現代俳句のあたらしさとは?四年前の冨田拓也・森川大和
・・・堀本 吟
1 高校生の俳句参加。「俳句甲子園」のことなど。
この小文は、92号(2010年5月23日)からのつづきであるが、初出の掲載誌のスペースに限りがあり、とくに森川大和句集のことが詳しく書けていなかったので、その補注として資料記録の意味もあり、句集を紹介しておく。句集の発行された2002年当時と現在の私の視点にはあまり違いはないが、それでも多少はちがっているかもしれない、ともかく現在の私の位置から書いている。
その時期には、まだ「俳句空間—豈—weekly」のような広汎に広がる可能性のあるネット媒体がなかった。それで、第二回「俳句甲子園」個人最優秀賞と第一回「芝不器男俳句新人賞」の受容者であった二人は、同時に今日の輩出の嚆矢でもあるのだから、その行方は気がかりなものがあった。若い世代が出てくる話題の時にはいつも想い出していた。(冨田拓也の活躍を知ることにはそう苦労はしないが、森川大和との交流は彼が大学を卒業した頃から途絶えている。
遅まきながら、インターネット検索に拠って、ある程度のことはわかった。お元気でいるらしいのが嬉しい。そして当時、作者からいただいた句集は、いまも、平成の若者の俳句の原点として大切な資料である)。
なぜ本文に「俳句甲子園」第一回や二回目の少年のことをもちだしたのか、といえば。それは、森川大和が、最も早い時期、第一回と第二回に出場、第一回は決勝で敗れ、審査員からきついことを言われ、その悔しさから一念発起、第二回では学友を率いて学校優勝と個人最優秀句に選ばれた・・・そういう青春の意地と覇気を実行しているところが気に入ったからである。現在評判を呼んでいる『新撰21』(2009・邑書林)とならべて見ると、本書には俳句甲子園出身者が何人かピックアップされ、これからも活躍するだろう、と思われる充実をみせている。ここには登場しないが森川大和はその嚆矢である。
ばくぜんとした記憶では、俳句甲子園の最初のアイディアは、坪内稔典や小西昭夫達が、たしか小さな規模でトーナメントの句会ライブを開いていた。ある時期に新聞社とか松山市の青年会議所がそれを主催して、全国的に高校単位の出場が増えてきたものだ。当地は、「ベースボール」の訳語をつくった正岡子規の故郷でもある(私の実家もある)。ご存じ松山は俳句のメッカみたいなものだから、高校野球になぞらえて「俳句甲子園」という名称が上手くタイアップしている。俳句にあってこういうゲームがなぜこんなに流行るのだろうか?現実として、俳句のこういう遊び感覚の導入が、次第に俳句人口の低年齢化に答えるようかたちになり、又、それを推進助長する役割を果たしている。
2 俳句甲子園での『新撰21』参加の面々の成績
さて、俳句甲子園で、注目された高校生個人優勝の句、およびその交流圏でよく見かける名前を挙げてみる。
俳句甲子園個人優秀句
第11回 入選句 討入りの日のストローを折り曲げる 越智友亮(甲南高等学校)
第10回入選句 八月の泳ぎ続ける硫黄島 越智友亮(甲南高等学校)
第8回入選句 ハンカチをたたみて母につきし嘘 藤田哲史(高田高等学校)
第7回入選句 かなかなや平安京が足の下 高島春佳(京都市立紫野高等学校)
第6回最優秀句 小鳥来る三億年の地層かな 山口優夢(開成高等学校)
第5回最優秀句 夕立の一粒源氏物語 佐藤文香(松山東高等学校)
第4回最優秀句 カンバスの余白八月十五日 神野紗希(松山東高等学校)
第3回最優秀句 裁判所金魚一匹しかをらず 菅波裕太(愛光高等学校)
第2回最優秀句 朝顔の種や地下鉄乗り換えぬ 森川大和(愛光高校)
第1回最優秀句 秋立ちて加藤登紀子が愛歌う 白石ちひろ(松山中央高等学校)
他の入選句など
第7回坊城俊樹賞 河童忌や火のつきにくい紙マッチ 生駒大祐(高田高等学校)
第6回入選 鉄柵のゴリラ微笑む暑さかな 谷雄介(宇和島東高等学校)
第5回松山市長賞 スクリューの泡間に消えし夏帽子 久留島元(甲南高等学校)
青年会議所理事長賞 冷静な地学教師や夏帽子 佐藤文香(松山東高等学校)
このほかに越智友亮(第3回鬼貫青春俳句大賞授賞)、藤田哲史(俳句甲子園)、等がいて、彼らは、第6回決勝戦では、高田高等学校Bグループの各句と、
