今井聖『ライク・ア・ローリングストーン ――俳句少年漂流記』を読む
・・・高山れおな
俳句は書かれた言葉だけで読まれるべきで、作者の人生や境涯などは作品の価値とは関係がないという考え方がある。理論としてはむしろこれが現在の主流の態度で、読解の現場ではしかし作者の人生や境涯をなし崩し的に導入しながらの読みが施されている、というのがだいたいの状況かと思う。もちろんこうした、いわゆるテキスト論的な態度はなにも俳句の専売特許ではなく、半世紀来の小説を中心とした文学の読み方一般の中に位置づけられるものだ。評者自身はむしろ俳句は書かれた言葉だけ読んでも大して面白くないとハナから思っているクチで、〈自分はそれだけで事足りる作品を産んだと思う者があれば、それは傲慢も甚だしい烏滸(おこ)の沙汰である。どんな高度な作品も人生との関係によってしか価値がない。それらの関係をよりよく把握すればするほど、いよいよますますわたくしは作品に興味を持つ。〉(*1)といった言葉の方に親しみを感じる。
そのようなわけだから、『ライク・ア・ローリングストーン――俳句少年漂流記』を読むと今井聖の俳句そのものに対しても「いよいよますます」興味を掻き立てられることになるのだけれど、その興味が必ずしもストレートなものではなく、それなりの屈折の色を帯びるらしいのは、今井と評者それぞれの党派性のためだろう。帯には「抱腹絶倒! 70年代の青春記」とあって、確かに本書は若い日にありがちな鬱屈と愚行の記録集の趣もあり、中には笑える話もあるものの、率直に言って全体のトーンは暗い。非常に読ませる作品であることは確かで、俳句という特殊な要素を度外視しても全共闘世代の最後尾に属する人物の青春記として一読に値する出来だと思うが、もちろん俳句をやっている人間にはなおのこと参考になる話題が多い。本書は今井が主宰する俳誌「街」での連載を元にしており、全体は二十章に分かれている。以下、目次を示す。
目次
「天才」俳句少年の恍惚
「今井君、ホーマーを読みなさい」寺山修司
豚児、出奔す
ジャニスを聴きながら
前衛的二浪生活
雪の北大路通り
寮費タダ、優しくもアブナイ先輩たち
東京戦争敗戦記
リアルの探求
ラーメン代を借りた友の指名手配
女子大生はタダ、しかも交通費つきの銭湯
働くことのリアリズム
楸邨の「寒雷」と戦争責任
「小野田少尉と重信房子のために」
うつくしや障子の穴の……
刹那的に明るい婦人服会社で働く
就職のためにクリスチャンになるも……
ディオゲネス的生活
秋桜子と楸邨のテニスマッチ
「しずかにするだが」
今井に関して評者が前々から気になっていたのは「モダンオヤジ」批判で、その核にはどうやら寺山修司に対する憎悪があるらしい。寺山批判は公の発言でもいくたびか見たところであるが、私信でまで言及があったのに驚いたことがある。今井は評者などが句集を送っても丁寧に葉書を呉れる人でもあるのだが、その書きぶりからするとどうやら評者の作品を好ましく思っていないようなのはいいとして、文中になぜか寺山の名が出てくる。こちらとしては、良くも悪くも、寺山修司と二枚に重ねて斬られる覚えはないのだが。たしか「狩」誌だったかに、人を褒める時に必ず寺山を引き合いに出す俳人がいたはずだから、うまく釣り合いがとれているには違いない。ちなみにその「狩」俳人は一九四七年生まれで、今井は一九五〇年生まれ。正負の別はあれ、寺山が一種の世代的なイコンになっているということなのだろう。
