さらに注意すべきは、「十六歳」「十八歳」では十の位が「十」で表されているのに、「一五歳」のみは「一」になっているのだ。「17才」と表記したのは、日常の文字遣いを残したかったからかも知れないと先に記したのであるが、こうなってくると単なる校閲ミスという可能性も出てくる。無論、これらの表記があくまで意図的なもので、「一五歳」「十六歳」「17才」「十八歳」「二十三歳」を、そう書き分けるだけのもっともな理由が存在する可能性を否定するものではない。評者にはその理由は読みとれないのだが。高遠朱音とは、評者のような常人には感じ取れない微細なニュアンスを味わい分け、用字を決する超繊細な俳人なのかも知れず、しからずんば句集の巻頭二句目に校閲ミスを犯す磊落の人、はたまた文字遣いの統一などハナから気にしない剛腹の主なのかも知れない。ともあれ、評者が本書を読むうちにだんだん我が儘になってしまったわけは、これまでの記述でおわかりいただけたかと思う。
川名つぎおが跋文に記すところでは、本句集収録句のうち三分の一は、五七五の定型なのだとか。逆にいうと三分の二は、五七五に収まっていないわけであるが、実際、巻頭三句がそうであることはすでに見た。特に三句目〈螺旋状に麗かに捻挫する〉は、六五五で、単なる字足らずというよりは破調としてよいものだろう。破調どころか、これはもう自由律ではないかという作品も結構ある。
どんぐりから飛び出したい透明な今日
雪達磨が一本勝負している
入道雲を泳ぎきる
ケータイひらひら銀漢の揺れ
咳が治らぬ青バナナ
向日葵のぎりぎりに佇む
緑雨に風切り羽を捨てよう
反り返る視界は南を計る
胎児のように夏が泳いでいる
理由もなく西瓜の生家
足跡にクローバーの鼻歌
電源を切られし夏の空
受話器より海広がり行く
夏を探してばらばらなビーズ
日向だけ歩く愛猫の命日
二十三歳 蝉なら枯野の蝉
十六句が挙がっているが、興味深いのは破天荒な傾(かぶ)いたリズムの一方で、三句を除けばみな季語が入っていることだ。前田弘が序文で、〈彼女の俳句は「五・七・五・十七音の定型詩」以外の制約からは全く自由。〉と記しているのはだから前田自身のイデオロギーを述べたまでで、高遠朱音の句の評価としてはやや的外れではないかと思う。現に無季の句もおりおりに混ざるのだから季語を絶対視していないのはもとよりとして、総じて彼女が作ろうとしているのは季節性をテコにした短詩で、五七五・十七音の定型性からはおおむね自由、と言った方が実態に即している。
これらの句を読んでいると、十代後半から二十代前半の若い女性が、俳句的教養に頼らず、自己の意識にできるだけ忠実に短詩を書いたらどうなるかの、わりと自然なサンプルという感じがして結構好きである。自己の意識に忠実というのは一概に推奨されるものではなく、自己の意識を離れ客観化するところに表現の第一歩があるというのも本当であろうが、それはそれとして、五七五に易々と馴致されまいとするこの作者の天性の反抗心が、句の表情をいきいきしたものにしている。自由律という意識が彼女にあるかどうかはともかく、〈ケータイひらひら銀漢の揺れ〉や〈咳が治らぬ青バナナ〉は、前者はややリリックに、後者はややコミカルにという差こそあれ、短律によるスナップの成功例に数えられるのではないか。〈胎児のように夏が泳いでいる〉〈電源を切られし夏の空〉の二句も、炎熱の体感をそれぞれの仕方で詠んでいて面白い。前者は身を包む、蒸れきった大気が流動するさまを、大胆な暗喩で捉えたものと解しておく。自然のうちにある、闇雲な、盲目的な生命感のようなものが表現されているだろう。後者の「夏の空」は、昼の空と解するか、夜の空とするかで読みが異なってこよう。語の本来に即して昼の空であるとすれば、「電源を切られし」とは、真夏の殺人的なまでに暑く、明るい空に打ちのめされた人間の嘆き節ということになるだろうか。夜の空とすれば、空をTVやPCの画面に見立てた機知が前に出る。
熱帯夜自販機が背伸びをする
地平線のかなたから来る私
桜咲くとき人間はみなカタカナ
空蝉に昼の海が残っていたり
真空パックの私は春雷を呼ぶ
水のない水槽が好き ある日
立方体の師走が空に浮かんでいる
秋立つ日置き去りにされてしまった
かなかなかな図書館にしゃがみこむ
次に、定型性がある程度前面に出ているものの、なお破調の様相を呈する句を挙げた。これらの句の青春性の表現は、かなり自在かつリアルで、この句集でいちばんすぐれた一群かと思う。「自販機が背伸びをする」「人間はみなカタカナ」「真空パックの私」「水のない水槽が好き」といった独自の感覚性が、同時に、普遍的な時代感情ないし世代感情の表出となっている。
柳散る続きは僕が綴ります
風花や行方不明の顔になる
孵卵機や木枯しだけを耳にして
真冬日や電子レンジの東京都
秋暑し箱の形の姉妹
水無月はタカマガハラを追憶す
早春を抱くだけ抱いて金属音
白線を踏み外さないように 冬
初夏や水平線のピアニスト
最後に、五七五定型による句を挙げておく(七句目は一字余り、八句目は句跨りだが)。数字の表記について、重箱の隅をつつくようなことを言ったとはいえ、高遠朱音の句作りは本質的な点ではかなり丁寧なのではないかと思う。実際、季語の斡旋にもほとんど狂いがないし、「箱の形の姉妹」なんて、隠喩の見本のような的確な表現もある。「電子レンジの東京都」という比喩については、前田弘の序文に言及があるので引いておく。
朝、八時過に一斉にオフィスに吸い込まれ、五時になるとそこから吐き出されるサラリーマン。真冬日の東京都に巨大な電子レンジを連想する。高校生らしい批判精神である。
ここでサラリーマンと言ってしまうのは、誤りとは言わないまでもまたしても前田のイデオロギィッシュな勇み足なのであるが、しかし、「真冬日の東京都に巨大な電子レンジを連想する。」という読みの枠組みには、従うのにやぶさかではない。薄暗い窓の向こうに飛び交う電磁波という不可視のエネルギーに、どんよりとした冬空の下での何千万もの人間のうごめきが見立てられているということか。ちなみに池田澄子は、栞文にこう記している。
一句一句定型を壊しながら、しかも一句として立たせようという、ここで彼女に、個としての自分の強い意思があったかどうか。全てはそこに掛かっていよう。その意識と意志があった上での結果ならば、それだけでも意味がある。それがあってのものならば、怖れるものは何もない。
「その意識と意志」はあった、少なくともある時期以降はあったに違いないと評者は思うが、この句集の表現が高遠朱音個人の青春性とあまりに直結しているために、青春性とある程度距離を生じてしまった人間には、それが「意識と意志」抜きの、自然発生的・無意識的なものなのではないかという疑いが生じてしまうのもやむをえない。池田の栞文全体に、珍しくやや腰の引けたとまどい、評価の揺れのようなものが見て取れるのはそのためだろう。その疑いは評者もまた共有しなかったわけではないが、ともあれ今だけしか詠めない世界を詠みきった、紛れもない名誉の句集である。
*高遠朱音句集『ナイトフライヤー』は、著者より贈呈を受けました。記して感謝いたします。
■関連書籍を以下より購入できます。
0 件のコメント:
コメントを投稿