2009年8月2日日曜日

鴻池朋子と安井浩司「天類抄」

秋田の想像力
鴻池朋子展と安井浩司最新作

                       ・・・高山れおな


東京オペラシティアートギャラリーで先週末からはじまった「鴻池朋子展 インタートラベラー 神話と遊ぶ人」(*1)は、コンテンポラリー・アートの展覧会としては近年出色のものだろう。〈「想像力という人間の根源的な力で地球の中心まで旅をする」〉というコンセプトのもと、新旧の作品をインスタレーションしているのだが、日本人作家の個展でこの規模この密度で作りこんだ例は余程珍しいのではあるまいか。あまり作りこみ過ぎて、ちょっとアミューズメントパーク的な印象も受けるほどであるが(イッツ・ア・スモールワールド? いや、そのものずばりセンター・オブ・ジ・アースか)、とにかくそこに注入されたエネルギーの総量と表現の強度には驚かされた。会期もたっぷり残っているし、是非とも足を運ばれることをお奨めする。会場は、

地殻→上部マントル→下部マントル→外殻→内殻→地球の中心→地上へ

という順序で構成されており、「上部マントル」から「地球の中心」までの五つの主室を、小品を配した「不連続面」が繋ぐ趣向である。イントロダクションとなる「地殻」には、「死者と遊ぶ人」という序詩が掲げられてあって、前半だけ引くと、

ご飯を食べないでも生きてゆけるとは それは人ではない

見えないものを捕まえる あの瞬間 あの感触
あれを 捕まえたら 身体が何かで満ち満ちてくる
己を超えた世界の扉を開くようで 他に何もいらなくなる
だからご飯も食べずに 遊びに夢中になる

ご飯を食べないでも遊んでいられるのは それは人ではない
それは死者のことだ

とあり、韜晦的といえば韜晦的な書きぶりで結構難しいが、充実した自己があれば自己を超えることができ、自己を超えれば死者とさえ遊べる、それを可能にするのが想像力だというふうに読んでおけばいよいか。

「地殻」と「上部マントル」の二つの部屋は襖で隔てられており、そこに富士山をもっと尖らせたような円錐形の火山が描かれている。顔のある火山である。ぱっちりとした目が観客を見返し、口は「あーーー」と声を発しているようだ。襖は、その顔を真ん中から引き分けるかたちで開いており、そこを通って「上部マントル」へ歩を進めると、天上からはオーロラのように波打つ白い紗幕が垂れ下がり、その間に《バージニア――束縛と解放の飛行》という立体作品が見え隠れしている。心臓のような肉塊から昆虫の翅が生えた大型オブジェである。床には、絵本『みみお』(*2)の原画が、一枚一枚、木のケースに納められて、渦巻状に置かれている。この絵本ははっきりしたストーリーはないのだが、のっぺらぼうの丸い頭から直接手足が生えている“みみお”が、大自然の中を旅する、一種の冒険譚の枠組を持っている。全身で四季のうつろいを感じながらさまよう、目も口も鼻もない“みみお”は、鴻池が考える五感と想像力の関係を象徴するキャラクターであって、絵本の他、アニメーション作品などでも活躍する。

白を基調にしていた「上部マントル」から「下部マントル」へ入ると、そこは赤の世界である。四方の赤い壁のそれぞれに、鴻池の絵画の代表作である「物語シリーズ」の四点の絵が、一点ずつ飾られている。《第1章》《第2章 巨人》《第3章 遭難》《第4章 帰還――シリウスの曳航》と題されたそれらの絵は、いずれも縦二メートル、横六メートルを超える大作で、画面は人間の子供や無数の狼やナイフが織り成す、ダイナミックで幻想的なイメージで埋め尽くされている。それが人の背丈よりも高い位置に、観客をぐるりと取り囲む形で配されており、空間の重厚さ、濃密さは、あたかもオールドマスターの作品が並ぶ西欧の大美術館の一室に入りこんだかのようだ。これらの絵は二〇〇四年から二〇〇六年にかけて制作されたもので、ばらばらに発表されたところは見ていたが、作家が望んでいた展示形態がようやく実現したものであるらしい。

