2010年3月6日土曜日

馬場駿吉 薔薇色地獄

閑中俳句日記(25)
馬場駿吉 『薔薇色地獄』



                       ・・・関 悦史

馬場駿吉の名を最初に意識したのは俳句全般に関心を持つようになる大分以前、書肆風の薔薇(1991年「水声社」に社名変更)という変わった名の出版社の折込チラシで句集『夢中夢』の紹介を目にしたときで、栞文を草しているのが吉増剛造と武満徹という普通の句集ではあり得ぬ二人、チラシに引かれていた《手に提げて紫陽花はわが鬱の腦》の一句とともにその作者の名も深く印象に残った。

エッセイ『時の晶相 1960-70年代の芸術家たちとの私的交友』(水声社、2004年)に詳しい回想が綴られているが、馬場駿吉は「実験工房」を中心とする当時のアヴァンギャルド芸術勃興の現場に、名古屋から東京に通いつめて立会い、滝口修造、武満徹、澁澤龍彦、土方巽、寺山修司らと親交を結んだという作者であり、この方面では他に美術評論集『液晶の虹彩』(書肆山田、1984年)、舞踊評論集『サイクロラマの木霊』(小沢書店、1998年)の著作もある。

句集としては『斷面』(昭森社、1964年)、『薔薇色地獄』(湯川書房、1976年)、『夢中夢』(書肆風の薔薇、1984年)、『海馬の夢―ヴェネチア百句』(深夜叢書社、1999年)、『幻視の博物誌』(森眞吾との句画集 水野屋・白土舎、2001年)、『耳海岸』(書肆山田、2006年)の6点を刊行。他に本業の医学部耳鼻咽喉科教授としての著作があるのだがそちらは省く。

第2句集の『薔薇色地獄』は馬場駿吉の名からイメージされる審美性に富んだ作風がここで全面に出たという全100句の句集で、限定300部。塚本邦雄の解題がつく。恐ろしい相手に解題を委ねたものだ。第1句集『斷面』から《詩は刻の斷面薔薇の棘光る》の一句を引いて塚本邦雄曰く《私は他人に獨斷を押しつけられることを好まない。そのくせ美しい獨斷に滿ちた詩歌や評論以外、殊更に求めたいとは思はない。詩が刻の斷面であるかどうかは私が決める。あらはな斷面の見える詩は二級品であり、この句にしたところで、「斷」と「棘」の鋭利な幻像が即(※旧字)き過ぎて浅くなり、この練達の士にしては配合の妙を缺くと憾んだものだ。憾みながらも、じつと何かに耐へてゐる三十そこそこの青年の態度を美しいと思つた。》この薄い一冊は、反リアリズムの言語美を審らかに味読することにかけてはこの上ない狷介な巨匠との緊張を孕んでいる。

白馬誕生白き血筋の迷宮に
春雷に破滅の秘儀の骰子
(ダイス)振る
向日葵多頭轢死華やぐ犬を埋め
向日葵黄昏若者の訃は海より來る
火葬夫娶らず片陰深く麵麭
(パン)を裂き
花火散るわが遠き死の寢臺に

価値観の転倒は生死に最も鮮やかに現れる。轢死の犬も海に死んだ若者も向日葵の華やぎとともにあり、逆に白馬の誕生は血筋の迷宮に絡みつかれ、生死の境を司る門番のごとき火葬夫は花火や向日葵の華やぎに包まれることもなく片陰に、おそらくは無味乾燥な麵麭(パン)を裂き、生の側に待機せねばならない。数句引いただけでもほとんど幾何学的な配置が見て取れる。毒はあっても情念的な呪詛の熱気はなく沈着。

秋雷幻聴鏡の罅(ひび)が顔に走り
寒燈金色鼻血滴る拳闘家
(ボクサー)
咳けど死は遙か酒場の階眞紅
死ある未來マフラーに緋の河流れ
血統圖茂り兄弟緋のジャケツ

「罅」「鼻血」「咳」と生体にとっての危機をあらわす亀裂が並ぶが、そのとき鼻血や酒場の真紅の階段など赤系の色があらわれることが目を引く。赤がただの暖色ではなく生死の間に見える傷口のごとき生々しさとして意識されている。「緋」のジャケツなどまとってしまった兄弟には将来必ずや命がけの相克が待ちかまえていることだろう。こうした事情は次の標題句の「薔薇色」においても同様。