河童忌や火のつきにくい紙マッチ 生駒大祐(次峰)
嫁入りの螢火交ひし峠道 藤田哲史(副将)
水門の汽船ちいさし夏帽子 同 (副将)
開成高校の
火葬場の煙突高し法師蝉 酒井俊祐(先峰)
火蛾二匹われにひとつの置き手紙 山口優夢(大将)
等が競って、決勝を争い開成高校の優勝になったと記録にある。
こういう名前を、同人誌やウェブ誌で知った私であるが、彼らは、高校卒業後には然るべき大学に進み、先に云った先輩達とネットワークを持ち、楽しい遊び場のように句会を楽しんでいる。津自に、それは、システム化された俳句教育のフィールドが広がってきていることでもある。他に資料がないのでよくわからないのだが小中学生相手の投句の企画もふくめると、低年齢層に普及する仕掛け企画はかなりの規模となるようす。このような同工異曲のコンテストが、どうして、ひとつならずあらわれるのか、高校生の俳句教育にこんなにもたくさん必要なのか。そう言う動きにすこし興味を感じた。社会的に文化的にもとめられているからこういうかたちになるのだろうか。そう言う動きにすこし興味を感じた。
青春性といえば、どこか初々しく多少稚拙さの残っているのが、むしろ暗黙の期待の内にあるが、ここにでてきている句は、やはり、水準をこえて、たっしゃなものだと思うし、しだいに巧緻になってきている印象は、私のものだけではなく後で書くように、宇多喜代子ものべていることだ。
3 『17音の青春』2003年版 の 佐藤文香、山口優夢
松山の俳句甲子園でのみではなく、今手元にあるのでは、もう一冊あらためて味読したのが第五回目になる『17音の青春』(神奈川大学全国高校生俳句大賞2003年版・NHK出版)。この年で第五回というのである。これは、復本一郎(神奈川大学教授)の働きがおおきいのであろう。復本に加えて、宇多喜代子、大串章、川崎展宏、金子兜太の選考委員で、応募総数、11,998通。応募高校数181校)。送られた時期には気がつかなかったのだが、3句一組の投句で、佐藤文香(松山東高校2年)。山口優夢(開成高校2年)が投稿し入選している。佐藤文香、山口優夢はここでも投句しており好成績だった。
漱石に目元似て居る青蛙(あおかえる) 兵頭昭多郎(愛媛県 松山東高1年)
風船や嫌われ役のインタビュアー 湖城梓 (同 2年 )
ひと夏で私が見上げる弟よ 大石康子 (静岡県 吉田高校3年)
反抗期とは認めないサングラス 房安博美 (島根県 鳥取西高校2年)
ごろ寝する父の手に傷沖縄忌 上間哲郎 (沖縄県 開邦高校2年)
入選(佐藤文香は六句が入選、抄出すれば)
自らをたとふるならばほとけのざ 佐藤文香(愛媛県 松山東高2年)
八月の腿(もも)はつらつと座りけり 同
未然形ばかりの手紙秋来たる 同
手つかずの宿題天の川に放れ 山口優夢 (東京 開成高校2年)
片恋やのどに灼(や)けつく夏氷 同
喪服来てサイドミラーに光る夏 同
以上出典は『17音の青春』(第五回神奈川大学全国高校俳句大賞2003・NHK出版))
と、言うような出句である。わかわかしいし、あ、これがいまの俳句なんだなあ、と思わせるところがたしかにある。神野紗希、佐藤文香たちが、俳句甲子園でああいうととのった俳句を創りうるのは、個人の才能の問題かも知れないが、しかし型の習得をここまで集団的な文化や教育環境が大きく作用しているはずだ。この十年余の時代が、俳句の旬の時代なのだ。
4 『17音の青春』第五回の報告2003年版・神奈川大学広報委員編。について
この年は2003年、俳句甲子園の第一回が1998年だから、歴史はちょうど同じくらいになる。こちらは3句一組の投句形式である。選者神奈川大学教授の復本一郎、他に宇多喜代子、大串章、金子兜太、川崎展宏を迎えて。座談会、各高校顧問教師が、どのようにこの生徒たちに俳句指導をしてきたか、というコメントを付している。俳句甲子園よりは、高校生の教育の一環に俳句を加えてゆく教師側の意義や心構えがもろにあらわれていて大変興味深い記述があった。
そこには芭蕉や蕪村、子規や虚子にはない魅力があると思います。その魅力は高校生の彼らにしかない若いエネルギーから生まれていると言ってもよろしいのではないでしょうか?
