2010年4月18日日曜日

俳誌雑読 其の十三

俳誌雑読 其の十三
ブンガクの犬たち、あるいはTwitter風に

                       ・・・高山れおな

金曜日、ふと思い立ってTwitterを開始(すぐ飽きるでしょうが)。ビギナーとして、Twitter向けの文章の練習を兼ねて書きます。つまり一文節を百四十字以内(引用含まず)で、つぶやき風に記して参ります。

「ジョゼフ・コーネル×高橋睦郎 箱宇宙を讃えて」
R_Takayama 
千葉県佐倉市の川村記念美術館へ。ひと月程前、佐倉市立美術館へ行こうとして、路線を間違えて大変なタイムロスをしてしまったので、こんどは用心しいしいの道行き。千葉から先の下り路線はほんに難解じゃ。

R_Takayama 川村記念美術館では「ジョゼフ・コーネル×高橋睦郎 箱宇宙を讃えて」展が開催されている。この土曜日には、高橋の朗読会が行なわれるというので出掛けたのである。展覧会は、同美術館所蔵のコーネル作品十六点を、高橋の新作詩と共に展示する趣向。

R_Takayama 展示はさほど大きくもない一室だけ(コーネル作品は、小さな箱型オブジェとコラージュだからみんな小さいのだ)だが、部屋そのものをいわばコーネルの箱に見立てて作り込んである。

R_Takayama 高橋には『この世あるいは箱の人』(一九九八年 思潮社)という詩集があり、同じタイトルの詩も収録されている。この「箱の人」がつまりコーネル。高橋のコーネルへの敬愛を知っていた美術館サイドが、コラボレーションの企画を立てたのだろう。

R_Takayama 展示室入り口の壁にはくだんの「この世あるいは箱の人」が掲出されている。七連八十五行の詩である。詩集も持っているが、改めてじっくり読むうちに目頭が熱くなってくる。高橋のたいていの作品よりも、言葉の速度が速く、奔流とでも言いたいようなリズムの強い流れがある。

R_Takayama 展示室内は非常に暗い。壁は星形で装飾してある。闇に浮かぶ展示物も観客も、星の海の漂流物になるという仕掛けだろう。コーネル作品のそれぞれに、高橋が書き下ろした四、五行程の短詩が添えられている。ひとつだけ紹介しよう。対象となるコーネル作品は…

R_Takayama 《Untitled(Hotel Etoile)》で、一九五六年頃に制作された。箱の内部は白壁風に塗られ、左右にカーテンレールが渡り、左端に白い円柱が立つ。壁の上方には、擬人化された笑う太陽のレリーフ。ほとんど旅に出ることのできなかった作家の夢の旅の「ホテル・エトワール」だ。

閉じこめられた太陽は
小さく 小さくなる
テントウムシほど 小さく
それでも 太陽である証拠に
笑っている それとも
泣いているのか

R_Takayama 朗読会には少し遅刻してしまい、おそらく最初に朗読されたのであろう「この世あるいは箱の人」は聞き逃してしまった。

R_Takayama 新作短詩、それから図録巻末に収められたエッセイ風のあとがき(コーネルと稲垣足穂を比較している)の朗読があり、最後に、高橋の最新詩集『永遠まで』(二〇〇九年 思潮社)から「小夜曲 サヨコのために」が読み上げられた。

R_Takayama 「この世あるいは箱の人」を聞けたら話は違ったであろうが、実際に朗読を耳にした範囲ではこの「小夜曲 サヨコのために」がいちばん良かった。サヨコとは山口小夜子のことで、コーネルとは表面的には関係がないが、両者はいわば高橋の思想によって結びつけられている。

R_Takayama コーネル作品のための書き下ろし詩は、上に一編を引いたのでもわかる通り、オブジェの印象を機知で受け止め、切り返すもの。機知による解放こそが眼目になるが、その短さは、どちらかといえば朗読向きではないだろう。