それにしても今井はなぜそんなに寺山が嫌いなのか、もしや個人的な恨みでもあるのかしらんと揣摩臆測をたくましくしていたところなので、こんどの本にはそのあたりの事情も書いてあるだろうかとひもとけば、案にたがわず「『今井君、ホーマーを読みなさい』寺山修司」と章が立てられているのは、上の目次の通りだ。読んでみると、両者の間には個人的な関係などは存在せず、その点では期待は裏切られた。しかし、まったく接点が無かったかといえばそうではなく、今井が高校一年の時、中学時代から投句していた学習雑誌の俳句欄の選者が楠本憲吉から寺山に替わり、それをきっかけに何度か手紙を書いたのだという。すでにして好意からの手紙ではなく、敵意からの手紙である。
寺山のアジテーションは当時熱狂的に若者に受け入れられた。寺山は前衛であり、反権力であり、インテリジェンスであり、異端であって、啓蒙的であった。それはその当時も感じていた。だからこそというべきか、ど田舎の十六歳はその挑発に乗るわけにはいかなかった。自分は過疎県の片隅で笑われながら俳句を書いている。その屈折感のぶつけどころに寺山の「異端」は答えを与えてくれなかった。これは寺山への嫉妬というべきだったろうか、否(いな)、僕は屈折の度合いを問題にしていたのだと思う。
今井は、〈否定を繰り返すことによって戻ってくる地点は以前と同じに見えて同じではない。その否定の反復のうちに自己表現は鍛えられるのではないか。〉とも述べており、これはとりたてて独創的な意見ではないが、寺山には「否定の反復」が不足しているとみなすのはそれなりに独創的かもしれない。
俺はそんなにダボハゼのようにはひっかからないぞ。第一、お前の俳句なんか知らないぞ。あんたに俳句欄の選者になる資格があるのか(寺山修司の俳句は、当時ごく一部の寺山マニアにしか知られていなかったと思う)。
そんなことを僕は長々と書いて、選者寺山修司に書き送った。そんな手紙を二、三通も書いたろうか、ついに或る日、投稿欄の誌面に寺山からの返信が載った。
自分は、これこれこういういきさつで俳句も書いている、という説明があって、そのあとに、「今井君。細かいことをこせこせ言わずに、ホーマーの『イリアッド』や『オデッセイア』でも読みなさい」とあった。
世界に目を開け、古典を学べということなのだろう。
こういう青年客気は少しも嫌いではない。それにしても、自分はダボハゼではない、自分は特別だと思うのは典型的な青春性のあらわれで、しかも後に京都や東京で「天上桟敷」の芝居を見たことを回想しながら〈青春性の「一典型」として微笑みながら観たというしかない。〉などと書き付ける今井の現在は、みずからのかつての典型性に適切な距離を保ちえているのだろうか。そこがどうもよくわからない。
寺山の短歌も俳句も大方はうそ臭くて演出過剰で今でも好きにはなれないけれど、僕が本当に嫌いだったのは、寺山自身ではなくて寺山ファンの若者たち。実は寺山ファンに象徴されるアンチ定番派の「若さ」だったのかもしれない。「暴力」や「夭折」や「無頼」や「反権力」のレッテルが貼られると途端に認めてしまう同年代の「若者たち」。それを食いものにするモダンオヤジたち。人間の意識というのは、もっともっと何重にも問い返され屈折したあげくに、含羞をもってどこかに到達するようなものではないのか。
このような整然たる叙述はおそらく若き日の今井のよくなし得るところではなかったはずで、なんだか今井の青春が甲羅を経た筆にとりついて、今さらに語り始めたかのようだ。繰り返すが、同世代に対するこうした優越意識、自分だけが「若者たち」を食いものにする「モダンオヤジたち」の意図を見抜いているというこの種の意識のありようをこそ青春と呼ぶ。問題は、それが四十年程も前の回想である以上に今井の現在の意識として読めてしまうところであろう。もちろん「青春性の『一典型』」などとして解消できない要素も今井にはあって、それは今井が俳句を作る少年だったという、他ならぬその事実である。
