2010年1月9日土曜日

新撰21竟宴発言記録

-Ani weekly archives 009.10.01.10-
新撰21竟宴 パネルディスカッション
「今、俳人は何を書こうとしているのか」記録


・・・相子智恵・佐藤文香・関悦史・山口優夢/高山れおな(司会)


二〇〇九年十二月二十三日の天皇誕生日、東京市ヶ谷の私学会館(アルカディア市ヶ谷)阿蘇・霧島の間において「セレクション俳人プラス 新撰21 刊行記念シンポジウム&パーティー 新撰21竟宴」が開催された。以下は、「今、俳人は何を書こうとしているのか」のタイトルのもと、シンポジウムの第二部として行われたパネルディスカッションの発言記録である。パネルディスカッションは午後二時四十五分から四時十五分にかけて約一時間半にわたり、パネラーは『新撰21』入集作者である相子智恵、佐藤文香、関悦史、山口優夢の四名、司会は同書編者のうち高山れおなが務めた。下の記録のためのテープ起こしは高山れおなが担当し、各パネラーの校閲を経て表現を若干整除した。また、パネルディスカッションのための資料として、当日、会場で配布されたレジメに記載された事項は、「Ani weekly archives 010.10.01.10.  新撰21竟宴 パネルディスカッション配布資料」として別に掲出した(高山記)。

高山1 こんにちは。第二部の司会を務めさせていただきます高山れおなと申します。第一部の司会をいたしました筑紫磐井と同じく「―俳句空間―豈」という同人誌におりまして、一方、去年の八月からですけど、やはり豈同人の中村安伸さんと一緒に、「―俳句空間―豈weekly」という俳句批評専門のブログをやったりしております。これはインターネットをなさる方だったらご承知だと思うんですけど、上田信治さんやさいばら天気さんが数年前に始められた「週刊俳句」という有名なブログのシステムを真似させていただいたものでして、ただ、「週刊俳句」は毎週たいへんな数のアクセスがありますが、こっちは一貫して閑古鳥が鳴いている感じではあるんですけども(会場笑)、それはともかくとして、さきほど磐井さんから説明がありました通り、そのブログをやっていたことから生じたご縁でこの『新撰21』という本が誕生したのは想定も予想もしていなかったことで、インターネットと紙媒体の関係というのは昨今いろんな議論があるわけですけど、こういう展開もあるのかなと驚いているような感じです。

前置きはこれくらいで本題に入りたいんですけれども、第二部は、パネルディスカッションということで、「今、俳人は何を書こうとしているのか」という、非常に大きなテーマが与えられております。パネラーとして壇上にあがっていただいたのは、年齢順でゆきますと関悦史さん、相子智恵さん、佐藤文香さん、山口優夢さんの四人です。この四人は、磐井さんは私が指名したように言ってましたけど、牙城さんが選んだんですね(会場笑)。それはなんでかなと考えると、一種の縁起物と言いますか、まず、今年の春先に佐藤文香さんが第一句集の『海藻標本』で雪梁舎の宗左近俳句大賞を取っておられて(会場拍手)、それから夏になったら今度は関悦史さんが「天使としての空間―田中裕明的媒介性について―」という論文で「俳句界評論賞」をお取りになっています(会場拍手)。それから秋になると今度は、つい先日ですけれども、相子智恵さんが「萵苣(ちしや)」というタイトルの五十句で角川俳句賞を取っておられます(会場拍手)。これらの受賞はいずれも、『新撰21』に入っていただくメンバーの人選が終わった後にこういう流れになったわけで(会場ざわめく)、編集サイドとしても安心したと言いますか、自分たちの人選に自信を持たせていただいたようなそんな感じがあるんですが、先ほどから声が漏れておりますけど、一人忘れておりますね(笑)。山口優夢さんですけど、山口さんもやはり先日の角川俳句賞に「つづきのやうに」という五十句で応募しておられて、それで次席なんですね。池田澄子さんが並選ですか(会場拍手)、それからこれはすごいなと思ったんですが、長谷川櫂さんが確か特選を入れてましたよね。これがすごいというか意外で、私はかなりインパクトを受けました。結局、一歩及ばすだったわけですけど、このお渡ししている資料の略歴を見ていただくと、佐藤さんと山口さんの略歴を読み合わせていただくとわかるんですけど、山口さんというのは優秀な女性に何度か出鼻を挫かれて、叩かれて、最後に栄光を勝ち取るというのがパターンみたいなので、今回、相子さんに抑えこまれたのはむしろ非常に幸先が良いのではないのかなと、そんなふうにも思っております(会場笑)。

それでは司会の話はこれくらいにしまして、まず四人のパネラーの方にそれぞれ自己紹介をお願いしたいんですけど、まず相子智恵さんどうでしょうか。

相子2 相子智恵と申します。よろしくお願いいたします。自己紹介ですが、そこに略歴を書かせていただかせたんですが、私は大学で、さきほど登壇した小澤實の俳句の実作講座を受講したことがきっかけで俳句を始めました。その後、「澤」の創刊から入会しまして、「澤」内の賞をいただいたり、あと角川俳句賞をいただいたりしてきました。そんな経歴です。

高山3 では、関さん、お願いいたします。

関4 関悦史です。私はまるっきり独学で、結社とか何かに所属したことが全くございませんで、吉岡實という詩人がいますが、そのエッセイでですね、現代俳句の中で永田耕衣、富澤赤黄男、髙柳重信というあたりの句が紹介されていて、それを見てはじめて面白いと思ってですね、それから一人で読んでいって、二十代の中盤に長いこと病気をしている時期があったんですが、その間に闘病生活をしのぐのに俳句を始めて一人で細々とやって、それから芝不器男賞で拾っていただいたと、そういう経歴でございます。以上です。

高山5 では、佐藤さんお願いします。

佐藤6 佐藤文香です。こんにちは。さきほど壇上にあがっておりました、池田澄子と北大路翼を師匠と呼んでですね(会場笑)、今まで俳句に励んでまいりました。その二人の良いところを受け継いでいるものと確信しているんですが。経歴につきましてはここに書いている通り、俳句甲子園では山口優夢君を打ちのめしまして、高校時代からずっと仲良しであります。句集を出しているのはこの四人の中では私だけということで、句集を以て一俳人のデビューとするならば、一人だけ先に出ている人間かなというふうに思います。上というわけじゃないですよ。以上でございます。

山口7 何も受賞歴が無い、山口優夢です。さきほど佐藤文香さんの略歴に、予選で打ちのめされたというふうに書いていただけて光栄に思いました。その時は全然俳句を始めたばっかりで、全く素人同然というか、今も素人ですけども、略歴に載るだけでも一歩前進かなと。現在自分の関わっている俳句の場としては、私は中原道夫の結社「銀化」に入っておりまして、そこで一年前から活動しているのと、あと東京周辺でよくある超結社句会や、まだ院生なので学生句会に行ったりとか、あと「週刊俳句」の編集の手伝いをこの夏くらいからさせていただいております。よろしくお願いいたします。

高山8 どうも有難うございました。なんというか、佐藤文香さんのプロ意識みたいなものが、強烈な印象でしたね(会場笑)。他の三人の方も是非見習っていただければと思います。

それでいよいよ今日のパネルディスカッションの本題なんですけども、「今、俳人は何を書こうとしているのか」。またしてもなんですが、これも私ではなくて、島田牙城さんの方から投げられたお題なんですけども、牙城さんとしてもこの点については、ゼロ年代俳人といいますか、彼らにその存念みたいなものを聞いてみたいという好奇心がおありでこういう題が出てきたんだろうと思いますし、また私も同じ興味を持っています。それでお渡しした資料の中にあるんですが、パネラー紹介のあと本題に入ってゆく、そのメニューとしましてはですね、六頁から書いてあるんですけど、その一が「形式の問題」ということで、その二が「自然の問題」、その三が「主題の問題」ということで、どれも本の一冊が書けそうな、非常にヘビーなテーマをいちおう立ててはみたんですけど、限られた時間の中でどこまでいけるか、とっちらかしたまま終わるかもしれないんですけど、それはそれとして見切り発車したいと思います。

それでその三つのテーマなんですけども、今度の『新撰21』出版の前夜祭的な感じで、「―俳句空間―豈」の方で、十一月の末に出た四十九号ですけども、「俳句の未来人は」という特集をやっておりまして、基本的にはここに載せている資料は、髙柳克弘さんのものを除いて、みんな「豈」に載った論文からの抜粋になっております。つらつら話を聞きながらお目通しいただければと思います。

今度の『新撰21』に入った二十一人の方は、作者として非常に優秀なのはもちろんなのですけど、一方でみなさん論客揃いでもあって、その点も頼もしかったりするわけなんです。いちばんこの方面で活躍してらっしゃるのはもう評論集も二冊出してらっしゃる髙柳克弘さんということになると思うんですけども、パネラーのこちらの四人の方も、それからレジメに抜粋があがっている外山一機さんや神野紗希さんも素晴らしい文章の書き手だということはみなさんもご存知だと思います。中でも外山さんなんかは、今までの文章の発表先が所属誌の「鬣TATEGAMI」という同人誌にほぼ限られていたのでご存知でない方が多いと思いますけど、まだ確か二十六歳で、自分が同じ年の時にどうだったかを考えると、穴があったら入りたいというような、非常に鋭い批評とか書評を「鬣TATEGAMI」の方で書いておられます。