「俳句は老人文学ではない」との過激な発言をしたのは室生犀星ですが、この言葉が本書によって実感していただけるものとおもいます。
引用は 復本一郎 はじめに《ー「俳句は老人文学ではない」—》
(三句一組という形式で投句している作品、今年で五回目)、一回目とはずいぶん違うという気持ちで読みました。一言で言うなら「稚拙な句が少なくなった」というのがその感想です。この五回すなわち五年とは、一人の作者の五年ではなく、毎年新しい高校生によって生み出される作品ですから、この変化は一人の作者の変化ではありません。
17音に作品を寄せる多くの高校生たちの変化です。
(中略)
多くの方にそれぞれの俳句体験があったはずです。だれもが、そう言う思いを幾度も幾度も重ねて俳句を自分のものにしてゆくのだな、と実感しました。
その一方で、早々と俳句の内野の人にならなくていいよ、臆面もなく外野で怒声罵声を張り上げることも貴方達の存在証明になるよ、と思っています、いずれにしろ、健全な野心をもって成した俳句にこそ、その人ならでの「17音の青春のメッセージ」が、力を持つように思われます。
引用は 宇多喜代子 選者評《健全な野心ということ》(傍線は堀本)
宇多喜代子の言のとくに傍線部分は、これこそ私が、森川大和の句集や後書きを読んで実感したことと同じ内容だった。若い人の率直な葛藤や《健全な野心》を吸収したいのはむしろ私の方であった。尤も、「内野」になるなかれ、といわれても。プロの俳人も取り込んで教育界の内野で俳句教育を施されているのだから、このあたりは。定型の固着かとか和歌の体制を超えようとして勃興した俳諧精神のその要素が、これら高校生の俳句投稿やトーナメントゲームにはほとんど現れない。
ただし、こういう選評のあとでおこなわれた座談会では、三人の選者が寄って、今の(10年前の)高校生の季語や定型、韻文への意識が考察されている。それは、俳句を日本語の詩と考えている俳人たちの真剣で面白い議論だった。
また、顧問の先生達が感想を寄せているのだが、現場の教師の教育意識が同時に明らかになるために、よけい面白い。俳句を教育に取り込むというこの動きがどういうきっかけで、いつごろはじまっているのか、私にはよくわからないものの、俳句文芸に於ける教育の限界について、教師側がそのことをまったくうたがっていない、(プロの俳人もまたおなじで)それがひじょうに不思議でもあり印象にのこることでもあった。
表現領域は俳句であろうと、詩であろうと、かならず自らのジャンルの究極の文学性を志向する。社会的な無用性を露呈する。場合によっては、俳句教育はかならず、その育てた芽から裏切られる。この問題はむしろ大学、そこからの卒業以後の自己責任にもとづく表現意思(すなわち、今の状況に直接にかかってくるはずである。
5 森川大和19歳で句集刊行決心のこと
さて、このような高校生俳句のながれの、最も初期の動きの中に参加した森川大和については、19歳の時に刊行した小ぶりの句集に経歴がかかれている、自身によるものと、栞としてはさまれている夏井いつきの紹介、それ以外には知るところがすくない。どうも、こうと決めたらかなり行動的な性格なのだろう。
彼の句集収録作については後述するが、私が心を止めたことは、森川大和は、自分がなぜこういうことをするか、ということをその都度しるしている、俳句はおそらくその記録である。ということである。高校生らしい、とよくいわれるが、このように思考整理の手段や方法としても俳句は活用されている。教育に取り入れられたのはおそらく俳句のこういう要素である。
誰もが感じることでも、それを重要な動機としてキチンと記すというのは、本人の性格による。句集もそのとおりでこころの屈折や、高校生活の日常を率直に書いている俳句群である。思春期のこころが通過するその階梯をふんだ「高校生らしい」「学生らしい」「少年らしい」句が多い。しかも素直であるが稚拙ではない、俳句とはこういうものだ、という型の基本がふまえられている。いつまでたっても型を覚えられない私にとっては、ある意味では、森川の句や、甲子園俳句は、格好の教科書である。
