2009年4月5日日曜日

閑中俳句日記(1)

閑中俳句日記(01)
永田耕衣句集『自人』


                       ・・・関 悦史


「閑中俳句日記」というのは、私が外でやっていた句集紹介用のブログである。

句集というのは入手や閲覧自体が容易でないものが多いことから、面白いものが出てくると某SNSの中で句を引いて紹介していたのだが、勧めてくれる人があって外部ブログに移り、句集一点につき20~30句ほど抄出して、言いたいことがあればコメントを付すというのを、散歩のように気のむくままに続けてきた。

それが今回さらに高山れおなさんのお誘いで、豈weeklyの中に連載記事として引っ越すことになった。高山さんは「三本の矢」の例えまで持ち出されていたが、毎週となると気忙しそうで週が明けるたびにいたりいなかったりするシュレジンガーの猫のような矢になる可能性もないではない。

なお外部ブログは外部ブログで当面「別館」として残すことにした。気の向いたときに少量でも記事を上げられる自在さもあるし、今後俳句と無関係な本を取り上げるといった可能性もある。

引越1回目は永田耕衣最後の句集『自人(じじん)』である。

耕衣は没後まだ全句集も出ておらず、どれとどれを読めばその句業に一通り目を通したことになるのかがまずよくわからないので、弟子であった鳴戸奈菜さんにお聞きしたことがあり、平成8年に姫路文学館で開催された特別展『虚空に遊ぶ 永田耕衣の世界』のパンフレットのコピーを送っていただけた。

以下はそのパンフレットから出版年次順に再構成した句歌集一覧である。第8句集の『冷位』が昭和57年と、第10句集『殺祖』の昭和56年より後に出たことになっているが、これはパンフレットの記載のままである。


第1句集…『加古』(かこ) 昭和9年 鶏頭陣社発行
第2句集…『倣霜』
(ごうそう) 昭和13年 田荷軒発行
第3句集…『驢鳴集』
(ろめいしゅう) 昭和27年 播磨俳句会発行
第4句集…『吹毛集』
(すいもうしゅう) 昭和30年 近藤書店発行
句文集……『梅華』 昭和33年 琴座俳句会発行
……父母に因む180句、散文3篇、父母の写真収載。
第5句集…『與奪鈔』
(よだつしょう) 昭和35年 琴座俳句会発行
第6句集…『悪霊』
(あくりょう) 昭和39年 俳句評論社発行
選句集……『永田耕衣句集』 昭和42年 「海程」戦後俳句の会発行……戦後俳句シリーズ第1巻、既刊及び未完の句集から200句選出。
拾遺集……『真風』 昭和44年 瓶の会発行……初期句集。『加古』『倣霜』の句と拾遺句266句。
第7句集…『闌位』(らんい) 昭和45年 俳句評論社発行
全句集……『非佛』 昭和48年 冥草舎発行……既刊及び未完の句集より1235句を収録。
歌集………『金色鈔』 昭和49年 南柯書房発行……唯一の歌集。47首収録。
第8句集…『冷位』
(れいい) 昭和57年 コーベブックス発行
第9句集…『殺佛』
(さつぶつ) 昭和53年 南柯書房発行
間奏句集…『肉体』 昭和55年 南柯書房発行……『殺佛』以降、昭和53~54年の50句を収録。
選句集……『自選 永田耕衣句集』 昭和55年 芳林社発行……『加古』~『殺佛』の8句集と未完句集より502句収載。
第10句集…『殺祖』
(さっそ) 昭和56年 南柯書房発行
第11句集…『物質』
(ぶっしつ) 昭和59年 湯川書房発行
全句集……『永田耕衣俳句集成 而今』
(にこん) 昭和60年 沖積舎発行……『加古』~『物質』より2016句を収録。
第12句集…『葱室』
(そうしつ) 昭和62年 沖積舎発行
第13句集…『人生』
(じんせい) 昭和63年 沖積舎発行
第14句集…『泥ん』
(どろん) 平成2年 沖積舎発行
選句集……『生死』
(しょうじ) 平成3年 ふらんす堂発行……『加古』~『葱室』より380句を収載。
選句集……『永田耕衣』 平成4年 春陽堂俳句文庫……『加古』~『人生』より300句を収載。
第15句集…『狂機』
(きょうき) 平成4年 沖積舎発行
選句集……『永田耕衣造語俳句鈔』 平成5年 湯川書房発行……『加古』~『狂機』以後の句から造語句299句を選出収載。
選句集……『続耕衣百句』 平成7年 湯川書房発行……吉岡実編『耕衣百句』の後を受け『殺佛』~『自人』より100句を選出収載。
第16句集…『自人』
(じじん) 平成7年 湯川書房発行


最後の『自人』という句集は全然馴染みがなく、隣の県の図書館にあったのが都合がついたので借り出し、全句打ち込んだ。今回そこから抄出したのだが、最早どういう基準で選出すればいいのかもよくわからない句集なので、次に選んだらまた全然別な句が並ぶ可能性もある。