今井は生まれこそ新潟県ながら、先に引いた文中に「自分は過疎県の片隅で笑われながら俳句を書いている。」とあったごとく、その少年時代を鳥取県で過ごした。学校の授業で〈ほととぎす大竹藪をもる月夜 芭蕉〉や〈うつくしや障子の穴の天の川 一茶〉などの俳句を知り、〈芭蕉の一句は大小説家の一編に勝る。〉などと説明を受けた少年は、〈理屈はわかるが、これが俳聖と言われるほどの作品かいな、この程度俺にもできるがな〉と学習雑誌への投句をはじめる。旺文社発行の「中二時代」に短歌一首・俳句一句を投じたところ、短歌は没になり、俳句〈青空にひばりがひとつ伯耆富士(ほうきふじ)〉が石田波郷選の第一席に入った。
一番近い中学校まで、自転車で三十分もかけて通わねばならないほどの片田舎の十四歳はこの入選で有頂天になった。
俳句で身を持ち崩す(?)人間の誰もが最初にする経験だけれど、親が俳句をやっていたわけでもないのに、これが中学二年の時だったというのはさすがに早い。ゆきつけの床屋の主人がたまたま「ホトトギス」の投句者で、句会に連れて行って貰えたのはいいとして、参加者の平均年齢が六十歳代というのは、現在だって変わらぬ風景とはいえ、少年の孤立が思いやられる。評者が俳句を作り出したのは大学三年くらいだから、〈クラス替えなどの後の自己紹介で趣味が俳句だと言ったときの皆の爆笑はその孤独感を一層強めた。〉といった事態こそ避けられたものの、今井少年の気持ちはおおよそ察することができる。
さて、以後は学生運動の影響を受けてざわつく高校時代、予備校に通いながらの京都での二浪時代、東京での大学生活、いったん就職したのち学士入学で大学に戻り、最後は横浜高校の英語教師として採用されるところまで、より正確には就職からほどもない母の死の情景と、追悼の句までが本書でつづられる。全体のトーンの暗さの原因は、筆者の両親との関係と学業不振にあるのだが、これほど明晰な文章を本一冊分も書ける人間が、〈明治学院の合格通知を手に米子に帰った僕を、父はやけ酒をあおりながら迎えた。「メイジガクイン? 二年もやって専門学校かあ」〉と帝国大学出の父親に罵られる状況に陥るというのが、読んでいて最も理解し難いところであった。いくら俳句にうつつを抜かしていたにせよ、である。寺山とのやりとりに見たように、考えなくてもよいことを考えすぎる性格のせいかとも思うが、ともかく今井聖が受験にかくもてこずったというのは謎である。なにしろ、五十歳をずいぶん過ぎていながら、〈いまだに試験場の中にいる夢を見る。/広い教室会場の真ん中でストーブが焚かれ、近くに坐っている僕は熱くて集中できない。〉と記すのであるから同情に堪えない。第二句集『谷間の家具』(*2)にも、平成三年の作として、
冬満月遠き試験の夢に覚め
という句が載っている。傷の深さに加えて、高校教師という職業柄、みずからの受験時代の記憶が再帰してくるような情景を毎年見なくてはならないせいもあるのだろうか。
本書の記述が終わる一九七八年に今井は二十八歳だったに過ぎないが、それまでに重ねられた俳句体験の濃厚さにはやはり感心する。すでにふれた波郷、修司、また米子での最初の俳句仲間である芹沢友光(ゆうこう。先述の床屋の主人)、句会を指導してくれた村穂文哉(ぶんさい)。芹沢に散髪して貰ったあとで、代金がわりにとやおら自作の短冊をとりだして喧嘩になる田舎俳人などというのも登場して、これこそ古い“俳諧師”のあり方の残影のように思う。さすがに今では日本中探してもこんな人は見つからないに違いない。〈お年寄りばかりの句会〉に〈颯爽と現れた〉三十代半ばの曽我部堯利(たかとし)からは「青玄」誌を見せられ、早くも頭角を現しつつあった坪内稔典(今井より六歳上)の活躍に強い印象を受けている。その曽我部の尽力で、地元の公民館の句会に現われた「青玄」主宰の伊丹三樹彦が、今井が〈「中央俳人」というのを目にした最初〉で、お供でついて来た同誌同人の陰山久夫から貰った〈コリーと少女が出ていったきり 異人館〉という短冊は、護符のように今井少年の部屋に飾られるのだった。
