・・・「―俳句空間―豈」発行人 筑紫磐井
「―俳句空間―豈weekly」が第49号を迎えた
と言うことでお祝いを申し上げたい。
せっかくだから玄妙の韻きに載せて評論詩で書くことにした。
吟じます。
なぜ、49号がめでたいのか、
一方で50号、100号がめでたくないのかと言うことについては、
このブログ「―俳句空間―豈weekly」の出自に由来する。
「―俳句空間―豈weekly」の創刊は、
ある日、同人誌「―俳句空間―豈」の若手メンバーである
高山れおな、中村安伸、生野毅
(生野は最初だけ名前が出てその後すっかり消えてしまったがどうしたのだろう)
3人が酒場から電話をしてきたのに始まる。
ブログ「週刊俳句」と違う新ブログ
「―俳句空間―豈weekly」を創刊するという宣言であった。
いいじゃないか、と答えると3ヶ月ほどしてブログが立ち上がった。
「―俳句空間―豈」とは何の関係もないが、
最初は「―俳句空間―豈」のメンバーが中心に書くのだろうと予想はされた。
大学の中に全国学生共闘会議が出来たようなもので、
だから本誌「―俳句空間―豈」は何も関係がない。
まあその志をよしとして、
発行人、編集人、関西地区世話人がときおり執筆しているが、
発行人、編集人、関西地区世話人として書いている訳ではない。
もともと書き手が少ないから、周辺で書く人が限られているだけである。
実際、俳句を排除する俳句評論ブログというものは寡聞にして聞いたことがない。
コーヒーのないクリープのようなもので、
余り多くの読者は期待できないだろうと管理人に言っておいた。
だから、現在常時、毎週1000人の読者があると言うことは、
予想外の健闘と言わねばならない。
「―俳句空間―豈」ですら、そんな読者はいないと思われるから。
さて、「―俳句空間―豈weekly」が始まるとき私が高山氏に言ったのは、
「―俳句空間―豈」は年2回刊、
「―俳句空間―豈weekly」は週刊だから
計算では平成21年の夏に追い抜かれるはずである。
「―俳句空間―豈weekly」の号数が
「―俳句空間―豈」の号数を追い抜いたら
成功と言えるのではないか。
さて今春「―俳句空間―豈」48号が出、
49号は秋に刊行される予定だが、
「―俳句空間―豈weekly」は本号でめでたく49号を迎えたので
お祝いをさせろと申し入れをした次第である。
ついでながら、「―俳句空間―豈」の方も、
1980年に創刊され、
明年で創刊30年、50号を春には迎える予定である
(別にだからといって何もえらくはないが)が、
49号でこれを記念した企画特集をたてた。
「安井浩司と攝津幸彦の彼方に―――俳句の未来」である。
50号でやらないのは、やれるときにやらないと疲れるからである。
無理をするのは良くない。
これが「豈」編集の伝統だ。
「―俳句空間―豈weekly」はさまざまな評価があるようであるが、
高山れおな氏の「俳句など誰も読みはしない」の創刊の辞が強烈であったから、
概ね好評のようである。
例えばその一つに、
「豈」が「豈weekly」として出発した。私も「お気に入り」に登録し、気が向けば読むようにしている。これはかなり内容が濃く、「これさえ読めば、雑誌の『豈』なんて要らないじゃないの?」と思えてならない。場合によっては、本誌よりもずっと読み応えがあるわけで、わざわざ雑誌とブログの二本立てで行く意義が今のところ見出せないでいる。(「報道ではなく」櫂未知子「―俳句空間―豈」第48号)
と賞賛されているのは有り難い。
ただ、「「豈」が「豈weekly」として出発した」は
上に述べた経緯があるので正確ではない。
また、「雑誌とブログの二本立てで行く意義」は二本立てではなく、
雑誌とブログの食うか食われるかの戦いであると理解してほしい。
ただ、どちらが勝とうと、大半の同人は生き残った方に移籍すればいいので
余り切実さがないと言うだけである。
なお、「「豈」が「豈weekly」として出発した」は同人の間でも誤解があるようで、
全俳壇を巻き込んだ?「匿名句評」をめぐって、
「―俳句空間―豈weekly」ならともかくも、
「―俳句空間―豈」をブログで非難しているのは筋が通らない。
本誌「―俳句空間―豈」とは何も関係がないのだから。
「―俳句空間―豈」は同人雑誌だが、
「―俳句空間―豈weekly」は投稿雑誌だ。
「―俳句空間―豈weekly」の執筆者も、
書く場があるから投稿しているのであり、
「―俳句空間―豈weekly」の主義主張に共感しているわけではない。
いや、そもそも主義主張などあるはずがない。
評論は載せるが、俳句作品は載せないという編集方針があるだけなのだろう。
[念のために言っておくと、
先行するブログ「週刊俳句」は記事依頼をしているようであるが、
後発の「―俳句空間―豈weekly」は一度として依頼したことはないはずだ。
書きたい人が勝手に押し寄せてきているだけだ、と思っている。]
閑話休題。
「―俳句空間―豈weekly」の過去のバックナンバーを見て分かると思うが、