赤くほの暗い「下部マントル」の密閉空間から「外殻」へ進むと、大きく視界が開ける。部屋のどん突きに、十二枚続きの新作の襖絵がやや開き気味のコの字形に配されている。中央は巨大なドクロで、その口から金色の霧が左右に噴き出している。向かって右には後脚が人間のそれになっている狼たち、左にはおなじく人間の脚で立つ蝶たちの群像が描かれている。霧のような金彩を除けばモノトーンながら、描写はいたって写実的、それがほぼ等身大(というのは人間の脚を基準にして言うのだが)に描かれているのだから、ちょっと身の毛のよだつような気味の悪さがある。人獣混交した生き物たちと人間の頭骨という“取り合わせ”は不吉のようでいて、しかし画面が示しているのは一種、凄惨な精気のようなものである。これは一風変わったヴァニタス画、なのだろうか。ふつうのヴァニタス画が死の生に対する優位を語るものだとすれば、鴻池のこの作品《シラ――谷の者 野の者》が語るのは、じつは生を支えているのが死だという思想のようにも感じられる。あるいは、これら人獣混交の者たちがさざめいているのは、死者の想像力と生者の想像力がまじわる場所なのかもしれない。

つづら折りの通路状の空間に、澁澤龍彦の『狐媚記』(*3)のための挿絵原画やアニメーション作品が並んだ「内殻」を経て、展示はいよいよクライマックスに至る。深度六四〇〇キロ、「地球の中心」の暗闇で待っていたのは、鏡片で覆われた巨大な《赤ん坊》の首だった。《赤ん坊》の右目はかっと見開かれ、左目は盲目なのであろうか、白く濁っている。そして、遠吼えでもするかのように大きく口を開いたまま、首はゆっくりと回転している。首を覆う鏡片に乱反射したスポット光が部屋中にばらまかれて、テラス状の通路から《赤ん坊》を見下ろしている観客も、その星の渦に巻き込まれるかたちになる。「地球の中心」にあるのが、光を撒き散らし、叫びながら回転する《赤ん坊》の首だというのは、ある意味、ベタすぎる形象というものかも知れない。作家自身、「想像力の限界かもしれない」と言っていたが、とはいえ物語的な想像力というものは、それ自体はどうしたって類型性を免れないものだろう。要は表現そのものが類型性のうちに埋没して終わるか、あるいは、類型性をコミュニケーションの回路として担保しつつそれ以上の何かを受け手に伝え得るかどうかの問題だが、鴻池のこの作品については間違いなく後者だと思う。

技術的なことでは、もともと「物語シリーズ」のように普通のタブロー(といっても実は木枠に貼られているのは麻布ではなく雲肌麻紙なのだが)に描いていた作家が、襖絵という形式へと展開してゆくさまが興味深かった。鴻池は襖に惹かれるようになった理由をいくつか挙げていて、そのひとつは、黒枠で縁取られた建具としての構造が、自分とは別の誰かの視線が存在するかのように感じさせるからだ、と述べていた。もうひとりの誰かの眼差しを喚起するフレームというのは、絵本でもよく使われる手法だとのことで、だとすれば襖絵と絵本にはイリュージョンを発生させるための共通の仕組みがあるということになるし、なるほどそう言われるとそんな気がする。鴻池が顕著な具体例としてあげていたのはアメリカの絵本作家クリス・ヴァン・オールズバーグの『西風号の遭難』(*4)、『急行「北極号」』(*5)、『いまいましい石』(*6)などで、いずれも村上春樹が翻訳しているのは偶然なのだろうか。鴻池は、村上の訳がいまひとつピンとこず、原書で読んだと言っていたが、しかし、『西風号の遭難』にある「訳者あとがき」にある次のような記述を読むと、村上もまた鴻池が指摘している事柄に気づいているように思われる。

オールズバーグの描く光は見ているだけでこちらの手がその色に染ってしまいそうなくらい生き生きとしている。そのあたたかみや冷ややかさや、そこに含まれている草の匂いや潮の香りまで感じられそうな気がするほどである。しかしそれにもかかわらず、その光が本当のリアルな光かというと、そうではない。それは人工的な光とは言えないまでも、少くともどこか別の場所から運ばれてきた光である。我々はその光の質を画面の中からはっきりと感じとることはできるし、その感触を我々自身の記憶の一部として認めることもできるのだが、それではその光が我々の記憶のどのフェイズに属しているのかということになると、たしかなことは何ひとつとしてわからなくなってしまう。それはある意味では既視感(デジャ・ヴュ)に似ている。細部まで明確に感じとれればとれるほど、その風景や事物の核は我々の手からどんどん遠去かっていってしまうのである。