そういえばだいぶ以前、「俳句研究」の座談会で評者は今井と同席したことがあって、テーマは金子兜太だったかと思うが、兜太はなぜ放哉ではなく山頭火の方を評価するのかという話になって、今井が放哉について熱心に説明してくれたことがある。自由律にも詳しいのかと感じ入ったが、放哉が鳥取出身だったため今井の通う県立米子東高校の図書館にかなりの数の放哉関連本があったというのも、本書を読んでわかったことだ。ただし、これは山頭火や放哉が有名になる以前の話で、今井少年は〈それにしても奇妙な俳句があるもんだと思って読んでいた〉というのも可笑しい。なお、放哉は幼年期を鳥取市立川町一丁目九十七番地で過ごしており、今井は六歳から十二歳まで同じ町内の一丁目八十八番地に住んでいたのだそうだ。こういう機縁の風景は、他人事ながらなにやら有り難いものである。
山口誓子に心酔していた今井は、京都での浪人時代、天狼本部句会に参加して、〈憧れの山口誓子の姿〉をはるか彼方に瞥見するようなこともしている。誓子は、評者が俳句をはじめてからでも五、六年は生きていたのだから、評者だって同じように出来たはずなのに、そんなことは露にも思わなかったのは今さらながらもったいない気がする。誓子は関西だからというのはとりあえずの言い訳でしかなく、例えば関東にいた加藤楸邨の姿も結局評者は見ていないのだ。こういう自らの腰の重さというか引っ込み思案も、若い今井のフットワークの軽さに引き換えて改めて反省されるところだ。まあ、直らないと思うが。
今井は、〈山口誓子に出会って、僕は初めて同時代の感覚を俳句の中に見出した思いであった。〉と、自らの“誓子発見”を特筆している。さらに、
今でも、僕は誓子を、俳句の現代を拓いた最大の俳人と思っている。子規以後というより、芭蕉以後で、それまでの俳句とまったく似ても似つかない、それでいて俳句でなければ表わすことのできない詩情を示し得た俳人は誓子しかいない。
とまで評価しているにもかかわらず、今井が師に選んだのは誓子ではなく楸邨であった。本書をひとりの俳人のビルドゥングスロマンのごときものと考えれば、実はこの選択こそが最も本質的な主題なのだと言ってもよいだろう。実際、なぜ誓子ではなく楸邨なのかについての回顧・考察は、おのずから著者独自の誓子論・楸邨論となっていて、ある俳人がある俳人を師に選ぶとはどういうことかについてのサンプルとしても生彩に富む。いやそれだけではなく、寺山修司についての記述もひとつの論であったし、坪内稔典への言及もまた鋭い。 おりおりに差し挟まれる、こうした俳人論も本書の読みどころである。
稔典さんの師伊丹三樹彦さんの「青玄」の主張の新しさは、「分ち書き」と現代語表記の二点。/それでいて、内容は近代のリリシズムから離れない。/そういう意味では、「古壺新酒」ならぬ「新壺古酒」が「青玄」の特性であり、稔典さんの原点になっていると僕は思う。
「現代語表記」という言葉が意味不明ながら、基本的にはもっともな指摘だろう。ついで金子兜太と坪内の第一句集を比較してはこう述べている。
『少年』が、「戦後民主主義」の御旗を奉じて、経済の高度成長に突き進んだ時期の「個」を描いたと見るなら、『朝の岸』には、その「戦後民主主義」や政治体制、そして自分の存在も含めたあらゆるものへの懐疑を「個」の中に引き込まざるを得なかった苦渋が見える。
寺山に対する点の辛さに比しての坪内に対するこの共感ぶりは、少なくとも評者には意外だった。ネンテン氏はモダンオヤジではないのらしい。しかし坪内がモダンオヤジでないとすると、寺山の他に誰が代表的モダンオヤジになるのかというと、それは高柳重信のようだ。今井の党派性に、評者の党派性が最も反撥を覚えたのは、主に高柳をめぐる記述で、何しろ、