R_Takayama これに対して「小夜曲 サヨコのために」は十二連の長詩であり、物語的な展開をリフレインで盛り上げているから、朗読の効果ははるかに大きかった。

R_Takayama 展覧会は七月十九日まで。なお、図録がこれまた凝っており、ほとんど図入り詩集の雰囲気である。アンカットのフランス装で、活版印刷を使っているとのこと。


「新潮」五月号
R_Takayama 
さて、朗読といえば「新潮」五月号。「特別付録 CD詩集 町田康『そこ、溝あんで』」は、比較的短めの詩二十一編からなるCD付き小詩集で、これはもう必読であり必聴であろう。


R_Takayama 無駄に五七五で言えば――町田康、顔もいいけど声もいい。一編だけ、「愛しのマリイが」という詩を引く。朗読ではタイトルがそのまま本文に繋がってゆくように読まれている。

愛しのマリイが

私のために
単独で飛ぶ

死物狂いで
自ら上げた火に燃えて
死んだ光は
まるで上限みたいです

私のために
あれはマリイです
なにとも高くなってください

深い暗い闇の義に
席があってマリイ
あなたはこちらにない

凍る広がる義を超過する
ただすべての高空のなかの
マリイにあることは
一心不乱です

R_Takayama 町田康は、地上に現存するただひとり本物の俳人というか俳諧師ではないかと常々。俳句をたぶん一句も作ったことのない俳諧師ですが。

R_Takayama 町田康ひとりが、詩でモラルのために闘っている、のではないか。そんな妄想を抱かせられてしまう程の力強さがある。大才は、今も昔もブンガクテキであることを恐れたりはしないのだなあ、といつもながら感銘。問題はそっから先ですよね。

R_Takayama ちなみに、「愛しのマリイが」の朗読の背後では、引き戸が開けられる音がして、カラスの鳴き声が聞こえてくる。マリイがカラスってんではもちろんないのでしょうが。変なおもちゃがきゅうきゅう情けない音を出す朗読もあったり、低予算な効果音が効果的。


「夢幻航海」第七十二号
R_Takayama 
編集兼発行人・岩片仁次様より贈呈御礼。

R_Takayama 連載第四十四回となる「高柳重信散文集成」は、「昭和三十九年(一九六四年)・四十一歳 そのニ」。高柳の旧稿十本が集められており、長谷川かな女句集『川の灯』、内藤吐天句集『後生楽』の書評や「盗作の周辺」と題された時評が面白い。

R_Takayama 『後生楽』の書評は、滅多に人を褒めない高柳としては最大級に褒めている印象。どこか不貞腐れたエレガンスみたいなものを感じさせる句風である。

餠をくふ健啖にしてまことに腐儒
炎天の焚火のけむり目にしみる
子を歩かせ新巻鮭を抱いてゆく
墓の頭が揃はねば蝉哭き乱れ
壺の中に鬼居て薔薇を開かしむ

R_Takayama しかし今号の白眉は、なんと言っても「俳句研究」同年三月号に載った時評「盗作の周辺」であろう。〈第二回、俳句研究新人賞の入賞者三名のうち、福田水雲の「無題」二十句に、相当数の、いわゆる盗作が発見されたという事件〉について論評したものだ。

R_Takayama 高柳らしく厳しいことを言っている。と、言っても福田某に対して厳しいわけでは実はない。俳句に対して厳しいのですね、やはり。しかし、引用はやめておく。この逆説に満ちた文章をうかつに引けば、一発で誤解される可能性高し。

R_Takayama というわけで、なんか思わせぶりで申し訳ないけど、興味がある方は、岩片さんに「夢幻航海」を送ってもらうか、百人町で「俳句研究」のバックナンバーを見るかしてね。

R_Takayama 今号では他に、今泉康弘の「鎮魂曲(レクイエム)『焚書』」が好読み物。エッセイというか、ほとんど、“随想”と呼びたいような格がある。そういえば、「新潮」に隔月(だったかな?)掲載されていた蓮實重彦の、その名も「随想」という連載が先日終わったのが超残念。

