田中善信『芭蕉 「かるみ」の境地へ』を読む、併せて矢島渚男『俳句の明日へⅢ―古典と現代のあいだ―』についてもちょっと
・・・高山れおな
凡兆に
こりもせで今年も萌(もゆ)る芭蕉哉
なる句がある。元禄六年(一六九三)に刊行された俳諧選集『弓』(壺中編)に載る作だという。凡兆は周知のように元禄四年、芭蕉監修のもと去来と『猿蓑』を共編するものの、程なく芭蕉と疎隔を生じ、元禄七年十月の芭蕉の葬儀にも参列していない。つまり作句の時期からして、この句の「芭蕉」は、単に植物のそれを指すだけではなく、芭蕉その人をあてこすったものと考えてよいらしい。学術書から俗書まで、よくもこう次から次へと芭蕉本が出るものだといつも驚きながら思い出す句である。だから、書店でいやでも目につくように置いてある中公新書の新刊に『芭蕉 「かるみ」の境地へ』(*1)の文字が見えた時には「またですか」と思ったが、著者が田中善信なのでいちおう買っておく。でもって、いちおうはじめの方をちらちら読んでみる。するとやっぱり止まらなくなって、結局最後まで読んでしまう。以下、目次。
はじめに
プロローグ 俳諧とは何か
第一章 江戸へ出るまで
伊賀の宗房/『貝おほひ』を読む/
陽気な野心家
第二章 江戸俳壇と芭蕉
修業の日々/親友素堂/俳諧師桃青/
延宝八年の芭蕉
第三章 失意と転生
深川の生活/点業廃止/禅と『荘子』/
『みなしぐり』を読む
第四章 旅の始まり
類焼/故郷への旅/『冬の日』を読む/
『野ざらし紀行』を読む/俳諧革新
第五章 『笈の小文』の旅
江戸蕉門の拡大/越人と杜国/芭蕉の人柄/
造化に帰る/「病雁」と「いとど」
第六章 『おくのほそ道』と『すみだはら』
旅立ち/『おくのほそ道』を読む/
『すみだはら』を読む/晩年の境地
エピローグ 芭蕉の没後
田中善信といえば、一九九八年、講談社選書メチエの一冊として出た『芭蕉=二つの顔』の印象が強い。かなり評判になった本なのでご記憶の人も多いことと思う。この本のいちばんのポイントは、延宝八年(一六八〇)冬、芭蕉が日本橋から深川へ突如転居した背後に、芭蕉の妾である寿貞と甥である桃印の密通を想定したことで、俳諧師生涯の一大転機である深川移住について、従来は点者生活への嫌悪という感情面に理由づけを求めていたのに対し、それとは全く異なる社会的な要因が提示されたのである。重要なのは田中説が単に深川移住というひとつのトピックスの説明にとどまらず、芭蕉の人間像そのものに小さくない変更を迫る点で、しかしそれは決して偶像破壊といった否定的なものではなく、むしろ芭蕉の精神的な成長や変化のプロセスをより具体的にし、芭蕉像にさらなる生彩を加えるものだった(と、評者は思う)。ただ、田中説は整合性の点では申し分ないものの、直接証拠ではなく状況証拠に基づいているところが弱点で、一昨年に出た文庫版(*2)のあとがきに田中が記すところによると、俳文学界ではほとんど完全に無視されたという。
こんどの『芭蕉 「かるみ」の境地へ』で示される芭蕉像は、基本的には『芭蕉=二つの顔』で獲得されたそれを踏襲するものである。すなわち、芭蕉が故郷の伊賀上野から江戸へ打って出るに際して地元の天満宮に奉納した句合せ『貝おほひ』などの分析から、本来の芭蕉が、現代ならさしずめカラオケでマイクを握りっぱなしになるようなタイプで、異様なまでの言語的アクロバットを弄する機才に恵まれていたこと、江戸では町名主の秘書をしながら数百人単位で人を動かす上水道関連の仕事を請け負うなど処世の術にも長けており、経済的にも羽振りがよかったであろうことを指摘する。俳諧師としての売名にも抜かりのないこの「陽気な野心家」が、それまでに築いた地歩を擲つかのように深川に移住してしまう謎をどう説明するかが前著の核だったわけだが、今回はそこはさらりと通りすぎて、望んで深川に移ったわけでもない芭蕉がいかにして後半生の求道的な詩人へと自己形成を遂げたのか、そのプロセスを仏頂和尚との関係を軸に解き明かしている。前著は一般向けの選書とはいえ、芭蕉の出自や深川移住の問題については考証にかなり筆を割いていたのに対し、今回は考証の部分は省略して、句文の鑑賞も含め、芭蕉の生涯を満遍なく叙述することが主眼になっている。先程の文庫版あとがきによれば、丸谷才一が原著に寄せた好意的な書評の中に、〈芭蕉の俳風の変化に「文学それ自体の展開と深化があることを忘れている」〉という言葉があったとのことで、今回の新書の書き方はある程度は丸谷のこの批判に応えようとしたものなのかもしれない。