それでレジメの方に、その外山さんの「消費時代の詩―佐藤文香論」という論文の抜粋を載せてまして、その抜粋部分を見ていただければわかるんですけども、ゼロ年代俳人としての自分たち新しい新人の俳句はこういうものだという、かなり意識的なマニフェストみたいになっておりまして、一種の俳句形式論として大変読ませる内容になっております。個人的にはただ、それに賛成ということでもなくて、いろいろ言いたいこともあるんですけども、それは後まわしにしまして、まず佐藤文香さんがそもそもタイトルに「佐藤文香論」というサブタイトルが付いているように、名指しをされております。それとこの抜粋の部分には載っておりませんけども、もうひとり髙柳克弘さんも佐藤文香さんと一緒に、こんにちの新人の代表格として言及されてます。もちろん外山さん自身のことも新人ということになると思うんですけども、それについてこの抜粋をちょっと読みますとですね、要するに現在の「『新人』たちが俳句形式を選択する行為は、俳句形式への信頼というよりもむしろ俳句形式へのフェティシズムへ近い」と。「僕らは俳句表現史を遡行しつつ、かつての俳句表現を切り刻み、貼り付け、組み立て、消費する」と。「その軽やかな犯行には、素朴な進歩史観でとらえられるような意味での『未来』などない。僕らはただ、過去/現在/未来が互いを犯しあう祭典に興じるまでだ。」と、こういう形で自分たち世代の俳句のあり方というのを規定しているんですけども、どうでしょうか。こういうものだというふうに言われた佐藤文香さんとしての感想というか、印象というのは。

佐藤9 タイトルに名前を入れていただけるというのは大変に光栄なことでございますが、正直に言って驚いてしまいまして。まず消費するという表現。格好よく書いてらっしゃるんだと思うんですけど、「かつてのものを切り刻み、組み立て、消費する」みたいに思ったことが一度もなかったものですから、ああ、こう見る人もいるのかと、まず、それが感想です。で、中略の前なんですけど、「なにか『新しい』ことができるなどといまだに本気で考えているとしたら、それはむしろ狂気である。」ってとこです、私、たぶん狂気なんじゃないでしょうかね。いまだに新しいことをやりたいと思ってます。ただ、句集を出すにあたってですね、いろいろ考えることはありました。髙柳さんも今年句集を出されて、個人的にはちょっと親しい感じが湧いたんですけれども、私と髙柳さんの句集を見て私が思ったことには、まあ二人とも初めて見るようなタイプのものではないと。だから新しくないと言われたらそれはそうだと思います。フェティシズムという言葉がさきほどもありましたとおり言葉フェチみたいな部分は私には確かにあります。俳句形式へのフェティシズムかと言われると少し疑問がありはするんですけど。そういうところから始まって俳句をずっとやってきたんで、句集にはフェチっぽい句が多かったかも知れないと思います。俳句を今詠んでいる方に見てもらいたい句集だったからです。読者の層をたとえばそこら辺にいる女子高生に想定したわけではないです。今ある俳句の既成の価値観でどれだけ評価してもらえるかみたいなところを、考えて作ったところがあります。最後の「『未来』などない。」とか、「過去/現在/未来が互いを犯しあう祭典に興じるまでだ。」というあたりに関しては、私はなんとも申しようがございませんので(笑)、次の方にお願いしようと思います。

高山10 わかりました(笑)。有難うございました。それでは次は山口さん。山口さんは、文香さんとは生まれ年も一九八五年で全く同じ。ですので、外山さんから見て二つ下になるわけで、外山さんの文章には言及はないんですけども、外山さんが想定している「今日の『新人』」には当然属することになると思うんですけど、山口さんはいかがですか。

山口11 そうですね。僕がこの外山さんの論文を読ましていただいて、やっぱり思ったのは形式を消費するということに、新人の俳句の価値みたいなものを置いてるというのは、ちょっと違うんではないかということです。これには個人的には批判というか反論があって、そもそも形式を使いこなすというのは、俳句をする、俳句表現を行うという上での前提なんじゃないかなと僕は考えているんですね。確かに佐藤文香は非常に上手な俳句の遣い手ですが、それは別にただ世間一般で言うところの上手だということだけではなくて、例えば北大路翼が北大路翼のやりたいことをやるんであれば、北大路翼なりの文体を作ると。そういう意味では形式を使いこなすというのは前提の話であって、そこが目的というのはちょっと違うんじゃないかなと。ただ、要するに、じゃあなんでそういうふうに表現の形式として佐藤文香が今の文体を選んだかと、別に翼さんにこだわるわけじゃないですけど、翼さんがなぜそういう文体を選んだかという方を、本当はその人を論じるにはとりあげるべきなんではないかと考えています。ただそうは言っても、外山さんの指摘の全部が全部、全然違うよと言ってるわけではなくて、今、佐藤さんも言ってたけれども、じゃあ高柳さんとか佐藤さんの句集を読んで新しい文体が生まれたかというと、確かに必ずしも目に見える形では生まれていない。今までの俳句の文体の中で彼らのやりたいことが表現できてしまうというこの事態は、ではなぜだろうかということは問い直してもいいのかもしれない。今、佐藤さんは既成の読者に向けてということを言っていて、佐藤さんについてはそうなのかもしれないし、髙柳さんは多分違うんじゃないかなと僕は思いますし、僕自身の句作もちょっと違うと思います。それはまたおいおい。

高山12 有難うございます。次は相子さんにお願いしたいんですが、相子さんになると外山さんが想定する新人に入るのか入らないのかだんだん微妙になってくるんですけど、それはともかくとしてどうでしょうか。相子さんの作風はご存知の方も多いでしょうが、「澤」で俳句をされてまして、基本的にはリアリズム色が強い。外山さんと比較するとはっきり全然それは強いと思うんですけども、そういう立場からしても、形式を消費するというような点にはまた違う感想を持たれるのではないかなと思うのですが、どうですか。

相子13 そうですね。私も外山さんとたぶん出発点は一緒というか、状況認識、時代認識というところでは、同じような把握をしているんですね。二〇〇七年にちょっと書いたことがあるんですけども。俳句表現は今日より明日の方がよくなるはずだという素朴な進歩史観の中には今はないだろうということは同じなんです。でもじゃあそこから自分にとっての俳句は何かということを考えると、要は意志の違いなのかなと思って。外山さんはレジメに出ている俳句もそうなんですけど、形式を自分の中に内部化して、手中に収めて表現してゆくという表現者なんですけど、私は逆にそこまで表現者としての自己を確立してないのかもしれないんですけど、どちらかというと形式の恩寵を受けて外の世界を見たいというか、外の世界と繋がってゆきたいという気持ちが強いです。だからちょっと私も消費という言葉には違和感がありました。はい。

高山14 わかりました。相子さんがすでに微妙だったんですけど、関さんになると同じくゼロ年代俳人といってももう外山さんとは一回り以上年が離れていて、私と同じはっきり言うとおじさんなんですけど、だから外山さんが言う新人には入ってない、想定外なのかも知れないんですけども。今回、関さんからのオファーで美術評論家の椹木野衣さんの「シミュレーショニズム論」というのをレジメの方に載せてます。「とにかく『盗め』。世界はそれを手当り次第にサンプリングし、ずたずたにカットアップし、飽くことなくリミックスするために転がっている素材のようなものだ。」という、まあある意味、外山さんの考えにも近いような感じなんですけども、この椹木さんというのも別に今日の新人ではなくて、この本自体一九九一年ですね。まさにバブルの香りがする、バブルそのものの本じゃないかなと思うんですけども。それで関さんの作品というのは、そのシミュレーショニズム論にも繋がる間テキスト性みたいなものもかなり強いですが、その一方でかなりベタなですね、私は座談会の時、これ意外に「澤」調じゃないですかと言ったら小澤さんが、うん、そうだ、そう思ったと答えていただいたんですけども、そういう作品もあってかなり振り幅が大きいわけです。それで『新撰21』の関さんの作句信条の欄を見ると、「個としての己が構成した句を通じ、その背後に他界=客観の笑いを響かせることが当面探るべき目標となる。」と書いてあってですね、この「個としての己が構成した句を通じ」という部分に関しては、小論を書いてくださった湊圭史さんが、「わざわざ自らの目標」にこういうことを記すのは、自分が作るのは当たり前なのにという意味だと思うんですけど、わざわざこうやって明記するその「必然性はどこにあるか?」というふうに、鋭くも注目しているんですね。「個を通じ」という保留というのは、まさに外山さんの考えとは真っ向から対立する部分なのかなあとも思いつつ、関さんから見て、外山さんの考え方というのはどんなふうに思われましたか。

関15 必ずしも今のことに関しては真っ向から対立するというわけではなくてですね、「個としての己」なんてわざわざ書いたのは、個ではない己があるわけですよ。全体性、世界全体とのかかわりの中で自分が自分の単独性において責任を果たしてゆくと、その関係の中で個としての己から離れる領域がどうしても出てくる。それでですね、この外山さんのこの論文はですね、佐藤文香、髙柳克弘を論じて、この二人の句というのは本当に端正で、今なんでこんなに若い人は大人しくてこんなに良い句を作ってしまうんだろうという違和感は私もあったんで、その点で非常に共感するんですが、その点、この外山さんはこの二人の作者に寄り添うわけではなくて、その違和感をテコに批評的なパフォーマンスでもって殺しながら生かしているという、そういうことをやってるんだと思います。

というのはですね、このシミュレーショニズム的なところ、今、高山さんに読んで貰いましたけれども、外山さんの考え方の土台にあるのはこういう考え方だと思うんですが、これを基に外山さん本人が作っている作風はあきらかに髙柳・佐藤とは違う。違うけれどもそれを同じ目線で見ている。そういうふうに見られる土台は何かというと、それがシミュレーショニズムだろうということでこれを持ってきたんですが、シミュレーショニズムというのはですね、ほんとに書かれたのがバブルの頃の時代で、この頃の時代背景としては八〇年代の安定と繁栄の中で記号の戯れとかやってた時代が終わって、この先新しいこととしては何があるんだろうというところで出てきた……。