言葉の人である村上があくまで鑑賞者として絵の色遣いに即して述べているのに対して、鴻池の方は、自らも絵本を制作する必要から形式的な構造としてオールズバーグを理解しようとした、ということになるだろうか。村上が「どこか別の場所から運ばれてきた光」と述べている事態を、鴻池は別の誰かの視線を導入するものとしての頁の枠(襖の場合は黒枠だが、オールズバーグでは白枠である)の問題として見出しているのである。

鴻池の展示や発言のことを考えているうちに、評者の脳裏にはひとりの俳人の名前が明滅しはじめていて、それはつまり安井浩司なのだった。安井が一九三六年生まれ、鴻池が一九六〇年生まれと、ちょうど親子くらいの年齢差になる二人には、共に秋田出身であるという共通項もあって、それはそれで興趣ある風景なのだが、むろんより重要なのは両者がいずれも、鴻池の用語でいうならば飽くなき“想像力”の人であることであり、神話的な全体性などという考古学的遺物を、この二十一世紀のラストマン(末人)の社会に向けて本気で提示しようとしているらしいことだ。もとより造型美術と俳句では、使えるツールが全く異なるのだから、具体的な作品のレベルでそうそう安易な比較が出来るものではないけれど、それにしても濃密な幻想性のうちに紛れもない“真”の手ごたえを残すそのゆき方と、横溢する自然表現の豊かさに、ある質的な類似を感じる、とまでは言わせてもらってもいいだろう。それともうひとつ、鴻池にはそのものずばりのアニメーション作品もあるし、その絵のテイストからしてもマンガの影響はあきらかなのだが、じつのところ安井作品も一面において多分にマンガ的アニメーション的な映像性を帯びているところがあるように思う。豈本誌四十八号に載せた安井の「蛇結茨抄」五十句についての拙稿(*7)で、評者はなぜか諸星大二郎の『妖怪ハンター』(*8)を引き合いに出す仕儀となったが、同号に載った安井の最新作「天類抄」五十句もまた、

月光や漂う宇宙母(ぼ)あおむけに

なる一句から始まっていて、これはどうしたって『崖の上のポニョ』のグランマンマーレを思い出さないわけにはいかない(成功していないが二十三句目には〈あおむけに海の乳房や遠いさな〉という句もある)。とはいえ、この「宇宙母」は何かの描写ではないのももちろんで、具体性を欠いた観念であることの弱みと、イメージを限定されることによる馬鹿馬鹿しさ(実際、グランマンマーレだって馬鹿馬鹿しいといえば馬鹿馬鹿しい)を最初から免れている言語芸術の強みが、こもごもに発揮されていようか。また二句目の

渾円の天地のずれに住むからす

は、中国(そして日本)の天体観測器具である渾天儀(こんてんぎ)のイメージを踏まえている。渾天儀は、天球上の子午線や赤道、水平線などを示す複数の環(当然ながらそれぞれが「渾円」つまり“まん丸”である)からなっており、それらの環は、観念された自然界の構造を物質化したものと言える。それら可動式で「ずれ」によって天体の関係を示す環の形象を、こんどは現実の「天地」の方へ投影したのが掲句ということになる。目には見えないはずの宇宙の構造を、それを抽象し物質化した人工物を媒介することで映像的に露出させた句なのである。そして、宇宙の構造と共に提示された「からす」は、八咫烏(ヤタガラス。日本神話では神武東征を先導したとされ、古代中国説話では太陽の中に住んでいたという、三本脚のカラス)のような超越性を帯びた存在になりおおせると同時に、やはりカラスはカラスであって、我々の身近で生ゴミを食い荒らしている卑近の存在でもあり続ける。なぜなら、それが素朴実在論的な実感からいかに程遠くとも、我々もまた「渾円の天地」の住人であるからだ。