さて、ここで話はいきなりあらぬ方に飛ぶのであるが、以前、東洋史学者の内藤湖南が河東碧梧桐や中村不折を文盲と罵っているのを読んで驚いたことがある。
況や近頃のやうに、俳句などをヒネくるものが、文盲の癖に、北派にも何にもならないエタイの知れない字を書いたり、看板やコマを書く一種の俗筆を北派だとして居るに至つては、殆ど採るに足らないものである。(「北派の書論」)(*3)
これは王羲之などの系譜につらなる南朝系の帖学派の立場から、北朝系の碑学派に学んだ碧梧桐や不折の書風を批判しているので、もちろん字が読めないと言っているわけではなく、学識(この場合は特に漢学の)が無いとけなしているだけであるが、だとしても「俳句などをヒネくるものが、文盲の癖に」という罵言のはしたなさは、ポリティカル・コレクトネスな草食化の現代にはありえないなあと感じ入ったのだった(「第二芸術」論なんてずいぶん上品なのですよ)。いや、こんな話題を急に持ち出したのも、田中の新書にまさにこの意味での文盲の語が出てきてハッとしたからで、それはプロローグにおいて貞門から談林への展開を説明する一節である。
宗因の一番弟子ともいうべき井原西鶴は、延宝年間に俳諧師としてめざましい活躍をするが、彼の弱点は「文盲」であることだった。ここでいう「文盲」とは歌学の知識がないということである。このことを自覚していた西鶴は、架空の問答体で書かれた『生玉(いくだま)万句』の序文で、「問ふて曰く、文盲にしてその功成りがたし。答へて曰く、六祖(りくそ)は一文不通にしてその伝を継ぐ」と書いている。ある人が文盲では成功しないのではないか、と問いかけたのに対して、中国禅宗の六祖である慧能(えのう)は、文字が読めなくても中国禅宗の伝統を継承したではないか、と答えているのである。延宝年間になると、西鶴や芭蕉のような歌学の知識に乏しい「文盲」の人が、俳諧師として活躍できる新しい時代が始まったのである。
芭蕉が出現するまでの俳壇状況を概観したこのプロローグは、淡々とした筆運びの中に身も蓋もない指摘がぽんぽん飛び出して、この種の小史として抜群にヴィヴィッドなものになっている。といっても、格別新しい資料が紹介されているとか、新事実の指摘があるというのではない。材料は既知のものばかりなのにそれを扱う匙加減が絶妙なのだろう、いわば芭蕉自身が見ていた同時代の空気がリアルに立ち上げられている印象があって、上に引いた部分で言えば西鶴や芭蕉が無学であったことは、それ自体としてはむしろ常識に過ぎまいが、「延宝年間」の俳諧=談林俳諧の意義を彼らのような無学な人間にも活躍の場を与えた点に求めるのは、斬新な見方ではあるまいか。プロローグの最後で、田中はさらに以下のように念を押す。
芭蕉は「上に宗因なくんば、我々がはいかい、今以て貞徳が涎(よだれ)をねぶるべし。宗因は此の道の中興開山なり」(『去来抄』)と述べている。(中略)芭蕉が宗因をどのような観点から評価したのか、この文言だけではよくわからないが、宗因が俳諧を和歌から解放したことを評価したのだと、私は考えている。「謡は俳諧の源氏」といわれる状況の中で、『源氏物語』に代表される古典文学の地位はいちじるしく下落した。貞門俳諧の時代には、歌学の教養が俳諧師にとって必須の条件であったが、談林俳諧の時代になるとその条件がなくなった。このことは俳諧が和歌の束縛から解放されて、俳諧独自の立場を獲得したことを意味する。つまり談林俳諧の時代には、何でもありという状況になったのである。このような状況の中から芭蕉の蕉風俳諧が芽生えたのである。
芭蕉にとっての宗因の位置づけについては、やはり今年出たばかりの矢島渚男の本(*4)の中にも、ユニークな論が出ている。田中と同じ『去来抄』の言葉を引きながら、〈「何故、宗因の談林風がなければ蕉風が成立しなかったのだろう」という素朴な疑問を長い間持ちつづけ〉てきたと矢島は述べる。それは、矢島にとって〈学者の書いた俳諧の歴史を読んでみても一向に解決されない問題〉だったというのである。
