2010年4月25日日曜日

閑中俳句日記(31) 嵯峨根鈴子句集評

閑中俳句日記(31)
嵯峨根鈴子句集『コンと鳴く』


                       ・・・関 悦史


『コンと鳴く』は平成18年らんの会刊、嵯峨根鈴子(昭和24年生まれ、「らん」同人)の第一句集。全体に諧謔味が濃く、タイトル通り、狐憑きや芝居のモチーフがまず目に付く。

地芝居のこの世はみだす踵かな
葛の葉の草鉄砲よコンと鳴く
暗転の母は狐に夏狂言
狐憑きの役もらひたる村芝居
まぐはひに引き際のあり里神楽

鳴戸奈菜の序文に「俳句が自分に憑いたようなふりをしているが、憑かせたままにしている鈴子さんがいる」とある通りで、憑依されての忘我が中心になっているわけではなく、極めて意識的に離れて見ているところもある。またそうでなくてはユーモアは成り立たないので、「狐憑き」とはいっても与えられた役であり、野暮ったくも地に足のついた「村芝居」という枠組みまで同時に見せてしまうのである。

だからといって憑依が単なる意匠に終わっているわけではなく、身ぬちに奇異な熱狂の要素、自分と自分ならざる何かとの相克はあり、そうした相克の起こる場・舞台としての自己を客観視したものが「芝居」の一語に他ならない。「まぐはひ」の熱狂と「引き際」の客観視のせめぎあいを包括したところに句が成り立つのであり、このせめぎあいによって揺れ動く境界線はそのまま地芝居の中の「この世」の果であったり、《葛の葉の草鉄砲よコンと鳴く》における植物と動物の境界線であったりする。

この句自体は異類婚姻譚の人形浄瑠璃『蘆屋道満大内鑑(あしやどうまんおおうちかがみ)』の「葛の葉狐」を踏まえているのだろうが、「草鉄砲」の具体性からこの「葛の葉」はさしあたりごく散文的に植物と取るほかはなく、それが狐の鳴き声を出すわけで、ここでは芝居の内容・世界観が舞台の外へ一歩出ていることになる。《地芝居のこの世はみだす踵かな》の「踵」と同じ位置にこの句全体がはみ出しているのだ。はみだしきってしまえば恐怖(「この世」から出てしまうのだ)の領域に入るが《まぐはひに引き際のあり里神楽》に見られるように、つねに「引き際」が弁えられていて、破局の恐怖はユーモアの枠に収まっている。その際に現れるのが「里神楽」や「村芝居」だが、これらを簡単に土着性と呼んでしまっていいかどうか。句中におけるあしらいは、ごく洗練されている印象がある。むしろこれらは虚構と現実、個人と共同体、近代と前近代、生と死といったさまざまな相克の間に現象する非在の膜のようなものとして機能させられていると取った方がよい。

膜、境目、表面性がモチーフとなった句は少なくない。

桜蘂ふりふる檻の内外かな
睡らむと身を空蝉に沈めけり
なだめあひさすりあひしてはや蛇腹
おなもみを付けて生き抜く途上にあり
ゆつくりと声もどりくる湯ざめかな
囀や帽子の箱が開いてゐる
美しき顎を得たるいなびかり
たいくつや人の手袋はめてみる
恐竜のはりぼて大阪の落花
寄居虫の這ふ手の平のはづかしき
残花なほ細き手摺の吉野建
あめつちのここが境目ういてこい

《桜蘂ふりふる檻の内外かな》《あめつちのここが境目ういてこい》
は複数の力の働き、押し合う場としての境目そのものを詠み、《なだめあひさすりあひしてはや蛇腹》《おなもみを付けて生き抜く途上にあり》《美しき顎を得たるいなびかり》《たいくつや人の手袋はめてみる》《寄居虫の這ふ手の平のはづかしき》は、自他の境目にして変容の起きる現場としての皮膚が詠まれている。「おなもみ」や「いなびかり」「人の手袋」など、表面に何か過剰なものが付着すると賦活され、「生き抜く」力が湧いてくることになるのだ。こうした思いもかけぬものの付着は嵯峨根鈴子の句にあってはユーモアであり、同時に倫理なのである。

《睡らむと身を空蝉に沈めけり》は皮膜・表面を現場とした他者性へのはみだしの様相を正面から描いている。「空蝉」に沈む「身」は「この世はみだす踵」と同じアクションを取っているわけだが、こちらの方が「地芝居」の枠組が提示されていない分、より直接的に読者に浸潤してくるようだ。

《残花なほ細き手摺の吉野建》の「吉野建」は、斜面に建てられたために敷地の後方へ行くにつれて建物の床高が高くなる、つまり裏から来れば一階となる部分が正面から入ると二階になるといった建物を指すらしく、これはそのまま境目のモチーフに当て嵌まる。その境目に「残花」が関わる。この「吉野建」は生と死の境にその身を細らせているのだ。《恐竜のはりぼて大阪の落花》は「はりぼて」が表面性のモチーフ、既に死滅してしまった生物の空疎な外観と「落花」との取り合わせで、これも「吉野建」の句と似た構成。

ついでに触れれば「吉野」「大阪」に限らず地名や人名が読み込まれた句も多い。

水音の甲斐の蛙の目借時
仙人掌や美空ひばりのナット・キング・コール
月島のひと雨来さう川開
東京の蟻を見に行く夏休
陶枕やぽつとり暮るる佃島
十五夜に遅れて来たる李白かな
東京へ駆け出すふぐり落としかな
蜷の渦ちひさし余呉の雨厚し
花冷の吉野灯せばたまごいろ
枝雀聴かな実梅に色のはしるころ
ビー玉は青田曇りの播磨灘

