2009年3月28日土曜日

遷子を読む(1)

遷子を読む〔1〕

・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井


冬麗の微塵となりて去らんとす  『山河』

筑紫:それでは、まず私の選んだ句から始めさせていただきたいと思います。

この句は、遷子の最晩年、昭和50年冬の句です。遷子の亡くなったのは昭和51年1月19日ですが、この句はその1ヶ月半前の11月26日に詠まれたものであることが句帳によって分かっています。遷子はあまり推敲をしない人なのですが、この句は、

冬麗に何も残さず去らんとす

を原案とし、表記の句に改められています。

この句は、句集『山河』の末尾から21句目の作品ですが、多くの読者には、遷子の絶句として受け取られています。例えば、福永耕二は「相馬遷子覚書」という長編評論(昭和51年6月「俳句とエッセイ」)を執筆していますが、その最後を締め括るのはこの句でありました。句集末尾の句は

わが生死食思にかかる十二月

ですから、『山河』は昭和50年中の作品で終了していることになります。ですから絶句といってもそう間違っていることにはならないと思います。最後の作品に価値があるのではなく、遷子その人を彷彿たらしめる句であるかどうかということだからです。そして、まさに遷子その人を彷彿たらしめているのがこの句であるのです。

遷子は無神論者であると思われます(「無宗教者死なばいづこへさくらどき」『山河』)。従って、死んだあとには、死後の世界も来世もありません。こんな虚無の中へ帰って行くのですが、にもかかわらず、「冬麗の微塵」という美しい終末を確信しています。ここらあたりは、「馬酔木」的な俳句の美への信仰というより、武士の風格のようなものを感じてしまいます。死後が何もないのなら、せめて自分の意志で粛然と死んでゆくというのは、とてもできないことながら羨望を感じてしまいます。すでに前回述べましたが、福永耕二の「俳句は姿勢」をそのまま引き受けたような句であると思います。

中西:この二句前に「病急激に悪化、近き死を覚悟す」とまえがきのある

死の床に死病を学ぶ師走かな

という句があります。医師ですから次はどうなるか自分の病状が分かっていたのではないかと思います。原句の冬麗に何も残さず去らんとす」こちらはその時思った素直な気持ちではないでしょうか。戦争体験世代の明治大正生まれの世代は、死に格別なものを持っているように思うのです。家の父なども、昨年11月に亡くなったのですが、やはり医師でしたので、自分の死を知っていたようです。入院する前に手紙、記録類をすべて処分してありました。身奇麗に死にたいという願望を実践したのでした。この句も形あるものは残さないということかと思います。しかし、俳人の部分は句集として残りますね。この矛盾。しかし、この時はすべて消したかったのではないでしょうか。この「何も残さず」を「微塵となりて」に直したのは、やはり本物の俳人なのだと思います。直したことによって、詩が深くなって、ここに美が生まれました。この精神の高さが、相馬遷子の句として完成をみせていると思います。死に直面して、詩人の業が顕在化したと見ていいかと思うのですが如何でしょう。医師ですから今までに多くの死と対峙してきたはずです。ですから、自分に死が訪れたときどうするか、癌と知った時から少しずつ思い描いていたのではないでしょうか。この句は願望です。願望だからこその美しさなのでしょう。

原:生涯を締め括る句が真っ先に来ましたね。磐井さんに「遷子は無神論者」と言われてはっとしました。我々の大方がそうだと思いますが冠婚葬祭の時以外、神仏には無関心というのが普通ですし、ましてや遷子は医師ですから科学的認識の人でしょうしね。死に際して縋るものは無いわけです。だからこそ「微塵」となる、「微塵」でしかない、との覚悟が痛切にひびきます。と同時に、この一句だけ取り出して見ると、峻烈とさえ言いたいほどの意志を感じて近づきがたい思いにもさせられるのですが、たとえば、胃癌を発症した昭和49年の作、

わが山河まだ見尽くさず花辛夷

磐井・義紀両氏の共選でしたが、仮りに、この句と対にして眺めると遷子の郷土愛といいますか、郷土の自然への信頼とダブって伝わってきて、この「微塵」が自然に還る究極の相として、祈りのようにみえてきます。とはいえ、句集では掲出句に続いて、さらに切迫した状況が詠まれてゆくのですけれど。

中七部分の原案が「何も残さず」だったというのは今回初めて知りました。生まな心情の吐露を捨てる。最悪の体調のさなか凄い推敲をするものだと溜息が出ました。この表現の推移について、ご意見があれば伺ってみたいのですが。原句においては、この世に後ろ髪を引かれる思いが全面に出ているのに対し、成案は自分の死のあり方自体を詠んでいる。死という孤独を見据えた先に「微塵」が現れてきたと感じます。

深谷:いきなり最終楽章ですね(笑)。この句は、遷子の作品のなかで最も著名な作品と言えるでしょう。しかしそれ以上に、筑紫さんの発言にあるように遷子という俳人を象徴する作品だと思いますし、敢えて言えばこの一句を残すためにその俳句人生があったのではないかという気さえします。それほど印象鮮烈な句です。そして遷子がこうした境地に到ったのは死の間際ではなく、実はかなり以前から遷子は「自分の死」あるいは「死に様」というものを意識していたのではないかと思います。小生の十句選にも入れました