彼は、有名進学校校「愛光学園」当時は男子校の生徒であった。この出自は大きな意味を持つだろう。中学校と神戸の親元同時を離れ十二三歳からもう寄宿舎生活をしていた。若年時の家庭からの独立と、男子寮の共同生活。(愛光学園は私が中学生のころに創設されて、クラスメートがひとり転校していったので同級生の間で話題となった。)
冬花火掲ぐやドミニコ男子寮 森川大和
(『ヤマト19』—《ドミニコ寮》の章)
カトリックのドミニコ教会の経営。中高一貫教育の中の寄宿舎。森川大和の生活は丸ごと進学を目的としたもの、六年間一貫して受験生だったわけだ。
夏井いつきはこう書いている。
彼の通う学校で行った俳句の授業「句会ライブ」の様子を綴った拙著『子どもたちはいかにして俳句と出会ったか』を繙いてみると、「新鮮さがストレス解消となり・すべてがプラスとなった」と結ばれた彼のコメントもしるされている。
引用は 夏井いつきの栞《『ヤマト19』について》
森川大和のさいしょの俳句は、夏井いつきのあのひまわりのような賑やかな笑顔の溢れる特別授業だった。「ストレス解消」という意味が好く理解できる。さらに、俳句の重要な性格、(他にむかって開かれた詩型)によって、発想の転換をうながし、「すべてがプラス」であると感じられたこと。
復本一郎や宇多喜代子のいい止めている、高校生らしさ、その俳句のエネルギーは森川大和にあっては「新鮮さがストレス解消となり・すべてがプラスとなった」かたちであらわれている。森川自身は後書きにこう書いている。
高校時代は、周囲の期待や話題性のために、自分の意思で俳句を続けていたとは思えなかった。それが悩みでもあり、そんな自分が嫌いだった。俳句をしている高校生、しかもこの年齢では女性よりも圧倒的に男性が少ないという理由で、大した実力もないのにテレビや新聞でとりあげられた。ちやほやされた。話題性だけで、沢山のチャンスが到来していたが、私は、それを、素直によろこべなかった。新聞の大きな見出しを読むと、プレッシャーを感じることもあった。
そんな自分を脱却するいみでも、今までの自分にふんぎりをつけ、自分の意思で俳句を楽しむためにも、句集を発行しようと思い立ったのだ。自分を好きになるために、そして大切にするためにも。
高校時代の不安定な自分のバロメーターとして、気分が落ち込んだときにはその感情を吐き出させてくれ、嬉しくって嬉しくって気分がハイなときは、その感情を客観的に見据え落ち着かせてくれた。俳句といううつくしい文学に感謝。(後略)。
引用は 森川大和『ヤマト19』 より《あとがき》。傍線は堀本
彼が、十九歳で二十歳をまえに句集を出したときの動機については、
十代の記念に《いったいなにがのこせるか》。と考え、大学にはいってはじめた《社交ダンスで大きな大会に優勝するか?中学一年ではじめたスキューバダイビングのライセンスを取るか、と考えて、高校一年からはじめた「俳句」にして、句集を出すことにした。》(「あとがき」から堀本による概要)ということである。
どの結社に入ってだれを師にえらぶか、とか、大結社「ホトトギス」にゆくか。同人誌「豈」にゆくか、などという悩みも真剣なことだろう。しかし、社交ダンスか、スキューバダイビングか、俳句か、ということも、高校生活や大学生活の中では、費用とか時間などの許容度を考えるとほとんど同列のモノである。それもまっとうな真剣な青春の懐疑まさに青春の岐路ということであろう。沖縄に行ってスキューバダイビングをしているらしい俳句も出てくるのだが、そこにこういう全人生がかかっているような悩み方・・これが、さすがに若いと思わせるのだった。その時期の森川大和の自己表現の器は、とくに俳句でなくともよかったのである。私は、この選択についてはどうこういう立場にはないが、目一杯青春らしい可愛い悩みに没入していた、見方を変えれば、夏井いつきのような、大衆性や生活感に密着し俳句活動の焦点を据えて、その年齢にあまり無理のないことをもちかける仕掛け方、が成功したものと思われる。最初から数ある知的なゲームの一つとして楽しく奨められたことが、「新鮮さがストレス解消となり・すべてがプラスとなった」という感想になったともいえよう。