佐藤16 すみません。もうちょっとゆっくり言っていただけますか(会場笑)。

関17 ええと、佐藤さんとはですね、打ち合わせの時にカタカナ言葉が出たら私は寝るぞということを言われてたんですけど。

佐藤18 いやいや、寝るとは言ってません(会場笑)。

関19 なるべくその辺、注意しながらやりたいんですが。

佐藤20 あ、あのう、ゆっくりめでお願いします(会場笑)。

関21 はい。ええ、それで何を言ってたんでしたっけ。

佐藤22 シミュレーショニズムのところです。

関23 はいはい。シミュレーショニズムというのはですね、現代美術の評論から出てきたものなんですが、シミュレーショニズムに椹木野衣が分類している作品というのは、相当に多種多様なんでちょっと一概に説明し難いんですけども、ひとつ作例を出しますと、あんまり有名な人じゃないんですが、マイク・ビドロというアーティストがいまして、この人が一九八八年にレオ・キャステリ画廊で、「これはピカソではない」というタイトルの個展を開くわけです。マイク・ビドロという作家の個展だと思って見に行ったところが、その画廊に飾られていた作品がどういうものであったかというと、全部ピカソの絵だったわけです。もちろん本物ではなくて贋物です。現代美術のパフォーマンスというのはですね、特にマルセル・デュシャン以来、何が美術で何が美術でないかというそのルール自体を改変してゆく行為自体がアートになっているという側面が相当ありますから、その領域では当然こういうことはあるわけですが、それでもここまで極端にやった人はそれまでいなかったので、批評的には真っ二つに割れたそうです。つまり、なまじ個性なんか信じている多くのアーティストたちの展示よりも、この贋物ばっかり並べた展示の方がはるかに批評的に記憶するに値するという意見。それからもう一方はこんな著作権を無視したようなやつは発表できないように法を改正すべきだという全否定の意見。真っ二つに割れまして、これだけだと現代美術の中のひとつの光景で終わってしまうんですけど、ここでちょっとノイズというかですね、そういう理屈だけで回収されないところが出てくる。というのは、このマイク・ビドロは、パブロ・ピカソの絵の贋物を描く、贋物を作るわけですが、それが写真とか機械で複製してきたわけではなくて、自分で全部描いているわけです、写真を基に。そうすると、その画廊を埋めるだけのピカソの贋物を自分の肉体を使って描くからには、もう毎日毎日絵ばっかり描いているわけですよ、それも贋物ばっかり。という過剰な肉体性が出てくるというところで、このノイズのところがシミュレーショニズムという、贋物だ、盗め、消費しろという、そういうことをやっていても個体の単独性というものが出てくる。そこでこのシミュレーショニズムをわざわざ持ち出したのはですね、外山さんの――また早くなってきたな。

山口24 それが佐藤文香に繋がるということなんですか。

関25 もうちょっといきます。

山口26 はいはい(笑)。

関27 佐藤文香とか髙柳克弘とかが、こういういかにも本物っぽいのを出してるのも、例えばシミュレーショニズムの文脈で、あたかも本物のように見事な贋物ということで文脈的に救えないかということで、そうとう意地の悪い形で出してるんではないかと。それでこのシミュレーショニズムを出したのはですね、外山さんの論文に関して、ネットの中である反応を見たところが、こういう間テキスト性みたいなものは平安時代の王朝の和歌文学から元の人の引用とか、ある歌の良いところを使ってそれを自分なりに改変して、その引用の共同体の中で己を表現してゆくということは昔からあったことで、別に新しくはないのではないかという意見を見まして、これはちょっと違うわけですよ。そういう王朝の和歌文学的なですね、先行する作品に対して敬意を払い、その引用でもって、その文学のうるわしい共同体に参画するという形で前のものを引っ張っているのは、この二十一人の中では例えば冨田拓也であって外山一機の方ではないわけです。外山一機が自分の作品でやっているのは何かというとですね、ここの【参考資料1-2】にありますけど、「馬酔木咲く金堂の扉(と)にわが触れぬ」という水原秋桜子の句を引いて、これを音韻だけそのまま生かして全然別の内容の多行俳句に組み替えるということをしているわけですが、これはパロディーではないわけです。パロディーというのは、その作品の本質を摑んで、その本質に対してずらす、あるいは否定、完全に反転させるということでひとつの表現になるわけで、例えば「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」に対して「柿くへば腹が鳴るなりすぐトイレ」といったらこれはパロディーになります。ところでここではですね。

山口28 ここ、笑うところですね。

関29 いや、特に笑わなくてもいいですが(会場笑)。本来は、外国語の詩の中では、頭韻を踏んだり、脚韻を踏んだりという音韻というのは、詩を形成する上で本質的なところなんですが、日本語の特性上、日本語の詩では音韻というのはちょっとノイズ的なところがありまして、中心には置かれなくて、音数律、五七五、五七五七七という音数律で詩を形成する中で、音韻そのものはどうしてもノイズ的になるんですが、本質ではなくてノイズにあたる部分だけを取り上げて、そこに乗り移って適当に組み替えてこういうことをやる。こういう営みと、今いかにも本物らしい俳句を作る髙柳・佐藤というのが、じつは同じ土台に乗ってるんじゃないかということを外山さんは言ってるんじゃないかと、大雑把にこういうことです。

高山30 わかりました。外山さん、会場にいらっしゃると思うんですけど、関さんの口調がちょっと怖かったかも知れないですけど、ほんとは優しい人です。

関31 優しいです。

高山32 それで外山さんの文章というのはですね、すごくエレガント、先ほど批評のパフォーマンスという言葉が関さんから出たんですけど、すごくエレガントなカルテになっているのかなと思うのですが、ひとつ問題があって、それは患者を取り違えているのではないかという気がしました。要するに佐藤文香はこの場合の患者じゃなくてですね、じゃあ患者は誰かというと、それは二十代の頃の高山れおなではないかなと。二十代の高山れおな論としてはこの外山さんの論文というのはかなりすごく当たってると思うんですけど。二十五、六の時、私は外山さんみたいにこんな立派な文章はとても書けませんでしたので、もっとずっと断片的な形ではありましたけど、似たようなことを書いたことがあったと思いますし、基本的には同じような考え方をしていたと思うんですね。ただ、その後はいろいろありまして、今はすっかり足を洗ったというかですね、転向してしまったようなところがありまして、ただそれにしても私にはまだフェティシズムの残滓は多分に残っているとは思うんですけども。

それで問題は、外山さんの考え方でいくと、早晩自家中毒にならざるを得ないかなというか、レジメには二句、外山さんの作品例を出していて、まさにこれは外山さんが自分で語っている方法論というのがよく出ている句だと思うんですけど、このやり方自体は袋小路的な感じはどうしてもしちゃうかなと。佐藤文香さんや髙柳さんの場合は、そういう袋小路性というのはとりあえずのところはなくて、だからそういう意味で患者取り違えではないかと申し上げているんですけども。ですので、外山さんがこの後、どう展開してゆくのかというところは非常に注目のところです。ちなみに外山さんのこの論考の話題はこれだけでは終わりませんで、後でその三ですが、主題についての議論のところでもまたもう一回言及があるんではないかと思います。批判的な言葉が今はパネラーの方からは出たんですけども、かなり本質的なところをラディカルに衝いている論文であることは間違いないなと思っております。

山口33 ひとつだけいいですか。れおなさんはなんで転向したんですか?

高山34 それは俳句を続けるためには転向をせざるを得なかった。

山口35 そうなっちゃうわけですね。

高山36 まあ、そうですね。第一句集で外山さん的なフェティシズムは、理論的には終わってしまったというか。だから、そのままでは俳句自体をやめなければいけないような感じで、それを続けるためにはやり方を組み替えてゆく必要がどうしてもあったというのが、今のところの認識ですけれどもね。それではその二へ、この話題自体も尽きせぬところはあるのですが、次へ展開していきたいと思います。

次はですね、いちおう「自然の問題」というタイトルを付けたんですけども、今度は二つの論文を、やはり一つは「豈」に載ったものですけど、パネラーの相子智恵さんが「のり弁、ふたたび。」という風変わりなタイトルの論文を一本書いてらっしゃって、それから髙柳克弘さんが「俳句」のこの前出たばかりの二〇〇九年の十一月号に、「受け継がれゆく雪月花」という論文を書いてらっしゃって、その二つの論文を基にしていきたいと思います。ところでじつはこの相子さんと髙柳さんの二つの文章には共通点がありまして、それは高柳さんの方の引用に書いてある、若手の詩人の作品に対する「“無”に塗りつぶされた詩」という批判をですね、吉本隆明さんがちょうど二年くらい前に出た『日本語のゆくえ』という本で語っておられまして、この発言は現代詩の世界ではかなり大きな話題になったように記憶しております。確か若い女性の詩人の安川奈緒さんという方がかなり激烈な批判を、外山さんや神野さんと同じ年の若い方ですけど、吉本隆明に対してかなり激烈な反論を書いているのを見たような記憶があります。