僕は、寺山修司も岸上大作も高柳重信も「京大俳句」も嫌いだった。彼らの魅力を口にする人たちの意識を軽薄短慮に思い、その互いの了解ぶりを苦々しく思った。
とさえあって、これは本書がカヴァーする十代から二十代にかけての意識として記されているわけだが、その後、楸邨に師事する過程で高柳への敵対心はより尖鋭になっていったはずだから、後に明確化された認識を時間を遡るかたちで提示している可能性はあるだろう。高柳は他にも何度か登場している。例えば田川飛旅子の「陸」誌の編集を手伝っていた著者が、田川に叱られる場面。〈珍しく不機嫌〉な田川に、今井は鈴木六林男からの手紙を渡される。
内容は、少し前の「陸」誌に書いてもらった六林男さんの文章が楸邨門や田川さんに対して好意的なのに、「俳句研究」に書くときは「寒雷」系に厳しい。ひとりの評者としてこれはおかしい。ということを僕が「陸」の編集後記に書いたことに対する六林男さんからの抗議文だった。
「俳句研究」の運営者兼編集長、高柳重信さんの楸邨嫌い、「寒雷」嫌いは周知のことだった。とにかく、「戦争」の傷痕を抱えたリベラルで狷介なおのれを「売り」にしている六林男さんとしては、「俳研」に書くときは重信さんの顔色を見なければならず、「風」時代に仲間だった田川さんの雑誌に書くときはそれなりの好意を示さねばならないのだろうと、僕はそういうふうに取ったのである。しかし、それを「陸」の編集後記に書いたのはまずかった。本来なら編集部として御礼申し上げる立場である。
今井が鷹揚さの徳に見放されていることは、若い時代の些事の数々をいかにも鮮明に記憶している事実が如実に証していよう。しかしそれにしてもこれは、高柳についても鈴木についてもずいぶん矮小化した書きぶりであって、今井という人のある種の誠実さと裏腹の小ささを感じないわけにはゆかない。そういえば攝津幸彦についての言及もあり、おなじ同世代でも坪内に対するのとはいささかニュアンスの異なる、奥歯にものの挟まったような言い方になっている。大学の演劇サークルに協力したエピソードにつづけて現れるのは、こんな記述。
当時のアングラ芝居は戦争に材をとった設定が多かった。太平洋戦争とかベトナム戦争とか。
戦争の狂気を基盤におけば、テーマ性が豊富で心理的な屈折感も容易に出せたせいだろう。それに衣裳や大道具、小道具が安上がりだった。だから、ほぼ同世代の摂津幸彦さんの
南国に死して御恩の南風 幸彦 (*3)
のような句を見ると、アングラ芝居を思い出す。この句、摂津さんが、戦死者の無念を自分の無念として表現するという意図で書いた句ではないように見える。アングラ劇や「南の島に雪が降る」のような芝居から想を得た句に違いない。だからこの句は反戦の作品と取るとむしろ薄っぺらなイデオロギー俳句になる。僕は六〇年代に流行した通俗的なムードを書いた句と取りたい、世代的にも、屈託のない表現からも。摂津ファンの方には異論があろうが。
異論があるもなにも、攝津の読者は攝津の作品世界をアングラ芝居その他一九六〇年代から七〇年代のサブカルチャー的なものとの類縁性のうちで受け取ってきたはずであるし、攝津自身そのことを少しも隠してはいなかった。その限りでは今井の読解自体はいちおう的を外していないものの、例によって自分だけが知っている風な口吻が行間に漏れているところに、評者の党派性は少しばかり苛立ちをおぼえる。「だからこの句は」の「だから」という接続はとりわけおかしい。単純に「反戦の句」として回収されてしまうような作品は必然的に「薄っぺらなイデオロギー俳句」なのであって、どこから想を得たかには関係がない。その上で付け加えるなら、この句の官能性を味わうために必ずしも「アングラ芝居を思い出す」必要もないのであって、むしろ戦争のモティーフをせいぜい「戦死者の無念」にしか結びつけられないらしい今井の発想力の貧困が、アングラ芝居経由でしかこの句を鑑賞できなくしているのではないか。