これらの句の「佃島」や「美空ひばり」といった地名・人名も「芝居」や「舞台」と同じく、それぞれ固有の由来や情緒性を帯びつつ限定された枠組、境目として機能しているのではないか(ちなみに「ふぐり落とし」は大厄の男が厄落としのために人知れず褌を落としてくるという行事らしい)。

皮膜、枠組、境目の要素からは当然、中身がからになった(またはなりゆく)空ろなものというモチーフが派生する。

この星を水の出てゆく朴の花
引力を忘れかけたる蝉の穴
螢や父の肋のふぶくなり
誰も居らぬ雛の間何度でも覗く
紐は輪にいつもなりたし小鳥引く
雁帰る箱階段を空
(から)にして
羅や十指ひらけば風になり
たましひのぶら下がりゐる水中り
白襖奥の奥へととりけもの
ラムネ飲む空のこくんと鳴りしとき
(くふ)と鳴る海酸漿のつつがなし
雑煮食ぶだけの大人となりにけり
子等は去り沼は木枯聞くかたち

「水の出てゆく」星、輪になれぬ「紐」、「雑煮食ぶだけの大人」等、空ろなものののあり方は様々だが、それを満たす不定形の何物かもまたあり、それを正面から捉えたのが次の一句である。

魂魄に影ありからすうりに花

不定形の「魂魄」を「影」が実質のある何かへと変容させているのと同様、「からすうり」には「花」が付く。花びらの周りに髭を無数にまつわりつかせた白い花。「~からすうりに花」は「~からすうりの花」であってはならない。静的にあらかじめ一まとまりになっているものであってはならないのだ。「おなもみ」の句について見てきたごとく、過剰な何かの付着とその客観視はそのまま方法であり、倫理である。忽然と咲いた「花」の過剰が生を賦活するのだ。

鷹柱じんるい白き火をあやし

これも「~からすうりに花」と並んで句集を代表する句だろう。「鷹柱」は多くの鷹が蚊柱のように群れ集まって上昇気流に乗るさまで、つまり柱と名は付くが実体的に中身の詰まったものではない。ここに空ろなものとそれをめぐる力のせめぎあいのモチーフが再び現れ、そして「からすうり」の「花」のイメージを介するまでもなく、魂魄の揺らめき出づるさまを暗示していると取れる「白き火」の力動を暴発させないよう、客観とユーモアをもって「じんるい」は「あやし」続ける。句集全体を貫く主なモチーフがこの一句に集約されているのである。

亀鳴いていしずゑ円き国分尼寺
ゆつくりと滝落ちゆけり山桜
水槽に海月混みあふ別れかな
はひはひの赤子を放つ天の川
戯れ合うて不図食はれけり月鈴子
それからは飛ぶ夢を見ず袋角
縄文のにほひ嗅ぎ合ふいなつるび
藁塚
(にお)なくて直会の燈のかうかうと
なかぞらに毬麩浮きくる鳥の恋
ひとひらは欄間に及び山桜
鵜舟まで歩いてゐたる鵜でありぬ
就中
(なかんづく)鬼に綿棒阿波踊
冬の夜のハクショクレグホン灯りたる
襖絵に老人を飼ふ朧かな
にはとりが跣足で上がる端居かな
天の川冥きところは目をつむり



2 件のコメント:

野村麻実 さんのコメント...

> 鳴戸奈菜の序文に「俳句が自分に憑いたようなふりをしているが、憑かせたままにしている鈴子さんがいる」とある通りで、憑依されての忘我が中心になっているわけではなく、極めて意識的に離れて見ているところもある。

関さま、こんにちは!
もう、全然関係ない話なのですけれど、思い出した話をひとつ。

ポリクリ(という制度が医学部にはあります。臨床実習)で精神科を回ったときに、自分が初診で問診をとった患者さんの主訴が、
「友達とこっくりさんをしていたら、こっくりさんが憑いてしまってそれ以来頭の中に直接話しかけてくるようになった。そのままやっているのに、やることなすことおかしいらしいので、先生や家族に病院に連れてこられた」
という高校生がいたのです。

果たして、精神科の先生のところに連れて行き、「こうこうこのようです」と説明すると、「じゃあ、入院ね。担当して!この女医さん(正確には学生さんなのだが)と毎日お話してくださいね。こっくりさんは落ちますよ」とおっしゃったわけです。

私は訳がわからなくなり、
「そもそも、あれ病気なんですか????本当に憑き物が落ちるんですか?」とお尋ねしたのですが、「大丈夫。しばらくすると、頭の中の声が自分の思考の声だってわかるから。2週間のポリクリ期間中にきっと退院していかれるから」と御託宣を下されました。

果たして予言どおり女子高生は退院していかれましたが、なんとなくそのことを思い出しました(^^)。

関悦史 さんのコメント...

野村麻実さま、コメントありがとうございます。
この句集は去年新撰21竟宴のときに、来場していた嵯峨根さんにお会いしていただいたものですが、ご本人は至極普通の方で、憑きもの云々はあくまでものの例えですから念のため。

野村さんの体験談、中井久夫のエッセイなどには出てきそうですが、実際あるものなんですね、そういうこと。
2週間という経験則まで出来ている。
普通の他人と話していたのでは駄目で「医師」と話すことが重要なんでしょうか。