R_Takayama 今泉は、うらわ美術館で見た、遠藤利克の《敷物――焼かれた言葉――》というインスタレーションからはじめて、ナチスの焚書やらアレクサンドリア図書館の炎上やら、古今東西の書物受難史をたどる。

R_Takayama 〈ぼくにとって本の焼かれることは黙示録のごとき心地である。〉という今泉の対書物態度はまさに純愛。場所ふさぎの癖に、家蔵のものに限ってさえその相当部分は一生読まずに終わることを考えると、わたくしはしばしば本に憎しみを覚えますが。それはともかく…

R_Takayama 今泉のことだから、話はやっぱり新興俳句の方へ。森銑三や山口誓子の蔵書受難に際しての言葉も胸打たれるが、三橋敏雄の〈かもめ来よ天金の書をひらくたび〉とレイ・ブラッドベリの『摂氏451度』を結びつけるあたりの叙述はすばらしい。

燃え上がる本、というイメージ。それは人を引きつける。ゆえに、古来、焚書は一種の儀式として行われたのでもあろう。それをイエスの磔刑と重ねることもできよう。

R_Takayama なお、今泉さんは、今年度の俳句界評論賞に決まったそうです。おめでとうございます。


「LOTUS」第16号
R_Takayama 
編集部より贈呈御礼。

R_Takayama 「俳句思想のゆくえⅠ」を特集しているが、それより何より前号から連載がはじまった志賀康の「山羊の虹―切れ/俳句行為の固有性を求めて―」がすごい。全四回の予定で、「切れ」をめぐっての必読文献になりそうな労作。理系頭脳で、問題を徹底整理しようとしている。

私は近年の切れの論議を十分に広く読んでいるわけではないが、どうも議論が不徹底なように感じている。その理由のひとつには、「切れ」と「切字」がはっきりと区別されずに論じられることが多いということが挙げられよう。もうひとつは、切れの歴史が軽視されていることである。変貌を受けた後の近年の切れ観を、あたかも不易のもののように考えて、芭蕉の発句にあてはめたりするという例も見受けられるのである。

R_Takayama 上記は連載第一回における緒言の一節で、こういう構えなのだからして期待しないわけにはゆかない。実際、感心しながら読んでいるのだが、とはいえ危うく感じられる点もある。おなじく緒言より。

俳句の切れとは、多かれ少なかれ、以上の「切るはたらき」、「言葉と言葉の関係を創成するはたらき」、「論理的整合性をやぶるはたらき」の複合的なものであって、さまざまな切れが、これらのはたらきのどれかを重く志向しつつ、用いられてきたと言うことができるであろう。

R_Takayama こうなってしまうと、俳句における技法の全てを「切れ」の名のもとに回収してしまうことになってしまう恐れはないのか。汎切れ主義?

R_Takayama 「切れ」について語ることで安心したがる現代俳人のビョーキについては、当ブログで磐井師匠とわたくしめが以前、批判を加えた。志賀の論が、巷間の“思いつき切れ論”、“我田引水切れ論”の類とは次元を異にしていることは承知の上で、懸念を表明しておく次第。

R_Takayama もちろん連載はまだ二回目。半分まで来たにすぎない。本格的に感想を記すには早すぎるのであろう。

R_Takayama だからここでは、ほんのさわりをご紹介するにとどめるとして、連載二回目に、〈切れのはたらきの主なものが、子規以降どのように推移してきたか〉を示す折れ線グラフが掲げられているのが目を引く。

R_Takayama 子規以降の俳人五十余人、一千余句からなる私家版アンソロジーを作成した上で、それを切れの視点から統計的に分類して得られたグラフのようである。縦軸は切れのタイプの比率を、横軸は年代の推移を表している。このあたり、まさに理系脳の面目躍如。

R_Takayama このグラフに示された「切れのはたらきの主なもの」とは、「文相当の表現性」、「意義の方向づけ」、「暗喩」の三つ。「文相当の表現性」は外山滋比古の、「意義の方向づけ」については川本皓嗣の切れ論を踏まえた概念であり、これについては連載一回目に詳しい説明があった。