表面的には批判めいたことは言っていないものの、攝津の句についての今井の発言が愛からのものでないことだけは明らかだろう。もちろん、今井に攝津を愛する義務などないのだからそれはそれでよいとして、今井のこうした論述の志向が奈辺に由来するのかといえば、それは最終的にリアリティをめぐる今井の考えということになりそうだ。
「人間探求派」、観念派楸邨。人間、つまりヒューマン、そしてヒューマニズム。
これらの連想や印象がもたらしたものは楸邨俳句の本質や「寒雷」登場の意義とずれていたのだと最近になって特に感じている。
楸邨が希求したのは、人間が生きている現実の中で、直接、人や事物や事柄から五感で受け取る「息吹」や「体感」。蓄積された情趣や先入観や既存のロマンを抜けたところにある、その時その刹那の「リアル」そのもの。
人間の生きる意義とか、人間かく在るべしという「教訓」を俳句で述べることなどではない。むしろ、そういう観念とは対極にある一回性の対象との出会い。つまり新しい自分との邂逅。
花鳥諷詠は、日本的固定的な俳句的情緒を季語の本意という言葉にすりかえて「諷詠」し、新興俳句はモダンの名を掲げ、言葉の解放という美名のもとに、古い近代詩的情緒を臆面もなく上塗りした。両者に共通するのは、言葉や風景がもたらす「ロマン」を概念としてもちいること。機知であろうと、揶揄であろうと、批評性だろうと同じ。
なんだか飛躍があってあまり厳密な文章とは思えないが、楸邨を通じて今井の俳句観のキモを披瀝したものであって、これを要するに“リアリズムの擁護”と受け取ってよければ、評者は気持ちの上ではむしろ今井を支持したいほどだ。今井が言っているのは産業資本主義段階のリアリズムで、高度資本主義の現在のリアリティは捉えきれないのではないかという批判はあり得ようが、それを承知で支持する、というのである。が、そこに「気持ちの上では」という保留が付くのは、評者には今のところそのような「リアル」を定型化するための方法論的な道筋が見えないからで、今井にしたところで自ら言うところの花鳥諷詠批判や新興俳句批判を乗りこえた作品を作り得ているのかどうか、はなはだあやしいと思う。
身も蓋もないことを言わせてもらえば、句集に『バーベルに月乗せて』(*4)などというタイトルを付けてしまう今井は、当節の俳壇ではかなりモダンオヤジ臭い部類に入ると思うのであるが、本人にはその自覚はないのであろうか。〈私たちの俳句よ/驀進する「今」という機関車に跳び乗ろう〉というのは、「街」誌の巻頭に掲げてある「街宣言」の一節で、これなぞ未来派や新感覚派の「モダンの名」に恥じないセンスというべきだろう(褒めすぎ?)。なにしろ「機関車」というのが、「古い近代詩」風で泣かせるではないか(*5)。今井が常連メンバーになっている「余白句会」も、モダンオヤジの巣窟でしょうに。でもまあ、そんな話はどうでもよくて、問題はやはり今井の俳句がいまひとつ面白くないというところだろう。これほどの見識と情熱と経験の持ち主の作品が、丁寧に作られている印象はありながら総じて退屈な印象しかもたらさないというのは、それ自体一考に値するテーマだし、本稿冒頭に触れたごとく、その作業も本書を得たことで余程やりやすくなったはずであるが、それについてはまた別の機会に譲りたい。
◆今井聖『ライク・ア・ローリングストーン――俳句少年漂流記』(二〇〇九年一月二十七日刊 岩波書店)は著者から贈呈を受けました。記して感謝します。