なお、インターネットの過去ログを検索していたところ、こういう記事もみつかった。
筑波大学学生が運営している地域情報サイトにいまでもおおきくインタビューの紹介が残っている。「ツクナビ」という筑波大学学生の自主運営の情報誌があり句集が出た当時 そのインタビューでこんなことを言っている。の中が森川の発言で、インタビュアーがまとめたもの。
「表現するということを考えた時、その手段となり得るものは実は少ない。文章を書くことももちろんそうだが、俳句も自己表現の一つだと言える。俳句というのはただ一句だけを鑑賞するだけではなくて、幾つかの句を通して作者という人間を鑑賞することも可能な文学なのだ」(森川大和への「ツクナビ」掲載のインタビュー)
句の背後に人間を見ることが俳句の大きな目的、関心であるという森川の考え方はじつは、この時期の若者としては普通にでてくるものだ。受験生にとって大学入試合格は至上命令である。俳句よりも大事だったはずだ。そして、この青年は、のちに心理学専攻をするだけあって、人間ぜんたいを視野に入れている。これは彼が固有に抱える俳句観に影響しているはずである。夏井の説明によれば、森川は、高1のときに、決勝戦までゆき、「口は立つが句がなっていない」、といわれ、一念発起した。「俳句勉強の句会出席」という理由で外出許可を取り付けて勉強した、という。そして、その取れたての知識を学校へ持ち帰り、仲間と更に勉強し、翌年の俳句甲子園で高校の団体優勝、個人最優秀句を獲得した。チーム全員が個人優秀句の誉れを獲た、という。その時の次第は、俳句甲子園の報告のサイトにいまでも検索される。
第2回 朝顔の種や地下鉄乗り換えぬ 森川大和 (愛光高校)
選評:夏井 いつき
「朝顔の種」と言われると、小さな黒い種のクローズアップを連想する人が大半だろう。そこから、ぽーんと鮮やかに地下鉄の景に切り替わる。「乗り換え」るのだから、ある程度の距離を移動するだろう作者の姿、地下鉄の雑踏なども読み取れる。軽快なリズム・切字「や」の効果等によって、作者の軽やかな足取りも見える。(俳句甲子園公式HP記録より)
6 俳句に現れる高校生の日常性
森川大和は、上述のように学生の時期からはやくも実家を離れて寄宿舎暮らし。中学・高校の一貫教育体制で当初は男子校、遠くから來た生徒はおおむね寄宿舎にはいる。そして東大など、有名大学をめざすのである。彼は、そういう高校からみごと筑波大学に合格した。
句集には、その高校の寮生活とおぼしき情景の句がよくでてくる。
冬花火揚ぐやドミニコ男子寮
虫残る男子ばかりの話し合い
注連縄のロープウエイでありにけり
風花や衣山(きぬやま)町は坂の町
寮のゴミ捨て場まで木槿垣
イチについてヨーイ春蝉せまりくる
若葉風跳箱記録十三段
李氏朝鮮滅亡したる日の桜
引用は 森川大和句集『ヤマト19』
「ロープウエイ」は松山城にのぼるそれ。ドミニコ教会系の経営である進学校愛光学園は松山郊外の「衣山(きぬやま)」というところにある。当時は男子校で、彼は中学校の時期から寄宿生活を送った。規律に縛られた中での、しかし生き生きした生活環境が書かれてある。
現代に近づいて、『新撰21』の越智友亮たちにも、受験やその他の授業風景の句が出てくる。
数学をやめ台風を待っている 越智友亮
寝て起きて勉強をしてホットレモン 同
起立礼着席青葉風過ぎた 神野紗希
卒業や二人で運ぶ洗濯機 山口優夢
引用は 『セレクション俳人+新撰21』(2009/邑書林)
