2010年6月13日日曜日

坪内稔典『モーレツ俳句ますます盛ん』

モーロクの辺境の反対なのだ
『モーロク俳句ますます盛ん―俳句百年の遊び』をめぐって



                       ・・・高山れおな


六月九日付の「ねんてんの今日の一句」「e船団」)は、矢野公雄の〈ふらんすの水を一口青田風〉の鑑賞。

「船団」85号の「船団・あの人この人」欄から引いた。公雄は1967年生まれ。この句、フランスの水と青田風の取り合わせが新鮮。青田にフランスの香りが漂う感じ。
雑誌「潮」7月号に桑原武夫学芸賞の選評が出ている。見ていただけるとありがたい。

「見ていただけるとありがたい。」とのお言葉にしたがい早速、「潮」誌を拝見。まだご存知なかった人のために申し添えておくと、坪内稔典は昨年暮に刊行された『モーロク俳句ますます盛ん―俳句百年の遊び』(1*)によって、このたび第十三回の桑原武夫学芸賞を受賞することになったのである。本件については、すでに先日、わたくしが担当している朝日新聞の俳句時評(五月三十一日付)でひとことふれた。主には松林尚志の『俳句に憑かれた人たち』(2*)について書いた、その枕として振ったのだった。

坪内稔典の『モーロク俳句ますます盛ん―俳句百年の遊び』(岩波書店)が、桑原武夫学芸賞に決まったそうだ。重厚な評論集のひょうげた書名は、坪内の屈折した俳句観を汲んだ版元の提案らしい。しかし屈折といえば、現存俳人中、俳句に最も粉骨してきたうちの一人に、史上、俳句を最も効果的に侮辱した人物の名を冠した賞が贈られる事態以上の屈折もあるまい。

奥歯に物の挟まったようなとはこのことか、といった感じの文章だが、賞を贈る側、贈られる側の意図や気持ちについて全く情報がなかったので、坪内に敬意を表しつつ、桑原武夫に対する憎しみだけははっきりと表明しておいた次第である。今回、「潮」に四人の選考委員(梅原猛・杉本秀太郎・鶴見俊輔・山田慶兒)の選評と、坪内の「受賞のことば」が掲出されたので、とりあえず奥歯に挟まった物は取れたようだ。坪内が読んで欲しいと言っていた選評はさしあたりどうでもいい(どうでもいいことしか書いてないので)。興味深いのはやはり坪内の「受賞のことば」の方で、それによれば、坪内は、〈目下、「春の風ルンルンけんけんあんぽんたん」の気分である。〉のだそうで、まことにめでたい。当方の気分を俳句で譬えるなら、そうですね、前にも引いたことがありますが、〈俳諧の地獄の底か閑古鳥〉みたいな感じでしょうか(*3)。前置が長くなった。以下は、坪内の「受賞のことば」の全文である。

この受賞、とってもうれしい。私の俳句論は桑原武夫氏の第二芸術論の肯定から始まっているので。戦後の俳人たちの多くは第二芸術論に反発したが、私は第二芸術論的な地平において日本語の詩としての俳句を考えてきた。

第二芸術論的地平に立つ私は、菊作りと俳句作りの楽しさは同じ、そして俳句作りとパチンコをする楽しさも同じだ、と思うが、意外にも反発する人が多い。自分の好きなものや熱中しているものを、パチンコとは同列には置かれたくないらしい。だが、かつてパチンコに熱中した体験からも、それはやはり同じだと思う。肝要なことは、自分の好きなことや熱中していることを絶対化しないことだろう。俳句だって学問だって菊作りだってパチンコだって、とっても楽しい。楽しいという素朴な感情はどの場合にもとても深い。

最後になったが、日頃から敬愛している方々に選考していただけたこともうれしいことだった。目下、「春の風ルンルンけんけんあんぽんたん」の気分である。

じつは『モーロク俳句ますます盛ん』という本、構成としてはかなり雑然としている。長短十二篇の文章が収められていて、近代俳句史概論的な内容のものが多いのであるが、初出一覧によれば、最も古いのが一九八一年の「戦後俳句のゆくえ」(*4)で、一番最近の執筆は二〇〇五年の「俳諧から俳句へ、俳句から俳諧へ」(*5)。つまり、四半世紀にわたってばらばらに発表された論考の集成であって、この間、坪内の俳句観や文章の書きぶりに大きな変化があったのは周知のとおり。ゆえに、本としての統一感はあまり感じられない。