若き胃の薔薇色地獄牡蠣沈む

健やかな薔薇色の胃が牡蠣にとっては即消滅を強いられる地獄、牡蠣と人体のスケールの違い、そして臓器の内と外の断絶相即を超えて、健康な生体がそのままで地獄であるさまを一挙に見透かす。この胃の持ち主である若者自身はおそらくそれを知らない。しかし薔薇色の中に溶けゆく牡蠣は果たしてこの「地獄」を厭うているのか。心なき身が味わう愉楽の側に寄り添った一句ではないか。健やかな青年に意識されることすらなく消される牡蠣にマゾヒスティックな愉楽を見てしまう己が「地獄」なのだと、薔薇色の明るさの中に自認しているかのような一句だ。ちなみに第3句集『夢中夢』の《少年の味蕾ひしめく上に茱萸(ぐみ)なる句もほぼ同趣向。

祖母を憎む少年繭の中に死蛾

作者自身のではなく、三島由紀夫のポルトレではないか。「繭の中に死蛾」が三島の小説の文体への批評を含んでいるように見える。

少女夏瘦刺繡の痛み布に滿ち
耳燃ゆる春夜音盤
(ディスク)に針疼き
娶らむと冬煉獄の竈築く
弟未婚冬静電氣シャツに蓄め
誕生は死の母白き毛絲編む
悍脈の蛇冬眠す父の額
(ぬか)
受苦節の肉屋鉤より肉の瀧

生きてある間は痛み疼くのみと観じ、その諸相を描いた句の一群。刺繍の縫い針やレコード針、毛糸の編み棒などのイメージがまつわるせいか、語り手自身も銅版画でも彫る如く句を言葉で彫り込もうとしているかに見える。苦痛の諸相は一応視野に収めつつ、それよりも描き彫る作業自体への没頭があらわで、その次元の差と間接性を見通す快楽に同調することが読者に要求されているようだ。

白馬水浴地球の裏に妻睡り
わが旅途も轢死の蛇も羅馬指す
耳に濃き日焼若者ネロを戀ひ
娼婦の日傘黒死病
(ペスト)の町の千年後
無花果食ふ狂者聖母
(マリア)を娶るべく
夜も噴水燦ダ・ヴィンチの裔ら飢ゑ
羅馬に離婚禁令林檎酸きサラダ
日傘一角獣
(ユニコーン)地下墓地(カタコンベ)より蘇り
欲望埋葬毛布苦蓬酒
(アブサン)色の夜々
肉盈つ水着太陽黄金
(きん)の毛むくじゃら
戀も避暑も終る帆柱棘となり
金曜の金木犀の香に歸国

ローマ旅行の一連らしいのだが、ここでも写実よりは聖書や歴史の彼方を幻視するよすがとして周囲の事物が使われる。旅先とはいえ平板なこの世の現実に過ぎないものには目を向けぬというべきか、むしろ旅先だからこそ飛翔を誘うというべきか。素材だけでも非日常になってしまうため、却って彫りの深まらない印象を受ける。中では《夜も噴水燦ダ・ヴィンチの裔ら飢ゑ》の「ダ・ヴィンチの裔ら」の空想的判断に配された「夜も噴水燦」がかろうじて現地の物質的な手応えを残し、相互に活かしあっている。

蜜に苺溺れ死後まで婚の枷
海賊版醫書に耳黴びバッハ祭
  土方巽に
薔薇枯れて肉の伽藍を支ふ腿

「耳黴び」は炎症から耳の中に真菌が繁殖することが実際にあるらしい。「死後まで婚の枷」の観念の、蜜に溺れる苺への形象化や、土方巽の一分の贅肉もないような「腿」と合わせて、この辺りの句には生々しいものの混濁の旨みといったものが感じられる。《〈殺人百科〉黴びて老少年二十歳》《少年失戀平方根の中も黴び》などもほとんど「黴」の一語に句の体重がかけられている。

いわゆる前衛俳句が下火になるとともに、審美性、観念性の句も歳月の彼方の古典の如き位置へと移りつつある。反現実の「反」がそれとして訴求力を持った時代の作として『薔薇色地獄』一巻は掬すべきものと、読み返してみて思った。
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1 件のコメント:

関悦史 さんのコメント...

馬場駿吉の第一、第四句集の句に関しては別館の方に上げてあります。

第一句集『断面』
http://kanchu-haiku.typepad.jp/blog/2010/03/%E9%A6%AC%E5%A0%B4%E9%A7%BF%E5%90%89%E5%8F%A5%E9%9B%86%E6%96%AD%E9%9D%A2.html

第四句集『海馬の夢』
http://kanchu-haiku.typepad.jp/blog/2009/01/post-d54e.html