佐保姫を一夜泊めたる峠の灯
有馬朗人
(「天為」平成十八年四月号所収)
佐保姫は春の女神。裳裾をなびかせ野山に春の息吹をもたらす。対する秋の女神は龍田姫。いずれにしても、わが国の瀟洒な自然を象徴するような季語である。美人のほまれ高い木花之開耶姫を日本神話の正統の女神とすれば、佐保姫は土俗的で、肌に親しい神様といえそうだ。
佐保姫の衣装は料峭(りょうしょう)であり、そのささやきは森をしっとりとぬらす春雨のしめやかな声だ。峠の灯が風に消えがちにかすかにまたたき潤む。花芽のまだふくらまぬ里から山の灯を見上げて、はっと、佐保姫が泊まっていると感じた作者。そこに清らかな詩が生まれた。
その部屋は囲炉裏を真ん中にして障子に囲まれ、雪洞(ぼんぼり)のようにぼうっと点っているにちがいない。座っているのは野山の芽吹きの化生(けしょう)であり、また花の精。蕗の薹のような色をした透き通る着物に身を包み、楚々とした微笑をもらす。たった一夜の幻のような時間。明日はまた冴え返り、嵐が吹くだろう。しかし佐保姫との約束はいたずらではない。雪解水の匂いのする微笑は、いましも辛夷を、連翹を、雪柳を呼ぼうとしている。そしてやがて、その素肌のような桜を山や野にほとばしらせるだろう。
大切な黙契の一夜。少年の心のときめきがみずみずしく息づき、春のことぶれの清純をいいとめて比類のない句。真の俳人は、年齢にとらわれぬ青春性の持ち主であることに気付かせてくれる。有馬朗人は原子核の理論物理学者として世界的な業績をあげ、東大総長、文部大臣を歴任した。いわば世俗の位をきわめた人から、このような素純な民話を思わせる句がうまれることの面白さ。有馬は語る。「私は結局自然、特に原子核が持っている美を追及して来たのであった。俳句で私が志向しているものは、自然の美である。深く潜んだ美を見つけることは、作句の上でも楽しいことの一つである」。
また、一句にはあえかな恋の匂いもする。ひとつぶの峠の灯に、初恋と呼ぶのさえためらわれる儚い恥じらいの空間が閉じ込められた。「神と人との相聞から季節感が生まれた」とは、詩人にして俳人の高橋睦郎のことばだが、わが国の文化の伝統においては、四季をめでることは性愛をめでることでもあった。こうした伝統を踏まえ実にういういしい春の女神像となっている。自然現象の擬人化である佐保姫を、逆に人が泊めるとひねったこと。その俳諧精神が、一句の骨格を確かにしていることもまた見落とすべきではないであろう。
有馬朗人 一九三〇年大阪生まれ。物理学者。山口青邨門。「天為」主宰。句集に『母国』『知命』『天為』『分光』ほか。
*「ユーキャン俳句倶楽部」二〇〇七年三月号初出・加筆転載
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