春の服買ふや餘命を意識して  『雪嶺』

は、遷子が五十歳の時の作品です。ちょうど今の自分とほぼ同じ年齢ですが、余りにも早過ぎる気がします。実際に逝去する18年も前です。若い頃に重い病を患った体験が影響しているのかもしれません。そして、もうひとつ

元日や部屋に浮く塵うつくしき  『草枕』

という句が戦時中函館での病院勤務時代にあります。冬日を浴びて、静かに室内に浮かぶ塵。独断を懼れずに言えば、この映像が40年後、死に臨む遷子の脳裏に蘇ってきたのではないかとも考えます。いずれにせよ、「死んだら富も名誉も一切関係ない。かつて自分が看取った貧しい患者達と同じように、静かにこの世を去っていくのだ」という遷子の覚悟を感ぜずにはいられません。

窪田:今回の「冬麗」の句に触発されて、医者である遷子が、老いや病気をどう詠んでいるのか知りたくなって、句集『草枕』から『山河』までの四冊から「病・老・死」に関係のありそうな句を抜いてみました。患者を詠んだ句は、『雪嶺』が最も多く他の句集では僅かです。遷子自身の病の句は、『雪嶺』までは次第に増えますがそれほど多くはありません。『山河』では急増し昭和49年・50年の作品はほとんど全てが病との戦いの句です。当然と言えば当然ですね。でも、こうして句を並べて見ると、遷子の病・老・死に対する態度というようなものがうっすらではありますが、見えてくる気がしました。大雑把に言えば、生々しい生への執着が薄れ(諦めかもしれません)山河あるいは宇宙へ帰っていくという一種のアニミズム的な思いへ移行していったように思えるのです。

桐の花人死す前もその後も  昭和45年



高空の無より生れて春の雲  昭和49年

の句があるように、遷子の中には自然、宇宙への畏敬のようなものが元々あったと思います。それが山河、自然の美を詠もうという遷子の作句態度に反映したのではないか。同時に

あきらめし命なほ惜し冬茜  昭和50年

などの句を読むと、人間相馬遷子の生々しさを思わずにはいられません。

一方、磐井さんの言われる「虚無の中へ帰って行く」ということもわかります。死を覚悟した遷子の詠んだ「冬麗の微塵となりて去らんとす」は、磐井さんの言われた「武士の風格」を確かに感じます。しかし、今回「病・老・死」の句を抜き出し並べて読んだことによって、遷子の人間らしい弱さと強さに思いが残り、すっきり「武士の風格」と言えなくなってしまったのです。そんなわけで、俳句をどう読むか、どう読んだらいいのかちょっと悩みました。

(参考)富田拓也(「俳句九十九折」26より)
B この句が遷子の句の中では最も有名なものであるのかもしれません。
A 自らの最期をこのように句に表現したところに、なにかしら作者の精神の剛さのようなものすら感じられますね。
B 冬の麗らかに晴れた日、その澄み渡った青い空の下、自らが細かい塵となってこの世界から去っていくということを、ごく自然なものとして捉えているように思われます。

筑紫:メンバーではありませんが、富田拓也氏の、「俳句九十九折(26) 俳人ファイル ⅩⅧ 相馬遷子」をこれからときおり引用させていただきます。いいタイミングで書いていただきました。

いきなり遷子最後の句を取り上げたので皆さん面食らっているようですが、句集の順番通り取り上げるよりはこの方が各人の関心にあわせて研究できるかと思ったためです。前号の10句選を見ても分かるように、ものの見事に各自の選は異なっていました。遷子自身の作品が皆に知れ渡っているわけでは無いということの他に、今回集った参加者の遷子への関心のあり処がそれぞれ異なっていると言うことを意味しているからかも知れません。
例えば、私の関心はおそらく次のような項目に集約されると思います。

①遷子は一流の俳人ではないのではないか。
②ないとしても、一流の俳人にないものがあるのではないか。
③われわれは、たった一人となったとき、俳句とどう向き合うべきか。

こうしたシリアスな質問に、虚子も龍太も答えてくれません。長年俳句をやってきたお蔭で、俳句の嘘や作者のポーズは何となく見抜けるようになった気がします、おそらくこうしたまじめな質問に答えてくれる作家は(楸邨や草田男でもなく)相馬遷子たった一人しかいないように思えるのです。

例えば、今回取り上げた句―――「何も残さず」を「微塵となりて」にあらためる心境は虚飾のように見えなくもありません。しかし、生涯の最後に残す1句のために俳人は俳句を作り続けるとしたら、この推敲はじゅうぶん分かるのです。というよりは、句の是非を越えて、かかる態度に粛然とせざるを得ないのです。

窪田さんの述べられている「遷子の人間らしい弱さと強さ」についてはまた改めて考えてみたいと思います。

冒頭に述べられた中西さんの御父君の体験談は、医師の持つこのような覚悟を身近に述べられていて貴重です。
                      (以上〔1〕終わり)


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■関連記事

遷子を読む はじめに・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井   →読む

俳句九十九折(26) 俳人ファイル ⅩⅧ 相馬遷子・・・冨田拓也   →読む
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