永田耕衣については朝日文庫の選集などでは読んでいたし、代表的な名句は知っているつまりだったのだが、最近『驢鳴集』を通読してみて少々印象が変わった。

全篇が連作というわけではないにも関わらず、句集全体が粘菌のように連続しており、その蠕動に盛り上げられるようにして、その頂点によく知られた「夢の世に葱を作りて寂しさよ」「うつうつと最高を行く揚羽蝶」といった句が位置しているというふうに見え、あまり有名ではない句たちと絡み合って多次元的な連続性のなかで互いを支えているように見えたからである。こういう要素は選句集で名句だけ見ていたのではわからない(他の句集を幾つか見た限り『驢鳴集』がとりわけそうした要素の強い句集だったのかもしれないが)。

『自人』もそうした連続性が強くて、良い句だけを引こうとするとその前後の句がみなくっついてきてしまう。
例えば次のような局面。

牡丹の土中かがやく西日かな

落際の西日巨大に頷きぬ

頷くを見たか見たかと西日落つ

(わい)頷く*分つたかと西日落ち込みぬ

ここではまだ3,4句で済んでいるがもっと大きな塊があちこちにあるのだ。

単独で鑑賞が成り立つ句も無論沢山あって、阪神大震災遭遇後、耕衣の特集をNHKテレビで1,2本見かけたが、それらで紹介されていた次のような句も『自人』に収録されている。

踏切のスベリヒユまで歩かれへん

鰊そばうまい分だけ我は死す

少年の死神が待つ牡丹かな

白梅や天没地没虚空没

「スベリヒユ」や「鰊そば」での平俗な日常性にやすやすと介入する無限性、「少年の死神」の句の清潔で豪華な卓絶したエロス等個別に充分鑑賞しうるが、ただし有名な「白梅や」についてはそのあと以下の句が続くのだ。

大地危地のみなりきはや梅の花

死心地
(しごこち)の肉体の夢梅の跡

共に死ねぬ生
(なま)心地有り裏見の梅

(なま)虚空たる親切品を舞踏哉(かな)

以前紹介した城戸朱理氏の耕衣論に、無限の広がり、その「途中」性に置かれた生体が衰弱していくという耕衣句の特質が「行けど行けど一頭の牛に他ならず」などを引いて指摘されていたと思うが、『自人』を読み通すという体験は読者がこの「牛」になるというに近く、楽しみつつもへとへとに消耗させられる。耕衣は弟子の精気を吸い取るとは以前から聞いていたが、当人没後もそうした事情に本質的に変化はなさそうである(もう一つの困った副作用として、耕衣を読んだあとで他の句を見ると自作を含め、妙に平板に感じられてしまうということもある。自作の選句など出来なくなる)。

句集踏破の経験を全部実況的に書き起こしていったら、もはや散歩どころではなくて大旅行記、それもカルヴィーノの『見えない都市』のような非在の地の旅行記を一冊書かなければならなくなる。

ある楽曲が頭こびりつき、人知れずそればかり反覆しているような状態になることがあるが、この句集で「佚老もて鉄橋過ぎつヤイ夏天(かてん)「全身菜化(さいか)してや死ぬべし夏天翁」なる句に挟まれている次の一句に私は最近取り付かれてしまった。

ラーメンに胡椒(こしょう)が在つたヤイ夏天

名句とか駄句とか上手いとか下手とかがどうでもよくなるような句で、何でこんなものに憑かれたのかよくわからないのだが、こんな句でも寓意性のなかにとりこまれた「夏天」への唐突な呼びかけで、主体を全円的に無限に拡大し、その中に安らいながら同時にその中心にその都度の己を機能のように生成させる「随所に主となる」という禅機がちゃんと取り込まれていて、「野狐禅」を口にしつつも耕衣の禅の体得(または句得とでもいうべきか)が相当の深度においてなされていたと窺い知ることができる。

姫路文学館のパンフレットには載っていないが、この『自人』のあと『永田耕衣続俳句集成 只今』(湯川書房、平成8年)というのが出版され、その巻末には「未刊集・陸沈考」というのがさらに計202句ほど収録されているそうである。