R_Takayama 「文相当の表現性」、「意義の方向づけ」は蕉風以来のもの、「暗喩」の句は昭和初期に突然あらわれると志賀は言う。興味深いのは昭和三十年代後半に、この三つの切れがいずれも激減する、切れにおけるベタ凪ぎの時代があったという点。

R_Takayama その時期を過ぎると「意義の方向づけ」の切れはある程度復活するが、全体として切れは低迷しているというのが志賀の見立てである。我々の体感からしても違和感のない結論ではあろう。

R_Takayama 統計的に分析するためには、一千余句のアンソロジーでは母集団の規模がいささか小さいのではないか、またアンソロジーの選句の客観性は、といった問題がすぐに思い浮かぶが、非常におもしろい試みだと思う。

R_Takayama 単なる統計的な処理だけでなく、個別の俳句作品の読解についても山本健吉その他の論を援用しながら、鋭いひらめきを見せる場合が少なくない。連載第三回、第四回での論旨のさらなる深まりを刮目して待ちたい。


「俳壇」四月号
R_Takayama 
「俳壇時評」のコーナーで、高野ムツオが「新撰21竟宴」のシンポジウムについて書いている。高野は当日、来場していないが、先ごろ邑書林が同シンポジウムの内容をブックレットにまとめた『今、俳人は何を書こうとしているのか』を読んでの感想である。

R_Takayama 高野は、『新撰21』そのものについても同誌二月号の時評で紹介してくれていたが、今回も至らぬ発言だらけの若手のシンポジウムに向き合う姿勢の真摯なことに感じ入る。

私のように、むしろ、季語以外の世界にも主題を見つけてしまう俳人にとっては、何をテーマとすべきかは今も大きな関心事である。高山れおなが引用していた「現在は主題のない時代、表現すること自体が目的となった時代」という小川軽舟の考え方は、昭和三十年代(ママ。ここは昭和三十年世代とあるべきところか……引用者)に限らず戦後世代共通のもの。私の頭の隅にもずっと存在していた。いや、かの戦争俳人三橋敏雄でさえ確か「俳句は少年と老人の文学」と述べていた。つまり、青春と死を除外すれば、俳句から主題は消えてしまうということだ。果たして、そうだろうか。私は三橋の発言は、氏一流の逆説だとも思っている。つまり、俳句を「少年と老人の文学」と見据えたところから、反転されるように見えてくる、その時代、年齢にふさわしい俳句の主題があるのだ。三橋はそう言いたかったに違いない。その主題とは何か。それはたぶん名付けられるものではない。名付ければ、その瞬間、主題ではなくなってしまう何かだ。

R_Takayama まっとうなお話が嬉しくて、ついつい長く引いてしまった。全て賛成であります。なお、逆説の怖いところは、それを逆説ならぬ正説として受け止めてしまうようなリテラシーのお方が必ずいることでありましょう。

R_Takayama それから、シンポジウムで、相子智恵と関悦史によって話題にされた斉藤斎藤の短歌についても見過ごし難い記述があった。〈雨の県道あるいてゆけばなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁〉について高野はこう言うのだ。

季語の世界とは対立する現代社会のリアルを詠んだ作品として紹介されていた。しかし、ある意味で季語中毒になっている私には、これは、明らかに季語「海苔」を鮮やかに駆使した短歌に読めた。これからの季語「海苔」は、このような形でしか生き延びられない。その見本のような短歌と思った。

R_Takayama うーむ、「のり弁」は季語後の世界ではなくて、季語のなれの果てであったか。うっかりしておりました。相子も関も(私もだが)、まだまだおでんの汁が充分沁み足りないらしい。

R_Takayama 「俳壇」四月号では「本阿弥ブックシェルフ」なるレビューのコーナーで、やはり『新撰21』について酒井佐忠が見開きで書いている。特に言うことはないですが。

R_Takayama いかがでしたでしょうか、「ブンガクの犬たち、あるいはTwitter風に」は。当方の感想としては、手間ばかりかかって意味ねぇー、のひとことに尽きます。

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