さて、四句目の

足摑み人鎖なす春の空

となると、マンガ的映像性はいっそう強まっているようだ。両手を伸ばして別のひとりの両足首を摑み、両足首を摑まれた者がさらに別のひとりの両足首を摑み……ということを果てしなく繰り返して出来る人間の鎖が、幾筋も幾筋も「春の空」をよぎっているのであろう。ソ連崩壊直前の一九八九年八月二十三日、ソ連支配下のバルト三国で行われたデモンストレーション「人間の鎖」には無慮二百万人が参加、六百キロメートルにわたって「人鎖なす」事態が生じた。これはもちろん、手に手を繋いで水平方向に伸びてゆく鎖であるが、安井の幻想の鎖は足首を摑みあいながら、重力にさからい、垂直方向に伸びてゆき、大きく撓みうねっているのに違いない。あるいは、これも社会的な抗議行動として行われるダイ・インで、「足摑み」ながら横たわった例が過去にあって、それを参照しているのかもしれない。興味深いことに鴻池朋子の作品にはこの句と類似のイメージを示すものがあって、それはすでに言及した「物語シリーズ」のうちの《第1章》という絵である。針葉樹の森に囲まれた夜の湖の上に、巨大な結晶体が生じ、そこから十本ほどの筋が噴き出て、激しい軌跡を描きながら画面を埋めているのだが、その筋というのは狼なのである。ただし、顔や手足などはなくて、ただ尻尾だけが異様に伸張したもののようにも見えるし、あるいは鴻池の他の作品から類推すると、無数の狼が合体融合し、紐状化したもののようにも考えられる。ちなみに、「人間の鎖」には、バルト三国の連帯を示し、ソ連からの独立を勝ち取るという具体的な目標があった。安井の句にそんな目標など無いのはもちろんながら、なおそこになにがしか個人の夢想としての連帯の希望のごときものがこめられているのではないか。多少の滑稽さと、多少の悲愴さとを含んだイメージが、「春の空」の晴朗さを背景に奔放に展開している。

夢野なら十字狐を枕とす
砂あらしエジプト十字となる人よ
三大の旅成りてこそ枯野人

順に二十七句目、三十六句目、四十八句目で、前の二句についてはやはり顕著な映像性がみとめられる。三つの作は、直接の相補関係にあるわけではないが、「旅」という要素が通底するのが見て取れる。特に一句目と三句目が、〈旅に病で夢は枯野をかけ廻る〉を媒介にして繋がっているのはあきらかで、「三大の旅」はいちおう「野ざらし紀行」「笈の小文」「おくのほそ道」に描かれた三つの旅を俤にしているわけだが、しかし「枯野人」すなわち芭蕉だと安井は言っているわけではないことにも注意すべきだろう。「成りてこそ」のフレーズが指し示しているのは、いわば未成のもうひとりの枯野人/芭蕉であり、他者ないし自己への「芭蕉たれ/たらん」との期待とも、「芭蕉たりえず」との断念とも受け取れる表現である。どちらにせよ、彼自身の「三大の旅」を求めて、あまたの(あるいはひとりの)妄想の旅人を果てしなく歩ませ続けてきたのが安井の来し方であり、その旅が未だ終わっていないことを示すのが一句目・二句目ということになる。両句には「十字」の語が共通しており、前作「蛇結茨抄」におけるキリストと使徒たちの旅との類縁も感じさせるが、ここではさらに一歩を進めての芭蕉の旅とキリストの旅の重ね合わせさえが目論まれている気配がする。もちろんそこには「十字狐」(というのはぶっちがいになって眠る二頭の霊狐なのであろう)が暗示するアニミズムや、「エジプト十字」(これはアンクとも言って、ラテン十字の頭にループが付いた形。古代エジプトの文化において生命を象徴する記号)によって表象された、東アジアのそれとも違う多神教のとりこみさえあって、芭蕉=キリストといった単純な図式が描かれないような周到な配慮がなされている。その上でなお芭蕉/キリストの旅の重層化という形で、日本人あるいは安井個人にとっての救いについての考察がなされているのではないか、そのように思ったのである( ちなみに、エジプト戦線におけるドイツ軍の英雄ロンメル将軍は、「砂漠の狐」と通称されたから、その筋で一、二句目を結び合わせることもできる。その場合の「十字」には、ドイツ国防軍の徽章の意味も生じようか。それはそれで、悲壮な詩が生まれることになる)。

救いの問題ともかかわるが、この五十句の核となっているモティーフは、昨年急逝した夫人の追悼のように思われる。十二句目から十九句目までを引く。

笹越えの日輪月輪乳母車
睡蓮図見あげる産院天井に
春雷雲かすかに勃起する羊
天地袋
(あめつちぶくろ)からだの外に妊む妻
紫雲英原すべるごとくに産まる我
睡蓮やかの女
(ひと)にみな見占められ
身の透けて輝く精子や樹下の妻
春高野めざす弔辞をふところに