その後、現代詩の世界でこの問題がどう展開したのかしなかったのかまではちょっとフォローしていないんですけども、とにかくこの吉本発言にインスパイアされたような形で、若手の詩人の方々の何人かとそれから髙柳さんと相子さんたちが、共同の勉強会を開いていたらしいんですね。高柳さんの問題意識というのは、レジメの引用の中にあるように、「俳句は季語を入れることが約束になっている。」と。「問答無用で『自然』が入ってくることになるのだ。だが、それは本当の意味での『自然』なのだろうか。」というところになるわけですけども、これはもちろん髙柳さんとしては、若手の詩人に自然が失われてそれが無のような詩になってしまっているんだったら、いちおう形だけ自然は入っているけれども、同じように若手の俳人にだって自然は失われているんではないかという予感みたいなものと裏腹になっている、そういう問題意識だと思うんですけれども。それでこれは個人的な好奇心もあるんですけども、相子さんにうかがいたいのは、その勉強会というのはどんな様子の会で、何かこう結論めいたものとかはあったんですか。

相子37 ええとですね、これが『日本語のゆくえ』という本で(聴衆に向かって掲げる)、今の若い人たちの詩は無であるという話が出てきまして、それは自然がなくなっちゃったからだと。それで詩人の方からの要請として、じゃあ自然詩というか、季語のある俳句というのはどういうものを書いているのかということ。それから俳人からしてみると俳句には批評がなかなか立っていかないところが、弱いところがあるんじゃないか、そこを詩人から学ぼうという、両方の要請からですね、勉強会をしようということで髙柳さんにお誘いいただいて、参加してました。メンバーが何人か途中で変わったりしてるんですけども、初期のメンバーとしては髙柳さん、神野紗希さん、村上鞆彦さん、松本てふこさんと上田信治さんと私が俳人から。詩人は杉本徹さん、手塚敦史さん、佐藤雄一さん、佐原怜さん、白鳥央堂さん、久谷雉さん、それから三木昌子さんですね。詩人と俳人相互に、要は作家研究みたいな形で進めていきました。ですので、実際はこれ(『日本語のゆくえ』)に対する言及をしていったというわけではないんですけども。詩人と俳人と、それぞれ作家一人を研究発表して、詩も俳句も読み、論を交わしあう、そういうのを二年間くらい縁があってやらせていただきました。

高山38 結局その、お前たちの詩は無だという指摘に対する反応というのは……。

相子39 この本がきっかけではあったんですが、じつはそこでは特に出てこなくて。ただ私もそこで初めてこの本を読んでみて、やっぱりちょっと怖くなったんですよね。なんというか無、確かに自分自身も今都会に住んでて、すごく命が遠いような感じがしていて。季語もあるんだけど、その季語の奥にある自然に対する実感や共感が、うちの師匠(小澤實)が、先ほど挨拶という話をしたんですけど、例えば季語が共感として成り立たなくなった時、その挨拶は死ぬんじゃないかと思ったわけですね。それは今も消えない不安みたいなものとしてありまして、それを「豈」の方に二回程、ずーっと考えながら書いていて、全然結論が出ていないので、この場で同時代の方々に聞いてみたいなと思っています。

高山40 有難うございます。自然の問題というのは別に、吉本さんの発言があっても無くても、俳人にとっては大きな論点になり得るとは思うんですけども、とはいえやはり、髙柳さんの要約を借りれば、若手の詩人の詩には「『過去』も『未来』もない。あるのは『現在』だけで、その『現在』も、得体のしれない『無』」みたいなものじゃないかという吉本さんの言い方というのはすごいインパクトがあって、やっぱり他人事ではないなという感じがするわけですね。その辺はいろいろとお詳しい関さんに、吉本さんの発言というのはどうなんだというのを聞いてみたいんですけど、手短かにお願いします(会場笑)。

関41 これちょっと非常に長くなりそうな上に、吉本隆明となるとこの会場のお客さんの構成を見ると非常に詳しそうな年代の方々が多くて、ここで喋るのはいやなんですが、吉本の文脈を簡単に解説するとですね、吉本隆明が文芸批評を始めた一九五〇~六〇年代は、「政治と文学」という枠組が非常に大きくありました。これはスターリン体制下で、文学は社会主義社会の建設に役立つためにその典型となるキャラクターを書くべきであるという公式見解があってですね、そういう時代に批評活動をやった吉本隆明は、政治と文学という枠組に強い違和感を持つわけです。政治とか共同性というと人間の外部にあるものなので、これだけでは捉えきれない要素が相当あるんじゃないかというのを吉本は考えて、「文学」とか「思想」ということを言えば人間の内部から社会・国家まで全体を貫くものが書けるんじゃないかというふうに考えて文学・思想の研究を始めるわけですが、そこで芸術言語論というのを考え始めて、吉本は人間の発語行為を自己表出と指示表出の二つに分けます。自己表出というのは大体独り言をイメージして貰えばわかると思うんですが、早くなってませんか、大丈夫ですか。

佐藤42 大丈夫です!

関43 例えば綺麗な花を見て、「ああ、綺麗だな」と言ったらこれは自己表出です。発言者と言語との間の関係しかありません。ところがその花を見て、「綺麗な花ですね」と人に言ったらこれは人に対する伝達機能、コミュニケーションを担うのでこれは指示表出になります。伝達機能を持つのが指示表出です。吉本隆明の考え方だと、芸術言語をなすのは中心的には自己表出、独り言の方であると。言語と自分との間の沈黙の深さ、豊かさが大事で自己表出、ここがなければ芸術言語はなりたたない。指示表出の方はその間、なんにもしないかというと、これは補佐的にかかわると。つまり長編小説の中で主題に直接かかわらない、自然の描写とかいろんな説明、物語の展開に必要な説明とかありますけど、その部分に関して指示表出が間接的にかかわる。自己表出と指示表出の織物として芸術作品は言語で書かれるという、そういうふうな整理をしています。

ここでちょっと自然の問題が出るわけです。指示表出というのは、人間相手に喋った伝達の言葉だけではなくてですね、吉本の考え方だとマルクスの『経済学・哲学草稿』を引いて、自然に対する伝達、意志の伝達というのをこの指示表出の中に入れてまして、例えば春になったら花を咲かせるとか、作物を実らせるとか、そういう自然の四季の運行にかかわることも指示表出に入っているわけです。ここでちょっと自然の問題がかかわってきます。

それから吉本の基本的な枠組としてですね、もともと政治と文学という枠組だけでは捉えきれないところを摑まえようとしているので、文学というものを考える時に、必ずその個人と社会・共同体・国家という巨大なものの全体を貫くところを考えるわけです。だから『共同幻想論』の時には、民俗学的な資料をよく使いまして、共同体全体をひとつの物語を作成していく、ひとつの神話を作成していく一人の作者と考えることは可能かというような問いを立てまして、今、問題になった本(『日本語のゆくえ』)の中でも、それこそ『古事記』『日本書紀』の時代にこういう和歌があったから、こういうふうに神話を作っていったのであろうというようなことを考えているわけです。

それで八〇年代になりますとですね、吉本は『マス・イメージ論』というのを書きます。これはやはり同じ問題系に貫かれてまして、今書かれて発表されている物語を、個々の作者の作品と見るのではなく、共同体自体が作者であると見ることは可能であろうかという問いが最初になされていまして、もちろん吉本は可能と考えているからそう言っているわけですが、『共同幻想論』の時に作者としての共同体という考え方が出てきて、それを八〇年代の高度消費社会にそっくりあてはめると『マス・イメージ論』になるという、そういう展開です。

ところがですね、ここから先が面倒なんですが、九〇年代に入って、バブルが崩壊して、冷戦が終わってというふうに世界構造が相当変化します。そこから先になって、今回、二十代・三十代の詩人の詩を初めて見た時に、吉本がちょっと不思議な難癖のつけ方をしてまして、そこだけ見たら文脈がわからないんですが、今の二十代・三十代の詩人は無だ。なぜか、これらの詩人の詩をまとめて読んで、これらの詩でもって荘厳され、形成される神話的人物というものを私は到底思いつけない、だから無だという言い方をするわけですが、これは今書かれつつある詩がですね、ひとつの共同体の無意識なりなんなり、共同性を形成するものであるという前提を飲み込まなければ何を言ってるのかわからない、ついていけない話ではあるので、そこら辺を飛ばしていくとですね。

佐藤44 単なる無というわけじゃない。その文脈で。

関45 そうそう。だから、吉本は、ここだけ見ると非常に否定的に言っているように見えますけども、驚いているわけです、本人も。本人はもっと、若い人たちは政治的な党派性とかから自由になって、個々でやってるから結構なことだと思って読み始めたら、全然わからないというので無だと言ってるんだけども、これは自分にとっても重大な問題だからこれからしっかり考えなくちゃいけないよと言って、それで終わってますので。だから下手すると吉本隆明は、セカイ系とかライト・ノベルとかオタクとか萌えとか、そっちの方を本気で勉強しかねないと思ってるんですけどね。

高山46 わかりました。有難うございました。吉本隆明が、初めてわかったような名解説でしたけれども、有難うございました。非常にクリアカットな説明でした。それで自然という、さきほど相子さんが言っていた実感ですね、自然と実感の問題なんですけど、わたくしごとなんですけど、私は江戸川区の北葛西というところに住んでまして、じつは山口優夢さんというのは東葛西に住んでおられて、自転車だったらすぐ行けるようなご近所なんです。葛西というのは丘の上のニュータウン的な場所ではないんですけど、もともと湿地だったところを乾かして埋めたてて宅地にしたようなわりと新しい街で、典型的な郊外というのですか、絵に描いたような人工的な環境です。僕はたかだかそこに十年いるだけなんですけど、あの人はたぶん生まれてこの方いるんですか。

山口47 二十年ちょっと。

高山48 なかなか驚異だなと私なんかは思ったりしないこともないんだけど、ああいう環境で有季定型俳句を作るというのはどういうものなんですかね。あそこで生まれてしまったという(会場笑)。

山口49 すごい振りですね(笑)。いやでも、葛西というのは正直つまんない街です。葛西にゆかりのある人とかこの会場には他にいないと思うのであまり伝わらないかも知れませんが。僕は東京なんか歩いてても、神楽坂とか坂があるじゃないですか、坂があるとすごい嬉しいんですよ。葛西には無いんですもん。埋め立て地だから。ずっと平坦で、山もなんにもなくて、海も汚くて、こんなところを自分の産土(うぶすな)だと呼ばなくちゃいけないのは非常になんなんですけどもね。でもそうは言っても季語、さっき相子さんから季語が共感として成り立つかという話があって、それがじゃあ昔の人と比べてどれぐらい違うかというのはわかんないですけど、個人的には共感できると思うんですよね。そういうふうな、どこの国の人か分からない人とか騒いでいるようなごみごみした街路の上にある、例えば凍えるような月とか、そういうものを詠むというのは、なんというんだろう、別に古代のもっと自然が豊かだった頃の自然というのじゃなくても、自分に詠める自然というのはそういうふうなものではないかと。自分の体を通ってゆくものを詠んでいくということでも有季定型というのは成り立つんではないかと。逆に言えば有季じゃなくてもいいというふうに僕は思ってはいるんですけども、そういうところがあるので、別に葛西に住んでいるからといって有季定型ができないというわけではない(笑)。というか、葛西に住んでいるなりの有季定型があるんじゃないかと考えています。

関50 ちょっといいですか。

高山51 はい。

関52 相子さんの反応が非常に示唆的でですね、この斉藤斎藤の「雨の県道あるいてゆけばなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁」という歌を見た時に、相子さんの反応が、自分はこういうおぞましい、おぞましいという言葉は使ってませんけれども、現代のリアルを詠むのは自分はちょっといやだ、私は季語の方にゆきたいということで、このどうしようもないリアルに対立するものとして季語というものが出てきてですね、季語というものと自然というものは微妙というか、かなりずれるわけです。だからこの「雨の県道」の歌の中に自然があるかないかと言われれば明らかにあるわけです。「雨の県道」の「雨」のところが季語ではないんですが、この雨が降ってなかったら、「県道を歩いてゆけばなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁」、ああそうですかで終わってしまう、非常にインパクトの無い歌になってしまう。雨の降っているなか歩いていったらなんかグシャッとしたものがあって、それがよく見たらぶちまけられたのり弁だった。しかも全部びしょ濡れになって。このどうしようもなさを出すためには雨が必要で、ここに自然は入ってるわけです。ところが自然が入っているということと季語が入っているということが、相子さんの中で非常に直感的に分裂しまして、これは共感される伝統系の方は非常に多いんじゃないかと思うんですが、つまりおぞましいリアルな自然が入りかけてきた時に、それに対する防壁として季語が意識されているということです。

さっきの吉本とマルクスの話を引きますと、マルクスの『経哲草稿』を引いて吉本が言ってるんですが、人は自然に働きかける。働きかけると自然は人間化する。働きかけた人間の方は、その反作用のようにして自然化する。自然化された人間と、人間化された自然化ができあがるというようなことを言っている。これは単なる荒地であったところをですね、人が一生懸命耕して畑にすると、その畑が全く百パーセント人工かと言ったらこれはかなりの程度自然である人工で、人工化された自然が出来る。それに対して、耕した人間の側はですね、これは具体的に草を抜いたり、石を放ったり、耕したり、何か植えたりと、そういう肉体労働を伴うことによって自然化された人体になるという形で、相互影響・相互浸潤があるわけですが、これを敷衍していくと相当にいろんなレベルで微細に相互浸潤が今は起こっているわけで、一概に自然が無いとは言えない。ほんとに手つかずの自然を見に行くと言われると、お金掛けて旅行しなくちゃならない話になるんですが、コンビニに売られているカップ入りのサラダでもあれは全く人工物というわけではなくて、相当に人工化が進んだ自然と見ることも出来るし、また鉄筋コンクリートのマンションに住んでいてゴキブリや黴が出てきたら、それも自然が侵入してきて相互浸潤があちこちで微細に起こっていると言える。ということでですね、そういう自然に対しては、リアルであっても詠むのはいやだという時に季語が出てくるんで、この季語というのは自然が基になってるのは確かなんですけど、相当程度人工化が進んだものではないかと。

相子53 そうですね。言葉だと思います。

関54 だから季語が通じなかったらどうしようかということは、あんまり考える必要はないんじゃないかと思うんですけど、それは有季定型をやっている人はどうしたって勉強しますから、その共同体の中では成立する、と。

相子55 共同体なんですよね。その共同体が、私たちは今は持てるかも知れないけど、私たちが七十代とかになった時にあるかという。私は座というのを結構、大事にしている方なので、余計に。それは閉じられた空間なんですけども、その中でさえも成立するのかどうか。なんと言ったらいいのかな。

(山口、何か言おうとする)

高山56 この問題、まだ佐藤さんが発言されていないんですけども、今いろいろ議論を聞いていていかがでしたか。

佐藤57 優夢君、今、なんて言いたかったの。

山口58 リアルなところを根っこにしてほんとは共同体を作らなくてはいけないんじゃないですかということ。

佐藤59 うーん。

山口60 僕の発言からは全然発展しない……。

佐藤61 ごめん。繋げられるかなと思ったんだけど。私も葛西じゃないですけど、小学校五年生まで神戸の郊外にいまして、同じようなマンションが立ち並ぶところに住んで、まわりもほとんど同年代で、同じような習い事をして過ごしてたんですが、小学校の六年生になる年に愛媛県の松山市に転居して、転居した場所がですね、徒歩二十歩くらいで蜜柑畑があるという、神戸からすればすごい田舎だったんですけど、その時、わーすっげー!と思って、嬉しかったんですよね。その蜜柑畑のある山の手前にお墓があって、お墓の奥に竹やぶがあって、その竹やぶを初めて妹と一緒に歩いたり、もう今は宅地になってしまったけれど、その手前には大きな野原があって、草がぼうぼうに、自分の背より高いくらいに生えてて、で、近所の男の子と一緒に秘密基地みたいなのを作ったりして、めちゃめちゃ楽しかったんです。すっごく嬉しいし、面白いし、今までそんなのは感じたことなかった。もちろんおばあちゃんちで蝉採りしたり、海水浴行ったりはしてたんですけど。なんかそれまで、自然というのはどっかに行って触れるみたいなところがあったんだと思います。この場合の自然ってのは季節とかを感じる自然の方なんですけど。だから引っ越した当時の私にとっては、現実的と言うよりはどっちかというとテーマパークに近い、それが自然だった。

今は私、愛媛県にまた帰ってて、もう伊予柑とかが落ちているところを自転車で通勤するのが普通なんですけど、本物の自然、自分が感じる自然か、あとは自然を意味する言葉というか季語としてただ「蜜柑」と言った時の、「蜜柑という言葉から冬の感じがするでしょう?」という、そうやって使われる自然というのとがあるじゃないですか。私は両方ともすごく好きなんです。ああすごい、これ季節だ、これは自然だ、と思った時、それがもういちばんリアルだし、実感もあるし、面白いし。で、俳句にかかわり出してから今度は言葉でも認識できるようになりました。この楽しみはホントに日本的だと思うんですよね。日本人って期間限定に心躍るし、それはなんでかというと四季があるから季節毎の楽しみを見出すわけだし。そういった中に雪見大福の新しい味が出たというのもあれば、蜜柑が落ちているのを踏みつけるというのもあるという、ごちゃまぜのリアルを今私は愛しているという感じです。

関62 ちょっといいですか。今の蜜柑の自然というのは、非常におぞましくない受容的な自然ですよね。

佐藤63 ジュヨウテキ?

関64 受容的というかまあ自分が受け入れて貰ったり、共感しあったり、その中で楽しめたりという自然、おそろしくない自然。そういう親和的というか、自分と親しい自然。今、自然を自然に書くと非常に不自然になるんじゃないかという(会場笑)。

佐藤65 そうそう、それ面白いんですよ。だから通勤路の蜜柑を自転車で轢いたという俳句を作ったとき、嘘だろうって言われたり。

関66 それは都市的なところだとそういう環境がないという問題もありますけども、それと同時に自然を自然に詠んでそれを不自然に感じない感性というのは、高濱虚子が戦争が終わった時に、俳句はなんか影響がありましたかと聞かれて、俳句は何にも影響受けませんでしたと答えたという話がありますよね。これは俳句は有季定型で、客観写生でこういうものを詠むべしというそこまできちんとフォーマットが出来てて、そこが戦争という外的事象によって変わるかと言ったらまあ変わらないでしょう。そこに同意している限りはまあ自然を自然に詠んでも不自然でなくなるんですが、戦争で変わらない俳句というのは人間の生のかなり巨大な領域を削ぎ落としてないと変わらないとは言えないはずなんで(会場笑)、そこに同意するかですよ。素材とか生活実態からいうと相当変わるはずなんで、素材面では。

佐藤67 変わりますよね。食べてるものもね。

高山68 この問題というのは実は二十分が二時間であるいは一年かけても決着なんかするわけはなくて、というのはもう俳人は百年来この話ばかりしてきたというところもあって、それは承知の上で今日は議題に挙げたんですけど、先ほど意外なのか意外でもないのか、関さんから別に季語から実感が剥がれ落ちても心配なんかしないでもいいよという話が出ました。でも、これは関さんが、私もそうですけど、心からの有季定型派ではないから、どうでもいいやというところもあるんですね(笑)。心からの有季定型派の相子さんはやっぱりそこに不安を覚えるというのはこれはこれで当然だと思います。まあ自然そのもが無くなるということはないんですけど、とはいえやっぱり我々の環境が人工的になっているというのは、過去二十年ぐらいの範囲でも僕自身も個人的にも感じますよね。

例えば一人だけ例を挙げると、長谷川櫂さんとかは骨の髄からの有季定型派だと思うんですけど、あの人の最初の『古志』という句集と最近の『新年』とか『富士』とか比べると、やっぱりこれは無残なほど自然が空洞化しているというのがあって、詳しいことはブログの方に長いのを書いてありますんで、興味があれば読んでいただければいいと思うんですけど、やっぱりそういうことはあるよなというのは感じます。でも、それはそれとして、それぞれですから、解決というのは。荒廃するというのはよくはないわけですけど、荒廃をどう避けるかというのはそれぞれでございますから。個人的にはただ本当に興味というか、どうなるんだろうという興味ですね、どうしたいとかというのは無いんですけど、相子さんが言ってるような実感の剥がれ落ちというのは、僕なんかが平均年齢ぐらいまでに寿命があったとして、その範囲の中でも相当変わるよということはなんとなく予感しますけれどもね。

この話題はこれぐらいにして、次にまいります。最後のメーンエベントになるのかも知れませんけど、「主題の問題」というくくりにしておりまして、レジメには神野紗希さんのずばり「主題はあるか」という、やはり「豈」に載った論文の抜粋を載せております。これがなんでメーンエベントかというと、パネルディスカッション全体の「今、俳人は何を書こうとしているのか」というお題にジャストフィットしているというのがひとつと、もうひとつは「形式の問題」というくくりにした外山さんの問題提起にもひとつの受け皿になっているのかなという、そういうところがありまして、これがメインかなと思っております。

神野さんの文章は、小川軽舟さんの『現代俳句の海図』を叩き台にする形になってまして、神野紗希と高山れおなが小川さんを叩き台にするのは、ご存知かも知れませんけど、ちょうと一年前の角川の「俳句」で座談会をやった時と全く同じパターンでございまして、小川さんには毎度毎度でなんだか申し訳ないような感じではあります。それはともかくとして外山さんの議論とですね、小川さんの議論――具体的に言いますと、「三十年世代とは、極言すれば世代として求めるもの、主張すべきものを失った世代」「俳句もまた、それを用いて何かを主張する手段ではなくなり、表現行為としての面白さそのものが目的となった」というのが、神野さんの文章に引用されている小川さんの考え方なんですけれども、表面的なところはともかくとして、この小川さんの考えと外山さんの考えというのは、じつは主題の回避という点では全く利害を同じくしているんではないかなというふうに思います。

主題の回避というのは当然、同時にその主題を作り出す主体の回避ということにもなるわけですけれども、主題や主体を回避するというのはじつは俳句界全体の少なくとも過去三十年くらいのスタンダードだと思うんですよね。外山さんはやっぱり若いだけあって、その現状が新しいものとして彼の前にあるんでしょうけれど、じつは外山さんが言ってることはこの三十年ぐらいのスタンダードを自分なりの言葉で言い換えているというのが本当のところじゃないかなと。

それで思い切って単純化しちゃえば、その主題や主体の問題を展開させてきた戦後派が、三十年くらい前に展開力を失って、戦後派の親分であるところの金子兜太みたいな人はいわば棚上げされちゃうわけですね。ですけど、ここへきてはっきりしているのは、にもかかわらず棚上げされたはずの金子兜太がいちばん元気いっぱいでですね、「兜太だけがなぜもてる」ですか、「俳句界」の十月号にそんな特集がありましたけど、そういう状況が生じてしまっているわけです。今年、兜太さんは『日常』という句集を出しましたけれど、あれも結構評判いいみたいで、実際、パワフルな良い句集だと思うんですけど、そういう奇妙な捩じれみたいなものがあって面白いなと思っております。関さんなんかどうですか。関さんの今度の『新撰21』に載せた百句というのは、二十一人の中ではいちばん主題主義的な側面が、まあ私の誤読でなければ、強いかなという印象を持ってるんですけど。

関69 それはですね、確かに主題的な面が強く出ているところもあるんですけども、それが目的というか、それでやってるわけではないわけです。それから主題主義と、さっきのシミュレーショニズム的な外山さんの構成というのは、じつは私はどっちもありというか、どっちもここが最終目標地ではないので、どっちから行ってもいいよというぐらいなつもりでいまして、主題、写生するとか、それで訴えるというか、そこは目的ではなくて、それを通してその先の言語化できない領域へ行くのが目的なので。私の場合、今回百句揃えてみてあまりにもばらばらなんで、どうしようかと思いながらそのまま出して、湊(圭史)さんが上手いこと纏めてくれたんですが、その百句纏めていろいろ言って貰えたお蔭で自分が何をやっていたのかわかったところがあります。私の句は作り方でいうと二通りあるんですが、ひとつは句会でお題とかテーマを出されてこれで作れと言われて作るやり方。真ん中の六、七十句くらいはだいたいこういうやり方です。それともうひとつ、最初と最後に連作的な作品があるんですが、あの辺に関してはですね、作ってる原因はストレスです(会場笑)。それは病気で辛いとか、それで何にも出来ないで延々苦しんでる時間があって、その間どうにか時間潰さなくちゃいけないとかですね、あるいは祖母の介護が突然降りかかってきてこれをどうにか吐き出さないと気が狂うとか、そういうストレスです。それで最後の方に、「人類に空爆のある雑煮かな」というのがありますが……。

佐藤70 「週刊俳句」の新年詠ですよね。

関71 はい。これはもうみなさん覚えていないかも知れませんけど、一年前の今頃というのは連日のようにパレスチナ空爆の映像がテレビで流れてまして、何やってるんだというふうに思いながら作った句で、そういう外から負荷がかかって作ったのと、外からお題を出されて作ったのと、共通して言えるのは要するに私は徹底的に受動性でもって(会場笑)、全部受け入れてそれを反転させている、つまり自分の体を通す形でやっているので主題が入ってくることもあるということです。それで、主題の話と自然の話がかかわるんですよ、ちょっと。でも長くなるから。

高山72 わかりました。とりあえず一段落で、次はじゃあ山口さんはどうですか。

山口73 そうですね。

高山74 神野さんのここに入れてるわけですけど。

山口75 主題があるということが今まで前提として、何年か知らないですけど、俳句の歴史が続いてきて、ここで三十年間の間に主題はあるかというふうに問われなくちゃならない状況になったというのは、非常に面白いなというふうにまずは思っています。前衛俳句とかなんかわかんないですけど新興俳句の時でも当たり前のように戦争がテーマであったりとか、貧困とかがテーマであったりというふうにして詠んできたものが、じゃあここにきてそのテーマ自体があるんですか無いんですかという議論に、そもそもなるという時代なんだなということを、俳句史とか見てみたりする時に思うことがあります。そういう意味では結構現代はちょっと前の時代と違うのかなというふうに思って。長谷川櫂さんのうちにこないだ、若手でお邪魔する機会があって、その時にも長谷川櫂さんが、「私たちよりも上の年代というのは戦争とか病気とかっていう世代に共通のテーマがあったけれども、すでに我々の時にはそれは失われてしまっていたと。じゃあどっから俳句をやればいいかというのを考えていかなければならなかった」ということをおっしゃっていて、そういうふうな世代がすでにあって、それが長谷川櫂とか小澤實とかの昭和三十年世代だった。そのさらに先に何があるのかというのを多分考えていかなくちゃいけないんでしょうけども、僕自身は見えにくくなっているだけで本当はその主題はあるんだろうというふうに考えていますし、それを洗い出していくのが、れおなさんとか批評家の仕事の一部なのかなというふうにも考えて、僕もだからそういうふうな形で、批評という形で主題を洗い出していければいいかなと。僕自体は何を書いてますかと言われても、ちょっとよくわからないところがあって、僕はさっき関さんが言っていた体を通してというのがいちばん自分の実感としてはあるんですね。自分の体を通して出てきたものというのしか、むしろ書けないと思うし。ただ、だからと言って経験した季語しか書けないとか、そういうことではなくて、経験してもしなくてもそれはどっちでもいいんですけど、身体性というところ、自分がここに生きてますという証しとしてそれを書くしかないんですけども、じゃあそれがいったい時代としてどうなってるかということは、まだちょっとよく見えてない感じです。

高山76 有難うございます。佐藤さんはどうですか。

佐藤77 主題と言った時に、例えばある世代のこの人たちはこういうのを書きたがってたと後から歴史上で位置づけられるものと、それぞれが書きたいと思って書いているものとは別々なわけじゃないですか。結局、私は食べ物のことばっかり書く!と言ったとしても、後でまとめられて戦争を詠んだ人たちってなったりしますよね? だから、どっちを主題というかにもよると思うんですけど。吉本(隆明)さんの主題が無いといった部分に関しては、それはその世代として無である、みたいなことですよね。自分の世代全体のことは、当事者なのもあってどうこう言いにくいんで、とりあえず書き手一人一人が、私はこれを書く!と思って書いてるかどうかを考えてみると、何度も出ますけど、北大路翼さんなんかは、テーマとして女がある。で、自分は今何が書きたいかなと考えると、私はすごく自分の周りのものに対して感動しやすい、そこかな、と。すぐ泣いてしまう、感動して。劇の筋とかじゃなくて、歌ってる人が、歌が上手いというだけで泣いてしまう。そういうのが私の詠みたいところ、ですね。あと、テーマを決めていても、それ以外の句を作ることはたくさんあるじゃないですか。北大路翼さんだって女を詠む!と思ってたとしても、全然関係なさそうな普通の良い句がいっぱいあるわけなんですよね。みなさん見逃さないでくださいね。女とかセックスとかばっかりじゃなくてですね、素晴らしい句が実はあるんですよ。

(会場から北大路翼「そうだそうだ」。)

佐藤78 内輪褒めをするわけじゃないですけど。それでその素晴らしい普通の句を見てもらうために、テーマをわざと作ってるという面もあるんじゃないかなと思って。こうやっていびつなテーマにすることによって、ただの良い句が浮かびあがる。「毛虫焼く頭の中で蝶にして」とか、私すごく好きな句なんですけど、これも北大路さんというキャラがなかったら世に出なかったかも知れないと思うと、テーマを持ってこれを書こうと決めて、それに見合った見せ方、パフォーマンスをしてゆくというのは、俳句にとってはすごくいいことではないかなと思います。

高山79 有難うございます。相子さんはどうですか。

相子80 そうですね、主題というふうに言ってしまうと、まとめて見る物差しというか、時代的な物差しみたいなのも、今はなかなか持ちずらいし、今お話を聞いていてもそれは評論で見つけてくるものだとか、なかなか見つけずらいとは思うんですけども。何を書きたいかという意志をどこに持つかだとは思うんですが、私もわりと優夢さんと近いところにあって、身体性みたいなところっていうか、世界の手触りみたいなものとか質感みたいなものを書きたいというのはあります。どちらかというと言葉派ではないので。それもあって自然のことというのが、自分の中でかなりずーっと悩んじゃったことだったんですけど。あとは関さんが言ってたストレスというのは、すごい私も思いますね。ただストレスをそのまま書くのが、私の場合は自分のストレス解消にはならないので、逆にそういう有季定型で俳句を書いて誰かと繋がることというのが私の、逆にストレスから来る発露みたいなところになってるのかなと、今の話を聞きながら思いました。

高山81 有難うございます。主題というお題を立ててみたのは、神野さんの良い論文がたまたまあったということもひとつあるんですけれども、別にみんなこういう主題で俳句を詠みましょうとか、そういう主張があって言ってるわけではない。むしろ神野さんが問題にしている小川さんの本なんかで感じられたのは、なんというか、主題があるとか無いとかいう以上に、一句一句には主題があったり無かったりしては当たり前なんですけど、むしろ主題というものを語ること、言葉にすること自体に対する抑圧みたいなものがすごいある、そのことの方に興味があるというか、むしろ問題かなと思っております。外山さんの論文がああいう形になるのもまさに主題というものを言葉として出してくるのを抑圧するとああいう言い方になってくるんだろうというのが私の見通しです。

さらに例えば坪内稔典さんあたりが代表格だと思うんですけども、俳句は作者よりもむしろ読み手が大事だとか、読み手によって俳句は完成するもんだよというような言い方が、これはあちこちで目にされると思うんですけれども、これは文学一般の、それこそ関さんが解説してくれるかも知れませんけど、テキスト論的な考え方というのがある時期以降、主流的になってきてそういう影響も受けてるわけです。その影響もさっき話に出た長谷川櫂さんたちの世代にはすでに出てきていて、状況として戦争とか貧困といった主題も無くなったし、文学の考え方としてもテキスト論的な考え方がそれを補強するような地盤を提供したということで、主題というものから或る意味、作者は解放されたわけですね、そこで。こういう考え方は、主題とか主体というものから作者を解放してくれたんでしょうけど、やっぱり結局それが作り手が成熟する契機みたいなものを奪ってるんじゃないかなということを私は漠然と感じています。

早い話、自分はもう不惑を過ぎておりまして四十一なんですけど、いまだにこの年になって自分がこんなにガキであるということにかなり驚いているところがありまして、ただそれはお前の個人的なことじゃないかというとそうでもなくて、今はそれこそ七十代ぐらいの俳人から十八歳の越智友亮君まで、わりとみんなひとしなみにガキに見えるところがあって、やっぱりそれは今言ったような、成熟の契機そのものを棚上げしてきた結果が現れているところもあるだろうと、それは思いますね。まあ、俳句の世界なんていうのはノンビリしているので、どう転んでも大した問題ではないのかも知れないですけど、例えば政治の世界だとどうか。政治家もすごいガキですよね。いちばん大人でないと困る人たちなんですけど、自民党の最後の三人の首相なんか完全にガキとしか思えない。実際、それは俳句だけじゃなくて、社会全体の中でみんな結構ガキになってるなあというのはつくづく思いまして、ただガキであるというのもアンチエイジング的な観点からは良いことなのかも知れませんけれども、でもやっぱり本当は良くないんだと思います。それが僕の個人的な意識の中にあって、じゃあどうしようというところで、神野紗希さんなんかもそのあたりは考えておられるんじゃないかなと思いまして、こういう話題を立ててみたんですけど。何かありますか関さん。

関82 かなり話し残したことがあるんですけど、長谷川櫂さんがちょっと衰弱して見えるというのは、これはこの文脈でも主題的なものに対する峻拒で、潔癖になりすぎると。要するに純粋化路線を進めたことで、純粋化すると大体芸術は衰弱することになってますから、これは半ば危ない方向へ自分から行ってる気がして。

高山83 だから長谷川さんはその純粋化をいちばん徹底して、能力も高いし、自信もあるからそれを徹底して、普通より徹底しているところもあると思うんですけど、やっぱり長谷川さんだけじゃないですからね、その純粋化というのは。だから、主題というのは俳句を非常に濁らせるというか、濁って汚いものもいっぱい入れてくることによって、逆に俳句を豊饒化する要素があるはずで、だからそういうところを捨ててないから、やっぱり今の金子兜太と長谷川櫂を比べると、どう見ても金子兜太の方が豊かに見えますよね。

関84 『新撰21』の中に、沖縄の豊里友行という、今日非常に来たがってたのに来られない人がいるんですが、この人が非常に主題がある人ですよね。沖縄の政治的・現実的状況に対して、ものすごいこれを人に訴えたいという念があって、この人は主題を非常に持ってる人ですけれども、言いたいことがあるということと自然が出てくるというのは非常にちょっと相関関係がありまして、アニメの背景画を考えて貰うとわかるんですが、スタジオジブリのアニメ、『となりのトトロ』でも『千と千尋の神隠し』でもいいんですけど、あそこら辺の作品として自立して、ある人生観なりなんなりを訴えたい、ちゃんと見てくれというものを描くときは、背景画像がかなりびっちり美術品みたいに描かれるわけです。それに対してこれはもう親子で気楽に楽しんでくださいというスタンスの『ドラえもん』とか『クレヨンしんちゃん』とかだと、背景が非常に記号的に簡略化されるわけです。

佐藤85 うおー、そう言われたらそうだ。

相子86 うんうん。

関87 どれだけ言いたいことがあるかで、中景・背景、自然の部分の表現力が変わってくるわけです。そうすると言いたいことがある豊里友行は、季語の中で馴致されていない沖縄の自然のものをこれでもかと出してくるのは、主題が出てくるのと自然が出てくるのがリンクするわけです。金子兜太もそういうところがあるので、まさに金子兜太の話をしようとしたんですが、ただそういう主題があればそれで通じるかとか、あるいは外山的なシミュレーショニズムで行けばそれでなんとかなるかというと、そうならない状況が今あって、というのはこれは若い思想家の宇野常寛の整理ですと、グローバリズムの時代というのは全部、島宇宙になってしまって関心系が閉じてそっから先は全然行かないと。グローバリズムにおいて市場というのは非常に大きな島宇宙で、そこに対して小さい島宇宙が幾つも群立しているという状態なので、だから反市場主義で、外山さんには貴族主義的なところがありますけど、エリート主義的に反市場主義的に俺は売れることはやんないよ、大衆に媚びないよということをやっているとそれがアンチになって、それがヘーゲル的に歴史を展開する力になるかというと、そうはならなくて別な小さい島宇宙に回収されて終わりになってしまうという、ここに時代の困難があるわけですが、そういう中で金子兜太がこないだ二月に記念講演があって、それを聞いていたらですね、自分の俳句はアニミズムであるということを言い出しまして、これはちょっとまずいことを言い出してしまったのではないかと私は思ったんです(会場息を呑みつつ笑)。

シミュレーショニズムとエコロジーとグローバリゼーションとインターネットの普及というのは全部共通点があって、これは世界が無限じゃなくなったということです。全部囲いこまれてしまった。だから村上龍が、エコロジー的な考え方が七十年代に出てきた時に、非常になんかいやな感じがしたということを言ってて、地球は限りがある資源だから大切に使いましょうという世界観が支配的になったら、これから先は無限を基点にした倫理というものは成り立たない。今後もうローリングストーンズみたいなとんでもないバンドが突然出てくるようなことはない世界になるだろうということを直感してですね、まさにそういう不景気なところに来ているわけですが、その中でエコロジー、私は別にエコロジーが嫌いなわけじゃないんで、ゴミの分別とか実生活ではちゃんとやってるんですが(会場笑)、実生活レベルはいいとして、思想的には非常に不景気な限界があるという話なんですよ、これは。そのエコロジー、ニューエイジ、ニューサイエンスと、アニミズムというユング的な生命主義というのはほとんどひとつながりで、そこで金子兜太がアニミズムを言い出したらこれはちょっとまずいな、と。エコロジー的な構えで句を作っていると例えば、正木ゆう子さんの「水の地球すこしはなれて春の月」がありますけれども(会場笑)、これはですね。

佐藤88 エコロジーなんですか?(笑)