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源流の貧をば喫す心延びて

淵老いて源流恋いや天の川

礼の如し源流の平明然たるは

洪水や鐘のへそなど睨み暮れ

洪水やわれ珍品のごと閑か

   *生死境涯賦入品*入院雑記
触り得し海を見ざれば骨の秋

晩夏の朝まだ生きとる実存怖し

生きて居る実存を損ず秋の暮

大腿骨マル折レノ秋深キカナ

構造身尽
(シンジン)大地先(マン)ズリアリズム

リアル神
(しん)遍満す泥鰌も秋風も

リアル全機深秋痛し有難し

暗黒
(あんぐろ)自覚実存揚羽極楽*サイナ

極楽*サイ
ナ黒明彩(こくめいさい)の揚羽哉
  註*サイナ(感動詞)=そうですね・仰せの通りなどの意。

洪水の平面渡る昆布屋かな

異彩はや山河総出の黒揚羽よ

痴鈍人
(ちどんじん)祝*骨折場のタイル
  註*痴鈍人=禅的教義底を完全に脱落した人のこと。

何も秋も収斂(しゅうれん)旭寿翁骨折

西端に居る太陽や老の松

冗談に空蝉個個に歩きたり

狒狒神通(じんづう)して夕顔と暮らしけり

(ワイ)ガ秋ノ暮ヤ御殿ヤ*ドナイヤ云ウネン

秋の暮を御殿としたり後
(のち)叱す

やんま*死後成長を宣(の)り黒変す

命終
(めいし)もうてから成長するんだ秋の暮

未完即
(そく)完の大過去秋の暮

人生の生暮(なまぐ)れの秋深きかな

(シ)カレ唄(ウタ)無カリキ老猪猪猪(ロウチョチョチョ)ン猪(チョ)

恐縮だが我汝(な)をば愛す寒すずめ

云うたら然
(そ)やろ季語もみな人類や

近近と太陽落つる根深かな

朝顔や糞
(ふん)出でざれば無能なり

秋風が老物
(ろうぶつ)我をおツと毟(むし)

当たられて鐘恥かしきやんま哉

朱音
(しゅおん)(た)つ宇宙止まりのやんま哉

深秋や空間
(くうかん)を吹く少しの我(われ)

何事も無く逃亡す初日人(はつひびと)

筒寒き葱の少年菩薩かな

暮れて彼我大塊たらむ春の暮

風に出て冬草欣求
(ごんぐ)半狂翁

民族のカオスや松や大薄氷

南無初湯即佚老は睾丸祭

睾丸の精神赭(あか)し大旦

鏡餅我一人
(いちにん)のむれたらむ

歳月をしやぶり老い来つ鏡餅

風何に恋
する*鏡餅の他(ほか)

白けけり痴
漢*鏡餅粗なり

鏡餅佚老今日写り終る

白梅の使い残しの頭脳でも

人類の海と思うて若葉かな

鬼百合も虚空も馬脚露わなり

今日放屁一発も無し池暑し

虚空癖(へき)だろう巨雹が跛翁(ひおう)打つ

断腸という腸戯
(わたざ)れがある秋風

碧落や我が腸戯れの腸歩き

陽の腸と思い朽ちてや秋の風

実存は腸の閃く露命かな

死神の袖からのゴミ微妙なり

葱隠れ葱見人ぞや而今の我

 現代即老人風物風景を、たとえば汐騒シオサイというが如くに〈老騒オイザイ〉で親しんでみた―五句
水甕も氷菓も老騒
(おいざい)亦娯し

老荘も老騒の伝
(つて)を夏の海

時代空蝉コレクシヨンなり老騒や

出目金も老騒の時潜りはや

老騒の時代過ぎにきさくらんぼ

洗わねば西日桐下駄いつまで待つ

   死神茶化し考

松は緑死神賞は死神に

朝顔も死神某
(ぼう)なむデハまたね

死神の蠅神鈴に移りたる

人暑うして死神が死ににけり

死神に死神が憑く鯰かな

死神が死んで居るなり百日紅
(さるすべり)

蟠桃は玄牝(げんびん)たりき秋の暮

枯草の火の雑音の思いかな

   陸沈居士自讃 二句
老朽われ生
(なま)惚れ冬草に枯草に

六歳翁まんだ生きてま福寿草

人生を抱き枯れの大葎かな

親しみは孤独なりけり昆布の世

激突の臭猪の相忘れかな

枯れ行くや少年大の鏡もち

姥桜散華名宣
(の)りは地球かな

姥桜散華未完の有時のうろ  
※「うろ」に傍点

(はく)梅的放尿感たり生死われ

勃如
(ぼつじょ)われ九十四翁揚羽蝶

勃如わが世界起
(せかいき)の貧(ひん)若葉騒

我ならぬ我探しだよ淵の梅

(こわ)し釈迦老漢の眉戯(びぎ)枯むぐら

薄氷の噛みつき合うて勃起せり

薄氷のいろうて居れば穴あきぬ

薄氷の平面錯雑非ずかな

錯雑を以て裏とす薄氷

人間
(じんかん)の遠薄氷の時間かな

烈日を古典としたる珈琲哉

古典的烈日を機す麦酒
(ビール)

烈日即古典に興ずウーロン茶

自人ゆえ葱の影附く寂しさよ

万葉の相聞殺気秋の風

てのひらの素ッかみなりの匂いかな

無眺めの無無の無の無や冬の海

亡妻のカオス往来
(おうらい)しつ大旦

(なま)で死ぬこの一つ芸蓬となれ

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