■創刊のことば
俳句など誰も読んではいない ・・・高山れおな
「―俳句空間―豈weekly」を創刊する。俳書を読み、その感想を記す文章のみのサイトで、作品発表の場所ではない。
俳句の世界には、他人に読まれることを待っている人は大勢いるが、他人の書き物をみずから読もうとする人はいたって少ないと誰かの発言にあった。そもそも結社誌なる存在にしてからが、主宰者を主体にした刊行物という見せかけのもと、多数の小口の出資者が共同でひとりの読み手を雇っていると考えた方が実態に近いだろう。意地悪く言えば、句会もまた、俳句作品に対する贋の需要を最小限の犠牲で発生させる装置なのだ。こうした事態への慣れによって、誰が自分の作品を読むのかという目もくらむような問いは隠蔽され、読むこと、読まれることに対する奇妙に楽観的な心性が形成される。平明とか難解といった言葉が、いかにも屈託なく作品評価の場を支配することになる。
俳句人口なるものがどんな誇大な数字を示そうとも、俳句など誰も読んではいない。残念ながら事実はその通りだが、しかしこの事実に甘えて、みずからもまた読むことに怠惰であったのではないかという反省が今はある。当サイトの立ち上げは、数週間前、雷雨の神楽坂の某酒肆でとつぜん決まった。古人曰く「兵は神速を貴ぶ」というわけで何の準備もないままの見切り発車である。創刊メンバーは、生野毅、中村安伸、高山れおなの3名だが、おいおいに書き手が「豈」内外に広がってゆけばよいと思っている。
二〇〇八年八月八日の夜記す
3 件のコメント:
読み手ここに一人います。
楽しみにしています。奥田亡羊
面白く拝見。頑張ってください。
1)女性俳句への真摯な再見からはじまった当誌の発展を期待します。創刊おめでとうございました。
俳句など誰も読んでいない、という言は、仁平さんでした?
俳句の「句」というもの、まったく読みたくないときがありますが、でも、ああ読んで良かった、ということはたくさんありますよ。批評文も、おなじでつまらないのも多い。全く読みたくないことがあります。(ここの文章は、ちゃんとよんでいます)。
ありきたりのいいかたながら、好い句がなければ好い批評も生まれない。逆もまた、ということでしょう。
2)2号の貴評論の欄に書くべきかも知れませんが。
「池田澄子」は、好い俳句好い俳人の句集を誠実に解読鑑賞して、句集評をつうじて、一箇の自分の批評スタイルを築かれました、いいかえれば周囲の作り手が、自分を理解する読み手を作り上げてゆくプロセスがこれほどはっきりしている例は少ないです。それにこたえられたのは、立派なことだと思います。「宇多喜代子」も或いは同じタイプの女性俳句の批評家かもしれませんね。大人の社会人の女性の文体ですね。
3)「黒田杏子」、それから私の視野には「秦夕美」がいるのですが、彼女たちは、自分の思いや趣味嗜好がはっきりしていて、それが先だって、文学的興味もふくめた感興の渦に対象世界を巻き込んでゆくタイプ、
わたしは、こうすすむ、こうやるということが最初からかなりはっきりしていて、
「季語の現場に発つ」とか、「誰それが好きだからこのことをやる」とか。
一種の自己肯定の勝利です。対象を自家薬籠中のものとしてしまい、選んだ自分も選ばれた相手もそこで納得する、典型的な文学少女型。実際の社会的場面でこの方が少女だといういみではありません、あくまで、表現を目指す個性のことを比喩的にいっています。
4)もう一つ、句は一つの導入であって。そこから次の世界へ渡ろうとするタイプ。批評の独在性をきわめる、というべき方向がありそうです、男性なら筑紫磐井さんの純理論志向、女性俳人このタイプがあまりいません。
資質的には「八木三日女」は、それにちかいか、と、おもいますが・・(やはり、ちちがうか?)。全部発揮してはおられませんが、わりと見通しておられるような気がします。
女性の自己形成とか作家精神の建て方には、様々のケースがあります。悪戦苦闘を見ていて愛しくなる様なほどですが、ソウイウ女性の位置の重層性や自己撞着をまずすくい上げてくれるの読み手が、男性にも女性にもあらわれてほしいものです。
華麗な鑑賞シリーズは、一応網羅しているとは思いますが、なにかがたりない、指の間からこぼれおちるなにかがあります。俳句の志は空間的にはもっとひろいようにおもわれました、6巻をよんだ範囲でのことですが。
ともあれ、「近頃大人になったらしい仁平勝」、といえるほどオトナになったらしい高山れおなさん(笑)の、自省を込めた反語の行方に期待します。書き込みが前後しますが、1,2号なかなか力作で、女性の俳句を考える大きな示唆をふくんでいます。文章うまいわね。(皮肉じゃありません)。お元気でご健闘ください。(堀本 吟)
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