事実として高野山に夫人の遺骨を納めるなどのことがあったのかどうかは知らないし、実際のところそれはどちらでもよい。むしろ、わが国における最大のアジールであり、死者の国である場所の名が呼び出されたこと自体が重要なのだ。しかもそれがその地に立っての描写ではなく、「めざす」対象として歌い上げられているところに、どうしようもなく安井浩司を感じる。

この高野山の句をコーダに置きつつその前に並ぶ七句を見ると、「春雷雲」の句を除けばいずれも「妻」や「かの女(ひと)」の妊娠や出産を詠んでいるものとおぼしく、そのロマンティックな高揚はいよいよはなはだしい。なにしろ、〈天地袋(あめつちぶくろ)からだの外に妊む妻〉とあって、妻が妊むことはすなわち天地が妊むことだというのだから、この「妊む妻」が生身の妻とはおよそ存在のスケールを違えていることはあきらかだ(関悦史がいう「全体と全体以外」の問題にかかわる句でもある)。また、〈紫雲英原すべるごとくに産まる我〉ともあり、視点人物たる「我」は“妻”から生まれさえするのである。妻としての母となるとオイディプス王的な暗澹たる関係性の悲劇を惹起しかねないが、ここに展開するのはあくまで明朗な世界であり、大地母神のような、あるいは『老子道徳経』にいわゆる谷神(こくしん)のような、無限に産み殖やす霊威にまで高められた“妻”に対する賛歌に他ならない。表現を動機づける核には夫婦の若き日々への回想があり妻への感謝があるのであろうが、そうした本来的には平凡な心意も、安井浩司の手にかかるとこのような叙事詩的で荘重な光景に変容してしまうのである。そして、二十世紀以後の文学・芸術にあっては、叙事詩的であることは、多少なりともマンガ的・アニメーション的とみなされる危険を冒すことに繋がる。マンガ世代 真っ只中の鴻池はそのような評価を甘受するのにやぶさかではあるまいが、マンガ第一世代(つまり団塊の世代)よりさらに一回り年長の安井が、このことをどう意識しているのかしていないのか、評者には判断つきかねる(数年前にお邪魔した安井の書斎に、マンガ本が置いてなかったことは確かだが)。

さて、ここに掲げた八句のうちでは、評者は〈笹越えの日輪月輪乳母車〉を最も好む。笹生(ささふ)の上を過ぎてゆく太陽や月が、「乳母車」の前後の車輪に見立てられている。もちろんこの乳母車は、今どきのB型ベビーカーではなく、是非とも昔風の、籐で編んだ箱に大きな車輪の付いたA型ベビーカーであることが望ましい。今し方の話に戻れば、「乳母車」が笹生の上を、つまりは空を飛んでいるというのも、いかにも映画的とりわけミュージカル映画的なイメージのような気がするのだが如何。

最後に宿題としたいと思うのは、

天地陰(いん)堀麦水の気配すや

堀麦水(ほり・ばくすい)は加賀金沢の俳人で、中興名家のひとりであるが、安井はどういうつもりでこのような句を作ったものであろうか。いや、麦水に限らず、安井の俳句に登場する俳人・歌人・詩人は古今にわたって数多い。しかし、安井を論じる人たちはたいてい、身欠きニシンや蛇や牛やヴァイオリンに夢中で、それら先輩諸詩歌人の名が呼び出されたゆえんについて考察をめぐらせた例は少ないようである。いずれ、このテーマについて考えてみたいと思う。

(*1)「鴻池朋子展 インタートラベラー 神話と遊ぶ人」は九月二十七日まで。詳しくは、東京オペラシティアートギャラリーのHP参照。
http://www.operacity.jp/ag/exh108/
(*2)鴻池朋子『みみお』 青幻舎 二〇〇一年
(*3)澁澤龍彦著+鴻池朋子画『狐媚記(ホラー・ドラコニア少女小説集成)』 平凡社 二〇〇四年
(*4)C・V・オールズバーグ『西風号の遭難』 村上春樹訳 河出書房新社 一九八五年
(*5)C・V・オールズバーグ『急行「北極号」』 村上春樹訳 あすなろ書房 二〇〇三年
(*6)C・V・オールズバーグ『いまいましい石』 村上春樹訳 河出書房新社 二〇〇三年
(*7)高山れおな「われ生きんとす―安井浩司書下ろし五十句「蛇結茨抄」を読む―」/「―俳句空間―豈」第四十八号
(*8)直接的には『妖怪ハンター』(集英社 一九七八年)所収の「生命の木」

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