俳句は、シチュエーションをつくって言葉をはめ込むところもあるから、ようするに虚構である。からこういう句は、かならずしも学生生活の時期に体験的に書かれたものではない、ということもできるのだが、状況から見て、「室町時代風」、とか森川がどこかで使っている「李氏朝鮮滅亡の日」とか、こういう歴史的事物への関心は、受験でいろいろ覚え込むそういう若者だからこそ実感的知識の言葉だ。
森川大和の〈若葉風跳箱記録十三段〉と〈イチについてヨーイ春蝉せまりくる〉等。どこにもある普通の高校生活大学生活の風物詩である。神野紗希の〈起立礼着席青葉風過ぎた〉、のような、体育の授業や、朝礼風景、一つのカリキュラムが終わったときの開放感を、清新な風に託すというパターンが、いわばこういうときの俳句にする典型的な詠法ではないだろうか?単純で生き生きした若者の日常性。金子兜太等がもとめる「高校生らしさ」。宇多喜代子が言うように「稚拙さの少なくなった」技術的にもレベルアップされた高校生俳句が登場してきている。森川大和の自然体の句をたどりながら基本形を教え込まれそのパターンの中に盛り込めば一応のことが表現できる型の習得がすすんでいる。そのことに感慨をもよおす。
森川の句を追ってみる。
一万字の自己推薦書秋の風
を、まえにおいて、句集のなかほどにこういう「受験風景」がでてきた。
——筑波波大学第二学群人間学類自己推薦合格通知
秋天に叫ぶ
これは、前後の俳句群とは際だってちがっている。俳句とは言えない。だが、作者にとっては、一句一句のできばえよりも、むしろこのことが一番大事な人生目標であった。そのための高校生活である。句にはならない叫び、を、句集にいれたかった・・これが重要なポイントとなる。だから、この句集は、俳句集ではあるが、いわゆるプロの俳人、を画するモノではなかった、のである。ここでは、生活記録とともに「学園生活、独り暮らしの孤独」も当然告白される。
熱風をあびて宿舎祭(やどかりさい)ポスター
われ秋の底の東京暮らしなり
この句集の主体主語は、ほぼ作者自身の経験上のことなのだ、と私は解釈するのであるがこの「秋の底の東京暮らし」は、大学生の体験の述懐に即しながら、島崎藤村の「千曲川旅情の歌」などに似た人生の旅人の感慨ともうけとめられる。叙情性香り立つこの表白は、むしろ彼の不安定さの代償である。
「宿舎祭(やどかりさい)」は筑波大学の学生寮のイベントである。大学の学生寮に入ったのだろうか。「寮」や学生祭の句が、高校の時の作か大学に入ってからのものか、森川の句では時々解らないのは、この句集の編纂がどうも厳密な編年体ではないらしいから、なのだが、けれど、最後の方がやはり句集出版の季節に近いものらしい。「私」の感慨にしろ普遍性をもったあられかたがされていて、いわゆる俳句になっている。
7 冨田拓也の観念性との比較
森川大和のこの俳句の作り方の反対方向のような例として、冨田拓也の句柄のベクトルとはまったくちがうものである。
冨田拓也の句集には「われ」とか、現実の人間関係が示される要素が、直接的には出てこない、日常生活現実も題材としてはほとんどない。比較的身体感覚に近いところから出ている句をあげてみても
てのひらが顔の如くに笑ひをり 冨田拓也
身の内の暗渠を桜流れたり 同
化けの皮剥がるるごとき野分かな 同
引用は冨田拓也句集『青空を欺くために雨は降る』より
これらは、比喩や、別のことにこと寄せてそれは一種の非日常反日常の風景。あるいは観念劇の展開であった。それが、芝不器男俳句新人賞の時に審査員を驚かせた。
冨田のモチーフは、かりに身体感覚にちかいものであっても、言葉は思考や感覚のナマの次元をだっしており、イメージの内部ですでに篩を掛けられていて、たとえば〈身の内の暗渠を桜流れたり〉も、このように書かれてしまう「暗渠」と「桜」はイマジネーションの深いところで繋がってくる。
俳句を表現する目的が、冨田の場合にははっきりしていて。この人は自分の日常みほとりのことを書くとか、何十歳までに何かのこそう、というような動機はさらさら無い。自分の観念世界の「表現」というのが最初からの目的である。ある意味で、思考の蕩尽といってもいい。しかし、森川が日常的で冨田が現実的文学志向である、とおおまかにわけた、その精神の置き方と、やはり共通するところがある。