本質的な困難は、ブログを継続することである、
特にそのためには幾つかの中心企画が継続することが必要である。
[ここらへんの発行人編集人の苦労は、「自叙伝風に(編集論/作品番号17)」を参照]
「開始」と「継続」は、使う神経や筋肉が全く違う。
相撲取りの選手とバスケットの選手ぐらい無関係なのである。
今の俳句の週刊ブログの継続は、
継続のために気力、
継続のための体力のどちらかをバランスを取って、
全体としてともかく継続させることが必要なのである。
どんな良い内容の記事も継続(更新)されないと
ゴミのようになって情報の海に埋もれてしまうであろう。
だから長編連載の執筆者は、何となく自分にあったスタイルで継続しているようである。
それでも、最近の冨田拓也氏の連載を見ているとまことに大変そうだ。
ふつう祝辞は将来の期待を述べるものだが、「―俳句空間―豈weekly」については、
何もない。
終るときはたぶん唐突に終るであろう。
「―俳句空間―豈」よりあっけなく終ると思っている。
予告もないかも知れない。
あるいは管理人が管理しなくなり、
ゴーストタウンのようになってインターネットの地図の上に死屍をさらすだろう。
もちろんそれはブログの本来的宿命だと思っている。
ただ、「―俳句空間―豈weekly」についていっぷう違うところは、
評論の蓄積がアーカイブとして形成されることだ。
多くの俳句のアーカイブが何の意味もあろうとも思われないが、
冨田拓也の連載が、1000編になったときのこと(20年かかる計算だ)を考えると、
さながらガウディの聖母子教会を想像し、心おののくものがある。
未だかってどこにも存在しなかった俳句のエンサイクロペディアは、
このブログの中で初めて光臨することになるかも知れない。
それは長谷川櫂のインターネット歳時記より遙かに破壊的であり、
正岡子規の俳句分類に匹敵する創造性を持つはずである
(とりわけ、検索やソートに関しては子規の考え及ばない世界が生まれている)。そう考えると「―俳句空間―豈weekly」は神の如き営みを行っている
1 件のコメント:
コメント 3.
レオナさんとこに二回、あんまり出しゃばるのもあれなんですが、なりゆきでもうすこしかいておきます。(今週は遷子の会の方へは行けませんでした、でもちゃんと読んでます。)
やなぎみわ展「婆々娘々!」(ぽーぽーにゃんにゃん)と言うのを、見に行って身につまされて帰ってきたら、なにやら又動きが出ていて、中村安伸さんたちが「ウェブ同人誌」(週刊誌ではなく!)と言うのを作るのですか?
東京は、動きが速いですね。安伸さん、忙しくなりますね。ウェブの性格は違うけど実際の持ち時間は決まっているので大変だとは思いますが、これも、積極性の表れ、まあ頑張ってください。
それと、私は、この「俳句空間—豈—weekly」のさいとは、「豈」と言う名において、潜在的な欲望のひろがり、と考えればいい、とかんがえています。
「関西」も。便利な使い方なので皆が信じてくだされば、今までやってきたお世話役ていどはやっても好いのですが。むしろこのように限定していいだすと、どうしても意識過剰のひとも出てくるかもしれません。
それと。いま。若手のヒトが、「豈を読む会」を始めたのは。これこそ、関西的な積極性から。自分の身近に可能性のある書き手を発掘発見して気持ちよく交流したいからです。ピュアであたらしい「俳句空間—豈」の感性です。 「豈」同人だと言うことも、私ほどは意識していません。彼らに掴みとったものがこれからの 「俳句空間ー豈」の内実となるはず。
「関西世話人」というのはわたしのことらしいけど。他の同人もぽつぽつかきはじめていますから、私のことは古狸ていどにかんがえておいてください。べつに誰から命じられてことでもなく、正式な役ということではないでしょう?これも、なりゆきで心配症だったり世話好きだったり、気が回りすぎたり、いまのところ目立っていますが、いずれ高齢者問題として考えるべき日がきっとくるでしょう。
現実が、建前通りに行かないから、何か連絡役とか通路が必要になっててくるのですけれど。本来同人は個人でかかわって行くのが「俳句空間ー豈」の建前ですから。磐井さん一流のジョークですよ。
それだけは、各人押さえて、私個人は情況に応じて全体の責任の一端をになう、というきもちがあります。
それは、摂津さんが亡くなって、大井さんや磐井さんや酒巻さんが、後を引き受けて発行を続ける形になったときの。私の決心というか。モラルから出てきているものです。
10年前まえ、「俳句空間ー豈」という形で集まったエネルギーの質が好き。と言うことでしょう。れおなさん達のこの行動なんて、面白いですよ。だから、私がお役に立つならば、改めてそうだんしましょう。
(ただし、健康とパソコンの実力の範囲があるので、大きなことは出来ませんが。)
実際の場面で、どう動くかというのは、いまのていどなら、表現には本質的なことではありません。(堀本 吟)
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