2009年8月2日日曜日

閑中俳句日記(12)

閑中俳句日記(12)
鷹羽狩行『十三星』


                       ・・・関 悦史


「前衛俳句」以後、俳句の新しみをどこに探るかなどといった話で鷹羽狩行の名が出て来ることが最近たまにあり、家にあった『十三星』を読み返した。

鷹羽狩行の句集は周知のとおり、ある時期から刊行順を表わす序数がそのまま標題に取り入れられるようになっており、13番目の句集だから『十三星』なのである。《「十三星」は、むかし中国で鳩を放つとき、その尾につけたという小笛のことだが、本句集では十三番目の句集という。背番号にすぎない。》(あとがき)

平成10年から12年まで3年間の句を収めている。以前読んだときは、季語の斡旋など一句一句の技の確かさが強迫的なくらいに隙がなく思えてやや閉口するところもないではなかったのだが、これは一句一句どこが面白いか誰でもわかるようにしてあるということでもあって、俳人以外の、例えば書家が書にする現代の俳句で一番多いのが鷹羽狩行だという話も何かで聞いたことがある。

今回ざっと見返してみたら、旅先の句が異様に多いのがまず目に付いた。

前書きに登場する地名を並べてみると

横手・鎌倉・新宿御苑・京都・常照皇寺・丹波篠山・浜松・千鳥ヶ淵・松山・笠置山・角館・田沢湖・吉備路・尾道・向島・鳥取・山形・徳島・富山・霞ヶ浦・高千穂・日田・横浜中華街・北海道・浅草寺・高知・国府宮・尾道・両国国技館・札幌・支笏湖・松島・富士・島根・石見銀山・上諏訪・諏訪大社・蓼科・霧ヶ峰・伊勢神宮・増上寺・大分・白川郷・西宮・甲山・三重・大津・皇居・伊香保・山形・新庄・山刀伐峠・最上川・帯広・郡上八幡・伊勢・宮島・上高地・横浜

となる。

観光名所のようなところが多くて徳島では阿波踊を詠み、高千穂では夜神楽を詠む。国府宮は裸祭である。古典の霊験あらたかな歌枕にこだわっているわけでもなく、大自然の過酷さがむき出しになるといった地も(作者が古稀を迎える時期なのだから当たり前といえば当たり前だが)ほとんど出てこない。この旅先の選定がそのまま句集の基本的トーンとなる。

たまたま私が住むすぐ近所「霞ヶ浦」が出てきたので、そこがどう詠まれているのかと見てみると

(はちす)の葉いきれの畦を通りけり
予科練の桜並木の病葉よ
 (「雄翔館」の前書きあり)

と、ちゃんと観光的目線でこの辺の特徴が句に定着されている。この辺りは蓮根の産地なので蓮田というのは住人にとってはどうということもないのだが、外から来ると目につくらしい。

ここで少々変な連想をしてしまい、内田康夫の浅見光彦ものにもこの辺りを舞台にしたミステリーがあるのを思い出した。

内田康夫はご当地ミステリーを手がけるようになってから売れ始めたそうで、日本全国あちこちが舞台にされているから霞ヶ浦周辺が取り上げられていても別におかしくはないのだが、読む側の興味として、自分の住む辺りがどういう描かれ方をしているかに興味が向かうのはごく自然なことで、一度この連想が出来てしまうと観光名所ばかりの旅先といい、量産される娯楽小説ならではの楽しみどころが誰にでもわかる、つまり共有されたコードの中での仕掛けの鮮やかさと、そして間違っても読者の世界観を深刻に揺さぶるような衝撃は与えないという無害さの両立といい、内田康夫や西村京太郎の作品群と通じ合っているように思えてしまい、温和な風貌や句の切れ味の印象とも相俟って鷹羽氏が二時間ドラマの浅見光彦や十津川警部のような存在に思えてきてしまった。

結ぶてふよき言の葉や結昆布
数といふうつくしきもの手毬唄
数の子の黄金の音を噛み惜しむ

「よい」「うつくしい」ものとして周りを詠むというのが句作りの基調になっているようで、こうした目線が自然を詠むと対象をこちらに近寄せ、了解可能なものとして詠むことになるので、擬人法・擬人化が多くなる。