俳句のモチーフは森川大和のほうがじつは、新しい。ハイティーンの現実生活の鋳型をそのままつかっているのだから、大先輩のプロ俳人にはもうもちこめない旬の青春の素材がふんだんにある。高校生俳句が、おとなの俳人の関心を呼ぶ一つの理由は、学生生活の内部が表現の対象になっているその「新しさ」によってである。同時に、これらは高校生の日常の蔓延でもあるし、型というのは凡て先行する例の中に見出されるわけだから、たちまち類想を生み出す。
じつは、冨田の句も、着想や言語感覚にユニークさ感じさせても、先行しているくのなかに、繋がってくるものがある。ものすごく発想が特別新しいというのではない。
例えば、
ただならぬ闇にあやめの群がれり 拓也
は、闇と光。明と暗は対比されやすいこの空間に、同色系統のあやめ(紫)を擱くことで妖しい次元混淆をきたす、そういう妖美な空間構築である。が、
衣をぬぎし闇のあなたにあやめ咲く 桂信子『女身』
昼ながら天の闇なり菖蒲園 山口誓子 (『天狼歳時記夏。昭和59年』)
そのものの闇のなかより杜若 玄(斉藤)
(講談社学術文庫『基本季語五〇〇選』(昭和60年)
など、「あやめ」もしくは「燕子花」の紫、と「闇」の空間を対比させ置換する色の渾然たるイメージの取り合わせが、すでに発表されている。冨田がこれらの句を知らなかったとしても。これとこれを併せたらこうなる、というイメージの系譜は、原点がどこかにあるわけだから、新しい場面を創出することがたいへん難しいのである。あちこちに散在しているはずの「あやめと闇」をとりあわせる美意識を集合し洗練させて行く、その途上の一個の景であると言うことができる。
また森川のは類型そのものであるが、こういう高校生の生活者は複数存在して、共感を呼ぶだろう。
数エ年二十歳ニナリヌ犬フグリ 森川大和
男子寮八年目なり桜さく 同
どちらにしろ、新鮮さもそれ故の危うさもは過渡的なものだ。俳句の伝統的スタイルやありふれた現実を吸収して、彼らはそれぞれの個性に、新しい感覚の体験として取り込んだところがやっぱり凄いのである。
冨田の方は、新興俳句のスタイルを既存の俳句として教科書としてマスターしている。文学的な用語の使用には既視感があるものの、冨田の句はひじょうに新鮮に感じられる。矛盾した言い方かも知れないが、彼が、とくに富澤赤黄男、高柳重信、のような美学)に反応し。彼自身の中の虚無感を手放さないのも青春の表徴である。その虚無感は作者の若い畏れを包み込んでいて初々しいからである。
ただ、あまりにこのような精神的な立ち位置になれて、その表現法を自家薬籠中のものにしてしまった時に、彼らの新しい俳句、ほんとうの存在理由はここからどう現れて切り開かれてゆくのか、そういうことも気になってくる。
8 山口優夢について、今回はほんのすこしだけ
もうひとり、とりあえず(といったら失礼だが、いずれ文章化する対象にしているのでこう書く)、寸評しておきたい。
真つ白な塔あり長き晩年あり 山口優夢
引用は 『新撰21』
という無季の句があったが、この本を読むときに作者の年齢を考慮しないのは無理、二十五歳ですでに晩年をみている、ということが私の注意を引く。私などはもう年齢からして晩年のただ中にいるものだから「長き晩年」とは絶対に言わぬ。詩語に「晩年」を使うことすらできるだけ避けたい。これは虚栄心や見栄や自己励起の意味もあるけれど、俳句がそういう年齢などにとらわれない表現領域であって欲しいからだ。年齢の若さは、俳句上の若さにかならずあらわれるが、この虚無感の吐露、一面こういう一種の無為の感覚もただよう。
山口優夢は、『新鮮21』のなかでも頭角をあらわしているひとりであるが、第6回では開成高校優勝、〈小鳥來る三億年の地層かな〉。雄大で繊細な時間が流れているこの句は、個人最優秀賞を獲ている。俳句甲子園第2回の森川大和おなじようなケースである。