山下一海氏が最近書かれたものを読むと「大胆な古典のもじりや奔放な風俗の活写によって、貞門俳諧の穏健さを圧倒するかに見えた談林俳諧も、その技法は結局、貞門で重んじられてきた縁語・掛詞を機知的に活用し、拡大応用したものであった」とある。これは貞門から談林へといっても本質的な違いはなくて宗因の談林は貞徳の流れを「拡大応用したもの」という見方であって安心はするのだが、宗因がただ貞徳風を拡大しただけであるなら、先の芭蕉の言葉はますますわからなくなってしまう。この両者の間の違いが明確にならなければ、何故、宗因は貞徳を凌いで次の時代をになう作者になったのか、芭蕉の言う「宗因がいなければ、われわれは今も貞徳流にとどまっていたはずだ」という意味の言葉も理解されないだろう。
矢島の考察は、発句だけを問題にして付合を充分考慮に入れていないという重大な欠陥があるが(貞門と談林の付合は発句の場合よりはっきり異なっているようだ。これも田中本にわかりやすい解説あり)、ともかくこのアポリアを、矢島は田中とは全く異なる視点から突破していて、それはそれでとても魅力的な解答である。すなわち矢島は、考えるべきポイントは〈談林派全体の問題ではなく、宗因その人の持っていたある傾向〉にあるのではないかとし、宗因の
我も頓(やが)てまゐるぞかゝるぞ袖の露
という句に注目する。
これは親しい友人――松江重頼か――の墓に手向けた句と推測される。「俺もおっつけお前の所に行くよ。死んでしまったお前のようになるのさ。わが袖にかかるのは露か、涙か」といった意味だろうか。「かゝる」がこのような状態ということと、(露が)散りかかるという両方に掛けられる技法は談林派そのものだが、この句で注目されるのは「我」という語であり、その「我」に発する痛切な「叙情」である。機知・諧謔を狙ってきたそれまでの俳諧史の本流はやがて川柳という独立のジャンルとなるのだが、その本流の中の宗因にいたって「我」や「叙情」という異端が芽生えていた――そう考えてみたときようやく私には芭蕉の言葉が痛いほどに理解される気がした。宗因はことに晩年の発句において「我」を取り戻し「叙情」を核に据えた人なのだ。
片や矢島が言う「我」と「叙情」とは他ならぬ和歌の得意分野であり、片や田中は「和歌の束縛」からの解放に宗因俳諧の意義を見た。一見すると正反対の意見のようだが、田中が言う「和歌」は短歌作品そのものというよりは歌学の教養のことだから、両者必ずしも矛盾しているわけではない。要は、貞徳や季吟のような人たちが、一級の学者であることをもって一級の俳諧師であることを担保されていたような条件のもとでは、西鶴や芭蕉のような「文盲」の出る幕はなかったが、宗因を総帥とする談林の席捲によってそのような制約がなくなった。その上で、宗因の表現自体から芭蕉が何を学んだかと考えれば、矢島説の成り立つ余地は充分あるわけだ。ちなみに田中は、〈芭蕉の古典文学に関する知識の多くは、耳学問によって得られたと私は考えている〉と言い切っている。きっとそうなのだろう。当時でも今でも、知識において芭蕉にまさる人間は少なくないはずなのに、作品において誰も芭蕉に敵し得ない理由――さしあたりそれを才能と呼び、精神と呼び、文学性と呼んでおくしかあるまいが、もうひとつ「文盲」性そのものが芭蕉の武器であったとは考えられまいか。これはそう不思議な話ではなく、正岡子規だって旧派宗匠から見れば文盲の書生俳人だったのである。もっとスケールアップして、ラテン語もギリシャ語も出来ない低学歴ぶりをライバルたちから馬鹿にされていたシェイクスピアを持ち出してもよろしかろう。新しい表現は、「文盲」性にこそ宿るという面があるから、分かった気になって「型」などと言わない方がよろしいのではないでしょうか(分かった気にならないと「型」は見えてこないわけですから)と、これは例によって例のごとしの余計なお世話。
さて、田中の本では、他にもいろいろ豆知識的なトピックスが興味深かったので、それをいくつか。
まず、芭蕉時代の俳諧師の住まいは、〈今日の碁会所のようなもので、月に数日句会の日をもうけており、若干の茶代を払えば、だれでも自由に出入りして俳諧を楽しむことができた〉とのことで、江戸へ出てきた当座の芭蕉はそうした句会で自分を売り込んだのではないかという。芭蕉はそうした句会で知り合った幽山という俳諧師の執筆(しゅひつ)を務めながら俳諧師修業をするのだが、その頃の芭蕉はまだ髪を剃っておらず、かといって髷も結わない「なでつけ頭」だったらしい。