藤房の垂るるに倦みて揺れにけり
一石もて湖
(うみ)へあいさつ朝桜
道行の水母か傘を傾けて
月もまたひとりの客や月の句座
しづけさに加はる跳ねてゐし炭も
爆竹に驚く屏風絵の龍も

荒々しい自然は周到に排除され、すべてが文化に馴致されているのだ。

過酷な自然がもたらす死の恐怖を結晶させたような季語「雪女」もこのようなものとなる。

かまくらの灯ともし頃を雪女
火の山の火種をもらひ雪女
濡縁に月がべつとり雪女

このくらい生活空間に馴染んでしまって畏怖性を欠いた雪女はあまりないのではないか。3句目は一見月が他界性を補強しようとしているかに見えるが「べつとり」に液状性があらわで、周りが氷結しているようには思えない。

一片は塔の上へと落花かな
きさらぎや乾茸にある深山の香

高野素十「空をゆく一かたまりの花吹雪」の、心情や共感を欠いて写生に徹したがために現われたデモーニッシュさと比べると、この「一片」は良くも悪くも可愛らしい。自然が人を脅かすことは断じてあってはならないという原則が窺い知れて、どこまでも自力で飛行しかねない素十の「花吹雪」のようなもののけとはならず、この一片はやがて重力に従って下降してくるはずだという常識と支えあうことで一瞬の鮮やかさを発揮している。深山幽谷も無害な「乾茸」の香りづけとなるのみ。

こめかみは米噛みのこと豊の秋
発電は水こそよけれ山眠る
 (「白川郷・御母衣ダム」の前書きあり)

大地の生産力がまるで人間のために誂えられた保育器か何かのようで、属領化と感謝の念が一体と見えるところが読んで少々落ち着かない。自然からデモーニッシュであったりサブライム(崇高)であったりといった要素が外されているわけで、このことがこの句集のヒューマニズム(博愛主義と人間中心主義両方の意味での)の土台となっているのではないか。

三伏やこぼれて赤き崖の土
二千光年はどの星去年今年

「三伏(さんぷく)」は陰陽五行説に基づく選日の一つ、つまり人間側の文化・制度性があらわな季語で、これが「炎天」とか何か、単に暑さを示す季語であったら狩行俳句にはならない。鷹羽狩行の季語の斡旋の見事さは、むき出しの自然を馴化する手際の見事さでもある。

後者は平成12年つまり西暦2000年の句。光年は光が一年間に進む距離なので2000光年の星があれば、今見えている光が丁度2000年前にその星を発したことになる(当時「ミレニアム」で作られ消えた通俗句は五万とあったはずだ)。この句もまた思いもかけない文化的制度(「ミレニアム」)で自然(「星」)を馴化する手際により句を成立させている。

すべてが了解可能となり他者性を欠いた世界の中で、いかにして鷹羽狩行は差異を作り出すのか。見立てや修辞同士のズレからである。

春着の子四五人過ぎて春着の妓(こ)
白妙といやしろがねと菊讃ふ

「白妙」という菊を讃えるには似合いではあるが空疎な修辞を見せ消ちにしてすぐさま「しろがね」と言い直し、花びらに金属の実体感を与えて現物のリアリティを出すことにより、「白妙」と「しろがね」の差異を詩にしてしまう。別の句集だが鷹羽狩行には「古草やまたぞろ機知の狩行論」という句もあり、「機知」というシリアスさに欠けた言葉で論じられるのを本人も嫌っているらしいのだが、鷹羽狩行の機知は差異のない世界に亀裂を走らせてリアリティを現出させるための必須の手段である。次の句はほとんど方法論的な自註ではあるまいか。

ひとゆすりして嵩おなじ蜆籠

ご当地ミステリー・トラベルミステリーなどの例えも出したが、あれはあれで普通の人間に量産出来るものではない。行く先行く先で出会う風物、それらの対象に自己投影するのでもなければ無心に写生するのでもなく、ひとつひとつの物件と関係を取り結んでは讃を寄せ、無類の修辞技術ですべてをいちいち無害化させ続けていく営みに価値を認めるかどうかは、受け手の文学観による。


-------------------------------------------------

■関連書籍を以下より購入できます。




0 件のコメント: