2009年12月27日日曜日

閑中俳句日記(20)

閑中俳句日記(20)
伊東宇宙卵「非-場所/聖なる人間(ホモ・サケル)編」40句

                       ・・・関 悦史

豈49号に伊東宇宙卵さんが「非-場所/聖なる人間(ホモ・サケル)編」という40句の連作を発表していて、このところ宇宙卵さんがずっと探究してきたある方向の深まりと総合を示しているように感じられ、というかこれまでの経過など追わずともこれだけで見ても十二分に面白いものなので、簡単にでも紹介しておきたい。

作中には「いえす」「龍」「蟲」といった世界構造から作者の実存までを貫くファンタジックな要素、「武蔵野」「夫」「子ども」など実人生に関する要素、そして通り魔事件の容疑者らしき「Kさん」等、時代の危機感を表す要素などが入り混じり、全体として複雑に交響しあいながらも明快な主題性を帯びていて、また各局面の展開やつながり具合が絶妙で、頭で拵えたようなところがなく、吐息のように親密でもあり、ユーモラスでもある。本当は全句を逐一引きたいところ。

ポンペイウス・フェストゥスの『言葉の意味について』の「聖山(サケル・モンス)」からとして、エピグラムが付されている。

《聖なる人間(ホモ・サケル)とは、邪(よこしま)であると人民が判定した者のことだ。その者を生け贄にすることは合法ではない。だが、この者を殺害する者が殺人罪に問われることはない。》

こうした社会から排斥される聖性/邪さがわが身のことと捉えられているため、危機感も単なる概念的なものではなくなる。というより話は逆で、この怯える実存が、卑近な日常から崇高と恐怖の制する非日常までを貫く世界を一気に引き寄せ、世界‐私のアマルガムを形成するのだ。


闇を光りのひとつに数え書きはじめ

わたしの闇を出入りする蟲らを視る

己が身の闇にむかって笑いかけ  ※「闇」に「なか」とルビ

冒頭3句。ひめやかに創世記を反転させることで、己の「闇」が「蟲」との交通空間として切り開かれ、この空間に連作が展開されることになる。

この3句に続く4句目《山茶花や一羽の雀がたべておる》はどうということもなさそうな光景が異様な戦慄を帯びる。グノーシス的な現世否定の彼岸が不意に日常空間にスリップし、架橋されたためである。《玄関の桑の木は巨きくなり》も同じく何ともいえず不穏。


龍ら棲む池にとどけるものはなし

龍視渦巻いて梨花散乱して

(だれにも似たくない、とは思うのだが。)

海底の藻草の線路にであえたら

瘡うけたきのうの龍らは眠るのか ※「瘡」に「きず」とルビ

龍の爪 あと半歩にて見失ない

袋から這いだした 草卵

(寸法のだいぶ乱れた卵である)

白虹や、龍らあらわれこまぎれに。

9句目から17句目の9句。いきなり「龍」が現われた。「とどけるものはなし」となると、当面退治されるべき敵というわけでもなさそうで、瘡を受けた龍の心配などもしている。特別親しくもないが無縁でもないようだ。

《(だれにも似たくない、とは思うのだが。)》と影響の不安を漏らす独白を経て、「海底」の「線路」への慕情や、這いだす「草卵」という、これは動物なのか植物なのか未生以前なのか以後なのか、どういう関係なのかもよくわからぬものたちが現われ、しかもこの「卵」は寸法が乱れているという。「こまぎれ」になる「龍ら」といい、まわりの者たちとの親疎の関係も含め、安定や安心といったものからは程遠い。にも関わらず《(寸法のだいぶ乱れた卵である)》の独白は何とも大らかなユーモラスさがある。


武蔵野や再生市街は漂えり

重力場 宇宙の背骨鳴るのみの

(天涯からきたことは忘れてしまったから)

夫と子どもと、歩いてきたことはきた。

実人生の反映とその感慨と思しき句たちが介入してきた。土地でありながら「漂」う「武蔵野」の不安定、「宇宙」や「天涯」から切り離された人生の、はるばると来つるものかなという感慨。よるべなさの感覚と同時に、「夫と子ども」ともども、小さなほのかに光る球体とでもなっているような受容性も感じられる。

ところがここでまた、先ほど「こまぎれ」になったはずの龍たちが登場。


白虹や、龍らあらわれ騒いでおる

時間軸まで混乱しているのか、「再生市街」たる「武蔵野」ともども「龍」たちも再生してしまったのか、いずれにせよ抜け道のない混乱の中に世界も己も投げ込まれているようだ。この龍たち、後半の33句目では《日没のおぐらい空を龍ら這い》などと薄闇の中を飛ばずに這っていて、どうもこちらも消耗を強いられているようである。


じりじりと〈裡〉の青虫そだつのか

(ほんとうは羽化の終った蟲なので)

カフカ的な「蟲」にでも変貌するのかと思いきや「羽化の終った蟲」だと言い出した。

飛べるのだ。

しかもカフカの方は、ある朝突然の変身という、心情とも倫理とも切れた、理解を絶した災厄だったから神や世界と直結するような構造性を帯びたのだが、「じりじりと」となると己の心情的違和、生き難さの吐露に過ぎないもののようでもあって、それも飛べるとなればかなり自由な雰囲気に変わる。「書く」ことで別次元と往還することが出来るといった暗喩とも取れる。


20年前の武蔵野の庭の、うつくしい蝦蟇

「うつくしい」と直接書かれて美しいと思うことも稀少な経験に属するのかもしれないが、この「蝦蟇」は美しい。「20年前」で実人生のある一点に定位されてはいるものの、「武蔵野」が何せ漂う「武蔵野」であって、時間軸もよく考えたら不安定。記憶の中の、ゆらめく時空の中にいる、その一点だけが確かな、親しげな蝦蟇のうつくしさである。


いえすの食べたものが思い出せない

(磔や手なれた夏の一些事の) ※「磔」に「はりつけ」とルビ

「いえすの食べたもの」は最後の晩餐、聖餐といったことよりも、青年イエス個人への親近を表していそうだ。イエスも「聖なる人間(ホモ・サケル)」の一人として社会に抹殺されたと捉えられている。


夫と子の音韻そこら中にただよい ※「音韻」に「はらわた」とルビ

死にはぐれ生きはぐれして蟲のヒトら

Kさん、貴方は17名殺傷しましたか。

「はらわた」としての「音韻」がただよう空間とは、言語の中に棲みながら意味も実存もうつろであることを強いられる空間であろう。そこでは「死にはぐれ生きはぐれして」と生も死も不分明で、変身を経ずとも「ヒト」であることがそのまま「蟲」であることと同義になる。最後の「17名殺傷」は秋葉原の通り魔事件のことと思われ、時代精神と恐怖の下に、外れ者たる己と「Kさん」との共振が発生してしまっているのだが、「殺傷しましたか」の問いかけが己はそうせぬという一線を形成している。

今後も宇宙卵さんは、詩的言語と俳句形式、時空の乱れと人生、虫性と聖性、光と闇、宇宙と武蔵野の間で、困った困ったと嘆きながら、それでも致命的な深みに絡め取られることなく、フワフワと漂い続けていくのではあるまいか。


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