関89 これはもう、エコロジー的な世界観で作られた句でしょう。これで特徴的なのは、外宇宙から見ている目と、作者がそこにいるわけはないので、作者が目の前の水を見ているだけという視点のずれが含みこまれているのがうまく統合されているので俳句として成り立ってますけども、この「水の地球」、なんか人いなさそうでしょう。エコロジー的な世界観というのは他者が消えてしまうわけですよ。豊かな自然、綺麗な美しき地球の中で生きている私というものが自然の中に溶け込んでいって、それと引き換えに自然が全部自我の支配下に入ってしまう。全部自分だけになってしまうという危うさがあって、そこにアニミズムと言い出したからこれはまずいなと思ったんですが、ただ金子兜太はそこで作家的な膂力(りょりょく)というか、反射神経が違うというか、それと同時に全く違う概念をもう一個出す。それが小林一茶から出してきてる「荒凡夫(あらぼんぷ)」ですね。荒凡夫というのは何かというと、肉欲肉体を持った個人としての存在の方にアイデンティファイするということです。この個人の肉欲の世界と、アニミズム的な共感の広がりの世界と、この二つの間でうまくバランスをとっていきましょうという話ではなくて、この二つは両極にあるまんまで、その真ん中で微分曲線を展開するように金子兜太が句を作っていって、この二つの領域は地獄極楽のようなもので、そういう空間が実体的にあるわけではなくて、微分曲線的に金子兜太が句を作るとそっから両方の領域が一気に析出されるという関係になっていると捉えた方がいいと思いますが。

佐藤90 ははぁ……(会場息を呑む)。

高山91 ちょっとすごいですね(会場笑)。すごいんですけど、時間も迫ってきたんで、ここで会場から、時間も少ないんでお一人かお二人かと思うんですけど、もしご質問がある方がいらっしゃったら挙手をしていただけますか。

(十秒くらい待つ)

特によろしければ。

関92 質問しようにも理解されていないんだと思います。

高山93 そんなことはないと思いますよ(笑)。一部はあっけにとられてますけど、基本的にはたいへんわかりやすい、説得力もあるお話だったと思います。

佐藤94 何部かに分けないとちょっと追いつきませんね(笑)。

高山95 そうですね。こんどやる時は、パネルディスカッションではなく、関さんの単独講演の時間を設けるとよいと思いますけども(笑)、それはともかくとしてここでまとめということで、今どういう句を作っていて、今後どういう句を作ってみたいという抱負の部分ですね、それをでは手前の相子さんから順に。

相子96 やっぱり私は外というか、取り巻くところの手触りみたいなものを、エコロジーとかとは全然違って、そういった思想的なものではなくて、自分がグイッとそれを摑んでみたいというか、そのもののなんというのかな、命というのかな。そういうものを摑みたいような気がしています。

高山97 それは僕もすごく共感するというか、さっきの金子兜太さんの四国での演説でいうと(国際俳句フェスティバルの演説のこと)、アニミズムという言葉も金子さんは確かに使ってたんですけども、同時に生き物同士その命が分かるのがいいのである、みたいな言い方をしていて、これはアニミズムとも関係あるようでいて、ちょっとやっぱり違って、さっき出た荒凡夫的な個人的な金子兜太の肉体が入った言葉かなと思って、逆に言うと金子兜太的な主体を否定していたような批評的立場からは絶対出てきようのない台詞だなと思って感心したんですけどもね。ここはちょっと関さんは飛ばして(笑)、佐藤さんに。どうでしょうか、今後どういう俳句を考えておられますか。あれはどこでしたか、ブログでしたか、句集以後も私は元気だみたいなことを佐藤さんは書いてて、実際、私も句集以後の文香さんの句は好きで、「豈」なんかにもお願いして作品出していただいてますし、一句も採れないというようなことを言ってる怖い人もいたりしましたけれども、私はそんなことはないなあと思っています。ただ今回、『新撰21』は意外と新作は抑えめで、句集からの再録が多かったですけど。

佐藤98 そうなんですよ。

高山99 島田牙城さんは、「絶対、文香は全部新作でくる」と言ってましたんで、意外だったんですけど。どうなんですか。

佐藤100 私もともと地味で真面目な人間なものでですね、牙城さんは多分私のことを思って、まあ半分ぐらいは句集のを入れろよと言ってきたんですけど、私は句集の分を再録することに力を入れようと思ったんです。なぜかというと、あの句集自体がすごく意識的な構成をしたので、私の個人的な感情、好きとか嫌いとかを抜きにして、できる限り客観的に句を配置したものですから、好きな句を押し出すとかができなかったので、今回は自分の好きなようにあの百句を並べてみました。「少女みな紺の水着を絞りけり」というのは櫂未知子さんが初めに褒めてくださって、それから他の方にも見ていただいて、私の句の中では有名な句になろうとしているというか、なったと思うんですが、もちろんあの句も好きではあるけど、私があれだと思われるのはちょっと違うというところがあって、今回、「少女みな」で始めるのをやめました。その意識というか、意図だけでも読み取ってもらえればというところがあります。ただ、これでケリをつけたといいますか、愛着の部分でも今までの句を払い去ることができたので、そこから新しい出発ができました。角川俳句賞に今年出して、選者の方の師匠に選ばれちゃって、もう片方の師匠に第一部で文句を言われた次第なんですけども、それ以後はほんとに何をやりたいかというのを考えています。私はずっと書きたいことがないと言ってきたんですけど、最近自分はいろんな人やモノに片思いをしている人間だと気付きはじめまして。

高山101 それは北大路さん的な意味でですか(笑)。

佐藤102 いやあ、それもありますけれども(笑)たくさんのモノとか、世界とか、景色とか、手は届かないけれども、すごく好きでしょうがないというものが私にはたくさんある。で、今はそれを句にしたいなと。今まではどちらかというと、この評価の軸の中でどうにか見てもらえるレベルに上がろうという気持ちが先走ったところがありましたが、今日このような機会をいただけるに至りましたので、れからは自分が今何を書きたいか、絶えず考えていこうと思います。私がいることで、私がいいと思ったことやモノを、より多くの人に見せることができたらいいなと思っています。

高山103 有難うございます。次、では、山口優夢さんどうでしょうか。

山口104 ええと、谷雄介とこないだ話した時に、谷雄介、山口優夢、佐藤文香で、花の昭和六十年生まれだと、彼が自分で言ってたんですけどね(会場笑)。でもそれに乗っかりたいなというところがあって、というのもこの二人は自分が、句作やらなにやらの段階で意識して見てきた二人なんですね。文香さんは今言ってたような感じで、多分、僕から見て文香さんは世界を愛そうとして俳句をやっていると。で、句集までは世界に歩み寄ろうとしていたんだけども、句集以後のやつは自分でもうめんどくさいやって世界を引き寄せようとしている感じがあるのかなと。逆にその雄介の句なんかは、こう世界に無邪気な悪意を持って対そうとしている感じが、例えば彼の句で「夏芝居先づ暗闇を面白がる」といういかにも有季定型の句があるけれども、それに通じている感性というのは多分、「先生の背後にきのこぐも綺麗」という、両方多分おんなじ感性が通じてると思うんですよね。そういうふうに同世代で二人、悪意でもって対そうとしている者と、世界を愛そうともがいている者というのの、立ち位置的には狭間にいるのが自分、という、まあ必ずしもそういうわけじゃないですけども(笑)。そういうのを見て僕としては、自分自身の感性としてはもっとニュートラルなのかなと。もっと自分と世界とのかかわりというものを生理的なレベルまで深まってゆくような、さっき相子さんが言っていた手触りというのをもっと突き詰めた上で、愛するかも知れないし、雄介も多分愛してはいるんだと思いますけれども、どういうふうに出てくるかはこれから自分の中で見極めていきたいなというふうに思っています。

高山105 有難うございました。じゃあ、トリは関先生ということで(笑)、手短にお願いいたします。

関106 はい。では、短く。金子兜太の方法は素晴らしいということは言いましたけれども、それと同じことを人が真似できるわけではないし、これが方法ですというのを抽出されたものを人が真似できるのは大したものではないという、これはヴァレリーの文学論以来のひとつの常識ですから。私、介護に実家に戻ってやった時からですね、最初大変だと思ったんですけど、金子兜太の、さっき微分曲線とかそっから大域構造が発生するとかそういう話をしましたけれども、それに近いことをちょっと体験しまして。最初ひとりで抱えこんでどうしようかと思ったら、そこに世界の側からヘルパーさんとかケアマネさんとか隣近所とか、ふだんそんなに折り合いがよくなかった親類が病院行くとき車出してくれたりとかが次々に出てきて、いろんな関係がその場その場で必要に応じて生成するわけです。祖母の介護というのは、家族が私しかいなかったもので、私が私の単独性において引き受けざるを得ない、自分の単独性において引き受けると、世界と、そういう関係性からどんどん必要なものが出てきて、必要が終わったらなくなってという形で、微分曲線的に何かが発生して終わっていくと。そういう働きが俳句によって出来るといいなというふうに思います。数値目標として挙げると、今年千句くらいできるといいなと。

高山107 頼もしい締めくくりになりました(笑)。今度の本の企画が持ち上がった時、これは資金を提供してくださる方が現れたわけなんですけど、チャンスだなと思いました。ひとつにはもちろんアンソロジーに参加していただくことになる作家の人たちにとってチャンスなわけですけど、それ以上に俳句界の側にもチャンスだなということを感じて、俳句界にとってのチャンスを最大化するにはどういうメンバーがいいだろうと、そういう観点で、編者三人で二十一人の方々を選ばせていただいたわけなんです。どうでしょうか、今日のディスカッションを聞いていて、そのチャンスの最大化という目標はかなり達せられたかなという印象を持ちました。では、そろそろ時間ですので、この辺でお開きにさせていただきます。ご静聴有難うございました(拍手)。

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