芭蕉と同時代の俳人で漢学がよくできたのは、一人は芭蕉の親友の山口素堂(そどう)で、一人は宗因門下の岡西惟中(いちゅう)。惟中は、〈漢学者ではないが、『誹諧猿黐(さるとりもち)』に、彼が『大学』や『古文真宝』を教えて生活費を得ていたことを示唆する文言〉があり、〈漢学の素養においては、芭蕉はおそらく彼の足下にも及ばなかった〉とのこと。
作品鑑賞では、『みなしぐり』所収の「詩あきんど」歌仙にある
芭蕉あるじの蝶丁(タヽク)見よ 其角
腐(クサ)レたる俳諧犬もくらはずや 芭蕉
という付合の解釈に驚く。〈「蝶をたたく」というのは、蝶とたわむれることだというのが一般的な解釈のようだが、この句の語勢から考えて(中略)たたき殺すことだと思う〉と田中は述べ、当時、蝶といえば〈『荘子』「斉物論篇」の、荘子が夢の中で胡蝶になったという寓話を連想するのが一般的であった〉ことに注意を促す。一方、『禅林句集』には、「仏ニ逢フテハ仏ヲ殺シ、祖ニ逢フテハ祖ヲ殺ス」というやはり周知の詩句がある。つまり、〈芭蕉に叩き殺されるのは夢の中で胡蝶になった荘子であると私は考える〉というのだから、なかなか凄まじい。これに、〈腐(クサ)レたる俳諧犬もくらはずや〉の句が続くことで、全体としての意味は〈犬も食わない陳腐な俳諧を絶滅させるには、その拠り所になっている『荘子』を叩き殺すしかない〉といったことになる。当時の談林俳諧では、『荘子』の寓言をその奇抜な表現を正当化する根拠にしていて、先に触れた岡西惟中こそそれを理論化した当人だった。もちろん芭蕉も其角も、『荘子』を愛読した上でこんな句を作っているわけですが。
それから芭蕉の信仰についての記述。これにも虚を衝かれた。〈芭蕉は僧侶の姿〉で旅をしており、このことは〈芭蕉が敬虔な仏教徒であったことを示しているようにみえる〉が、〈しかし芭蕉が仏に救いを求めた痕跡を見出すことは困難である〉と田中は言う。
元禄元年十二月五日付其角宛の書簡で、芭蕉は「俳諧の外は心頭にかけず、句のほかは口にとなへず、儒仏神道の弁口(べんこう)、共にいたづら事と、閉口閉口」と書いている。「儒仏神道の弁口、共にいたづら事」とは、「儒教・仏教・神道の教えは口先だけの弁舌であり、いずれも無益だ」という意味である。これは敬虔な仏教徒の言う言葉ではあるまい。
この其角宛書簡の解説を読んで、はっきり言ってわたくしは芭蕉のことがいよいよ好きになりましたね。
芭蕉という人は内藤風虎のような大名や大身の武家、上層町人とつきあう一方で、路通のような社会の底辺にいた人まで平気で弟子にしていた。これは其角も同じで、この二人が句風の差異にもかかわらず、師弟として互いに最も深く相ゆるしていた機微なども、本書を読んで一層腑に落ちる感じがしたのである。『芭蕉 「かるみ」の境地へ』という書名の“「かるみ」の境地へ”というサブタイトルは、芭蕉本人にとっては『おくのほそ道』より「かるみ」の撰集である『すみだはら』刊行の方がはるかに重要だったという田中の見解に由来するのであろうが、本書全体をくくるのに適当だったのかどうかいささか疑問。それはともかく、「かるみ」とは言わないまでも本書の風通しのよさは格別で、芭蕉本は汗牛充棟していても、案外こういう本はないのかも知れない。
◆矢島渚男『俳句の明日へⅢ―古典と現代のあいだ―』は、著者から贈呈を受けました。記して感謝いたします。
◆本稿タイトルは、桃青(芭蕉)と信章(素堂)の両吟百韻の桃青の発句〈此の梅に牛も初音と鳴きつべし〉による。
(*1)田中善信『芭蕉 「かるみ」の境地へ』
三月二十五日刊 中公新書
(*2)田中善信『芭蕉二つの顔 俗人と俳聖と』
二〇〇八年 講談社学術文庫
(*3)引用は、石川九楊『近代書史』(二〇〇九
年 名古屋大学出版会)より
(*4)矢島渚男『俳句の明日へⅢ―古典と現代
のあいだ―』(一月十二日刊 紅書房)
所収「肉親を詠むということ―俳句史に
おける宗因の位置―」(初出は「俳句」誌
二〇〇〇年五月号)
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