因みに、50%は東大に行くという「開成高校」についてWikipediaで調べていると、明治4年共立学校として創立して、正岡子規と秋山真之が松山中学からここに入学しそのご東大予備門へはいる。今も昔も東大をめざす若者ための高校である。共立学校。開成学園には、「え?この人も?」、というような多彩な人物が学んでいる。辻潤、柳田国男、斎藤茂吉も籍を置いていたという。意外なところで、「俳句」と日本近代の文化のルーツとの関わりが見えるのである。
9 『ヤマト19』 句抄
この句集は、刊行の主旨からして受験や高校生活に根ざしたモチーフが多い。その意味で、俳句甲子園などを舞台に、優れた高校生俳句が生まれた、その成果だといえる。
鉄琴の音に枯野の生まれけり
幟町教会を訪う帰り花
注連縄のロープウエーでありにけり
風花や衣山(きぬやま)町は坂の町
着ぶくれの男に合格を告げる
受験子の光沢のある唇よ
数エ年二十歳トナリヌ犬フグリ
のどけしや自転車の錆とるバイト
引力は藍色である春の雨
東京の風に吹かれて春帽子
李氏朝鮮滅亡したる日の桜
男子寮八年目なり桜さく
クラス満票でメダカを飼うておる
薫風や写真をとれば動く亀
医務室にきて揚梅の実をもらう
熱風をあびて宿舎祭(やどかりさい)ポスター
一万字の自己推薦書秋の風
寮のゴミ捨て場に続く木槿垣
子規の忌やきっと今夜は雨になる
通知書の届かぬ空の高すぎて
スチールの椅子に止まれぬ赤蜻蛉
学祭のテントの下の団栗よ
黒葡萄少年時代の秘密基地
われ秋の底の東京暮らしなり
月白や巨大駐輪場に寝る
通草が割れて鬼雲が來るんだよ
野分よりもっと刺激がほしいんだ
引用は 森川大和句集『ヤマト19』2002年8月1日発行・編集アトリエまる工房
なかなかいいではないか。故郷の松山の風景も彷彿する。
この句集は、幼さもあるが、それゆえに、自分たちの年代をいわゆる風物詩として普遍的な風景としてつくりあげることに成功している。彼の、自己客観化の眼と再現する構築の腕前はたしかである。また、内省や対象把握が知的で周りに気配りする視線の抑制がある。
『新撰21』に登場する若者それぞれもたしかに才能を感じさせるが、この森川大和の句には、プロ俳人の入口に立っている面々とは少し違う、むしろ老成した認識で自分の若さを見詰めている、一寸かわったフィーリングを感じるのだ。
「ゼロ年代」俳人のだれが残るとか、どの句がいいとかいう議論の外側で、俳句への関心を問い返し、全人的に培う精神の揺籃の場所になっているのではないだろうか?。
ただ、ここには、俳句という自ジャンルの詩型を疑う姿勢、が欠けている。所与のかたちを疑うことも青春の特権なのである。
で、その意味でも、彼は他の後輩達と同じように甲子園俳句の優等生であろう。宇多喜代子が言うように「内野」にいる若者の一人である。そこは、無い物ねだりではあるのだが、すこしばかり、物足りないところである。
結び
以上の文章は、最初の目的は「補注」であったが。しだいに若手俳人の登場が私にどんな意味を与えるのか、状況をたしかめながら自己検証のようなかたちになっていった。書いてゆく途中で、あらたに気づくところがあり、しらべしらべ書き足していったので、当初の予定より日が延びて、文章もかなり直感で書きとばしていったところがある。だが、森川大和と冨田拓也の第一句集は、二度童子の年齢にいたって私が、なお書くこと考えることをやめないために、またふたたび書くことの原点や初心に返ることのできた大事な句集である。こうして私は二周か三周遅れの「同時代俳人」のパッションのあり方を見詰めてみたのであった。(以上本稿 了)
「森川大和」で検索してみたら、どうも彼なりにそれなりに「健全」にやっておられるようだ、安心した。森川さんが、これを、もし読んだならば葉書かメッセージでもください。そして、いつか句会でもごいっしょしましょうよ。(吟)
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