(*1)アナトール・フランス「すべての詩は機会の詩である」/『エピクロスの園』所収 大塚幸男訳 一九七四年 岩波文庫
(*2)今井聖第二句集『谷間の家具』 二〇〇〇年 角川書店
(*3)正しくは、〈南国に死して御恩のみなみかぜ〉(『鳥子』所収)。ここでは今井著が「みなみかぜ」を「南風」と誤っているままの形で引いた。
(*4)今井聖第三句集『バーベルに月乗せて』 二〇〇七年 花神社
(*5)蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像 マクシム・デュ・カン論(上)』(一九九五年 ちくま学芸文庫)に、マクシム・デュ・カンの長詩「蒸気機関車」の翻訳が載っている。『現代の歌』という詩集に入っているそうだ。もちろんこの詩もこの詩集も全然重要な作品ではない。
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2 件のコメント:
れおな さま。久しぶりに生きの良い文章、味読しました。今井聖氏がどういうメンタリティの俳人なのかということのなんとなくわかる書きぶりです。
このご本は、人柄(メンタリティ)と、俳人格(キャラクター)の切れてまた付く関係を考える好適なテキストかもしれませんね。
今井聖氏については、私には思い出があります。ご存じのようにあのとおり苦み走ったイケメンでいらっしゃいますでしょ?お作もなかなか硬派の抒情をたたえていて、ミーハーの私は当時ひそかにあこがれていたので、私の最初の本『霧くらげ何処へ』(平成2年刊)を謹呈したのです。程なく、すごく丁寧な字体で返事をいただいて、つづめて言えば、
「堀本様のご意見にはなんの新し見もなく魅力もございません、云々/これからのご活躍ご精進を期待します。」
という内容。刊行への反応には、本当に励ましてくださる方もジョークで褒めてくださる方もおられます。
自分もストレートな人間なので、人のことは言えません。が、どう読んでもジョークとは取りにくい文面。前半も後半も正直なお気持ちなのだと、何しろ初心の頃でして自分の未熟さもわかっているので、 ともかく、今井聖さんの貴重なお葉書をつくづくとながめながら、わが「進むべき俳句の道」の険しさをおもったことです。
これより、もっとじくじくしたばかばかしい陰口がつたわってきていたり。「俺たちのところへ来ても、貴女は水面には泳ぎ上がれないだろう」などと猛烈な電話をくれた人もいたので、今井さんのようなある意味で単純な正直な感想は、毒もなく薬にできるていのものでまだましでしたが。(その含む意味についてちゃんと対応することができますから。お目を汚したことを恥じ入り、精進しようと決意しましたし、いい経験をさせていただけました。)
「今井は評者などが句集を送っても丁寧に葉書を呉れる人でもあるのだが、その書きぶりからするとどうやら評者の作品を好ましく思っていないようなのはいいとして、文中になぜか寺山の名が出てくる。こちらとしては、良くも悪くも、寺山修司と二枚に重ねて斬られる覚えはないのだが。」(れおな文)
これで、私の永年の印象もかなり根拠があるもの、と。はっきりしてきました。
寺山修司さんに飽くことない批判を送り続けたと言う由、好ましく思えない発言があれば、黙っていられないとりわけ厳しい感想を表明したくなるお人柄なのだろう、とわかった次第です。関心の裏返しの表し方、わからぬでもありません。
でもこういう「硬派」(?)の一言居士がおられる俳句界もなかなかたのしいですね。買うかどうかはわかりませんが、良いご本を良い形で紹介しておられると思いました。
読みました。長かった。レスも長かった。結構読むのに時間がかかりました。
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