それはともかく、「戦後俳句のゆくえ」が発表された一九八一年といえば、『過渡の詩』(*6)が一九七八年に、『俳句の根拠』(*7)が一九八二年に、それぞれ刊行されているのでもわかるように、坪内が俳句を“過渡の詩”として捉えていた時期にあたっており、実際この論文にはその言葉が出てくる。この「戦後俳句のゆくえ」こそは、本書中にあって真正面から第二芸術論と取り組んだ論考なのであるが、しかしそれは「私の俳句論は桑原武夫氏の第二芸術論の肯定から始まっている」といったあっけない話ではない。この段階での坪内の第二芸術論に対する態度は、ストレートな肯定というよりは否定の否定とでも称すべきものであり、第二芸術論をめぐる先行俳人たちの対応を批判的に検証するものであった。しかもその際、坪内の念頭にあったのは桑原の論それ自体ですらなく、むしろ、小野十三郎や(竹内好を援用する)臼井吉見の短詩型文学批判を視野に入れながら、第二芸術論の可能性の射程を問うことにこそ、論の主眼は置かれていたのである。可能性としての第二芸術論とは、単なる短歌・俳句批判ではなく、〈無数の人々に愛され、日本人の心性や日本語の基礎に深くかかわっている〉短歌的なもの俳句的なものへの批判を通じた日本文学・日本文化そのものの批判であるはずであった。

俳句史はいつでも、それを書く者の批評の深浅を問う試みであるが、これを書きながらいくども思いうかべたことばがある。それは、「第二芸術について」(「詩学」昭和二十三年一月)という坂口安吾の文章だ。坂口はきわめて簡潔に、俳句しか知らず、詩一般に通じていない者は、もともと詩人ではない、日本にはそんな詩人ばかりだ、とその文章で言っている。もちろん、坂口の言うのは知識や教養のレベルのことではない。一句を書くことが、あるいは俳句について考えることが、日本の詩=文学一般と深く交叉していないかぎり、そこにはほとんど意味がないのだ。

「戦後俳句のゆくえ」の末尾で述べられた、このような厳しくもまっとうな認識はしかし、三十年後にはなぜか、「菊作りと俳句作りの楽しさは同じ、そして俳句作りとパチンコをする楽しさも同じだ、と思うが、意外にも反発する人が多い」といったいささか的外れな隘路に入りこんでしまった。なるほど、ひとりの人間の生活において、俳句と菊作り、あるいは俳句とパチンコが等しく楽しく重要であることはあり得る、という以上にありふれた光景に違いない。そしてまた、それらの世界にも四Sのごとき伝説の名人や、藤田湘子のごときすぐれたハウツー本の書き手がいたりするのであろうが、坪内のような気難しい顔をした批評家がいないことだけは確かなように思われる。つまりやはり両者は同じではないのである。

坪内は近年、俳句の特質として句会の存在意義を説くことが多いようだ。『モーロク俳句ますます盛ん』でも、所収のいくつかの論考でその考えが示されている。一九九五年に書かれた「近代俳句小史」(*8)は、タイトル通り、明治から昭和初期までの簡潔な通史であるが、そこでは〈子規が俳句を発表する場は新聞という近代のニューメディアであったが、俳句をつくる現場は句会であった。〉と述べて、さらに次のように説明がなされる。

自分の作品が他者にどのように読まれるかを通して、句会では添削や推敲が行われた。別の言い方をすれば、句会における個人は、他者を受け入れ、他者とともに創造する個人である。俳句が表現する個人の感情とは、そんな他者に開いた個人の感情であった。

こうした認識が、それが俳句に固有のものであることと並んで、坪内が句会というシステムを高く評価する根底にある理由だと言っていいだろう。しかし、問題は本当に句会に他者など居るのかということで、上記引用の「他者」を「仲間」に入れ替えても文章が完璧に成り立つのでもわかるように、実態としても句会に居るのは他者というよりは仲間であろう(だから句会が悪いと申しているわけではありません、念の為)。自己の作品そのものが備えている他者性、否それどころか自己こそ他者であるという認識にこそ批評の出発点があるとすれば、制作行為が他者にひらかれてあることと句会とはとりあえず関係ない。一方で、仲間でしかないものを他者と呼び替えて、制度的な実体として固定化してしまえば、本来の批評は隠蔽され、その先にあるのはナルシシズムでしかなくなる恐れはないのか。実際、「e船団」における坪内の仲間褒めのはなはだしさを見ていると、その危惧が半ば当たっているような気がしないでもない。

『モーロク俳句ますます盛ん』には、「俳句レッスン1から10」(*9)という文章が収められている。もちろん正岡子規の「俳諧大要」に倣った趣向であろう。「俳諧大要」は、「第一 俳句の標準」「第二 俳句と他の文学」「第三 俳句の種類」「第四 俳句と四季」「第五 修学第一期」「第六 修学第二期」「第七 修学第三期」「第八 俳諧連歌」の八章構成であるが、こちらは以下の十章構成。

レッスン1 定型――感動の発見装置
レッスン2 自由律――近代的自由の遺産
レッスン3 季語――季節による世界の構成
レッスン4 取り合わせ――俳句の基礎的方法
レッスン5 俳句的写生――対象の変形
レッスン6 句会――共同の創造
レッスン7 俳文――俳句的発想の広がり
レッスン8 子ども俳句――片言の力
レッスン9 老人俳句――なぜ老人は俳句を好むか
レッスン10 俳人――日本語の辺境に住む

坪内の俳句に関する近年の考えのエッセンスをコンパクトに纏めており、いろいろと興味深いポイントを含んでいるがここではレッスン10だけを覗いておく。いわく、「俳人――日本語の辺境に住む」。坪内は、俳人の条件として、〈①無責任であること。〉〈②軽いこと。〉〈③は遊び好きであること。〉を挙げ、〈以上の三条件を身につけたら、かなり高度な俳人が出現するはず。〉と述べる。

その俳人はどのあたりに住んでいるのかというと、おそらく日本語の辺境である。自己、正義、理念などを主張する颯爽とした日本語ではない。また、科学や法律などの理路整然とした日本語でもない。謎々、早口言葉、悪態、ことわざ、しり取り、隠語などの遊びとの境目が明確でない日本語。だからまともな大人だとやや馬鹿にする日本語。日本語のそんなところに俳人は住んでいるだろう。

面白い……が、まさにこの診断こそが誤まっており、それがあのちょっとおかしな「受賞のことば」に帰結しているということはないのか、そんなことを考えた。「自己、正義、理念などを主張する颯爽とした日本語」ですって? 坪内さん、そんなものがどこにあるのですか。日本語・日本人・日本国が、「自己、正義、理念」を説得的に主張したことなど、歴史上ほとんどなかったのと違いますか。鳩山前総理のように「友愛」などという普遍的な理念を掲げるのは、日本の政治家として例外中の例外であるのはご存知の通りです。普遍的な「自己、正義、理念」を抱くことが必然的に“宇宙人”であることを意味するような環境が“日本語”なのでは? 俳人という人種の稟質からすれば、当然、日本語の辺境に住んでいるはずだとわたくしも思い、また辺境に住んでいるべきだとさえ思いますが、じつは俳句というのが全然辺境でなかったりする可能性はないのでしょうか、日本語においては。「自己、正義、理念」が位しているべき場所に、よりにもよって「俳句」が席を占めている。二十年来のわが国の政治状況を見ながら、わたくしの中で半ば確信となりつつある悪夢です。恐怖と申しても過言ではありません。第二芸術論は結局のところ無力だった、ということでしょうか。不幸にもなのか、幸いにもなのか、なにがなんだかわかりませんが。

坪内稔典『モーロク俳句ますます盛ん―俳句百年の遊び』は、著者から贈呈を受けました。記して感謝します。

(*1)坪内稔典『モーロク俳句ますます盛ん――俳句百年の遊び』 二〇〇九年 岩波書店
(*2)松林尚志『俳句に憑かれた人たち』 三月二十五日刊 沖積舎
(*3)はいかいの地獄のそこか閑古鳥 一茶『享和句帖』
(*4)「戦後俳句のゆくえ」(原題「昭和俳句史・戦後篇」、久保田正文他『鑑賞現代俳句全集 第一巻』立風書房、一九八一年)
(*5)「俳諧から俳句へ、俳句から俳諧へ」(原題「俳諧から俳句へ」、佐藤泰正編『俳諧から俳句へ』梅光学院大学公開講座論集 第五十三集、笠間書院、二〇〇五年)
(*6)坪内稔典『過渡の詩』 一九七八年 牧神社
(*7)坪内稔典『俳句の根拠』 一九八二年 静地社
(*8)「近代俳句小史」(齋藤慎彌他編『現代俳句ハンドブック』雄山閣出版、一九九五年)
(*9)「俳句レッスン1から10」(原題「俳句レッスン」、「國文學」二〇〇一年七月号)

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■関連書籍を以下より購入できます。

5 件のコメント:

わたなべじゅんこ さんのコメント...

わたなべじゅんこです。

思ったことを自分のブログで書きました。
リンクを貼らせていただくか迷いました。私の言葉も少々感情的なので恥ずかしく思いますが、やはり言い放しはよくない、この恥ずかしさも込みでお知らせする次第です。



http://junkwords.jugem.jp/?eid=198

高山れおな さんのコメント...

わたなべじゅんこ様

御稿拝読しました。回答はコメント欄では不自由ですので、書くとすれば当ブログ本体で書かせていただきます。取り急ぎ。

高山れおな さんのコメント...

わたなべじゅんこ様

貴ブログに対するお返事を書こうと思ったのですが、貴ブログのコピー&ペーストがうまくできません。またプリントもうまくゆきません。何かブロックが掛かっているのでしょうか。どうすればコピーできるかご存知であればお教え願います。あるいは記事をお書きになる際、wordか何かで書いたものを貼り付けておられるのであれば、その元の原稿(6月14日、15日、17日分)を当方へメールでお送りいただくわけにはゆかないでしょうか。アドレスは当ブログの執筆者プロフィールの小生の項のところに表示しております。お返事には正確を期したく、ご面倒ながら、かくお願いする次第です。

わたなべじゅんこ さんのコメント...

わたなべです。
ブログの内容、先ほどそのままメールにて送付致しました。

よい機会ですので、私も改めて勉強し直します。

高山れおな さんのコメント...

わたなべじゅんこ様

御稿のデータ、拝受しました。お手数をお掛けしました。有難うございます。