2009年2月8日日曜日

中村苑子「水妖詞館」寸感

中村苑子の竜のおとし子
――『水妖詞館』寸感


                       ・・・関悦史

中村苑子の最初の句集『水妖詞館』は高屋窓秋の序文とともに、『中村苑子 花神コレクション[俳句]』に140句弱の全作品が収録されている。「遠景」「回帰」「父母の景」「山河」「挽歌」の5章から成り、父母への哀悼と強い審美性を帯びた他界幻想がその核となっている。収録句数の少なさに反して有名句は多い。

桃の木や童子童女が鈴なりに

木に鈴なりになった桃の実を童子童女に見立て、仙界的なイメージをまとわせた句、ではない。そうした常識的な隠喩を介添えにして、詩的現実としての童子童女が実際に生っているのだ。過不足なく隠喩に還元されてしまう句は単なるメッセージに過ぎない。

一椀の水の月日を野に還す

水が人並みの実存性を持つ。一椀の限定に区切られることで身体性・個別性を確保していた水の、野に放たれての葬送は、悲しみを帯びてはい水にとっては無念ではない。コップでもグラスでもなく椀に水というわずかなねじれも、澄んだままの水に霊的な厚みと寂しさを付加することに寄与している。

天と地の間(ま)にうすうすと口を開く

話すためでも食うためでもなく開かれた口。茫然と息を通わせ、「空と地面」ではない「天と地」のコスモロジーの中に置かれた身体を感じる。いや話が逆で、鎮まったままの離人性が天と地を引き寄せ、組織化したというべきか。目はこのとき全てを見ながらどこをも見てはいまい。

死後の春先づ長箸がゆき交ひて

永田耕衣に「竹の葉のさしちがひ居る涅槃かな」の句がある。ゆき交い、さしちがいによって空間に交差の点が生じ、それがなにごとか或る決定的なことが起こったかのような衝撃を生む。いずれも生死の境であり、不可知の「物自体」がいきなり物体としてあらわれたような衝撃である。

喪をかかげいま生み落とす竜のおとし子

冒頭に据えられた句。高橋睦郎は「花神コレクション[俳句]」解説で最後で「しかし、つぎのような句は私にはわからない」としてこれを引き、「私が俳句をわからないか、この句が俳句でないか、いずれかだろう」と書いている。「凧なにもて死なむあがるべし」等の佳句を引き「これらは厳然と俳句であることによって、俳句を超えている。(中略)じつは俳句でないものは、俳句を超えることができないのである」と中村苑子の句の臨界性を讃えた文の結語としてであり、峻拒とすら見える。

たしかに「喪をかかげ」の非具象と動作の強引な結びつきが、独善的には見えるが、この句が句集『水妖詞館』の冒頭に置かれていることに注目したい。これは句集全体のモティーフの宣言として書かれたものではないか。つまり死・喪失を核として句を生みつぐ行為自体のメタファーとして。そうしてみればタツノオトシゴの硬く棘だった表皮が個を強調して難産を強い、魚らしからぬ奇怪でよるべない立ち姿のまま水を漂うというありようは、父母への哀傷と他界との親和を中心に持つこの句集にふさわしい前口上ではある。いわばこの句集全体を素材にして詠んだ一種のメタ俳句であり、そこが「喪をかかげ」の生硬の原因となっているのではないか。『水妖詞館』とは、これまで幾度も言われてきたとおり変わった書名である。句が言葉で出来ているのは当たり前で、内容をあらわす「水妖」と、西洋的(=非伝統的)な造りをもって閉じられた小宇宙を暗示する「館」だけで、一応の用は足りる。「詞」がそれらと同格で並んでいるのが少々不穏なのだ。

ことが他界に関わるとき、言葉は物質と同等の実質を必然的に持つ。そうした面がしかるべき地均しもなくいきなりあらわれたのが「喪をかかげ」なのではないか。物質と同等とはいったものの、この標題の場合「水妖」も「館」も日常の世界にしかるべき実体を持つものではない。「水妖」も「詞」も「館」も全ては中村苑子の心象のうちにある。ではこの句集一巻は単に作者の主観に読者を閉じ込めるだけのもの、共感という貧しい感傷を読者に求めるだけのものだろうか。いや中村苑子の心象は詞の唯物性を介して外界に開放され、結果的にはわずかながら外界を変容させようとしている。作品が古典になるということは変容を外界に強いることに成功するということでもあるのだ。

ちなみにタツノオトシゴの子供はオスが産む。メスが産んだ卵をオスが腹部の育児嚢(いくじのう)に一旦収め、ある程度成長した稚魚を「出産」するのである。中村苑子がそこまで知って詠んだか否かはわからないが、このマニエリスティックとすら言いたくなる細心な二度手間、水中で人知れず行われる奇異にして切実な沈黙劇のさまもこの句集に相応しいといえないこともない。

以下、句を引く。

怖れつつ葉裏にこもり透きとほる

河の終りへ愛を餌食の鴉らと

跫音や水底は鐘鳴りひびき

撃たれても愛のかたちに翅ひらく

おんおんと氷河を辷る乳母車

貌が棲む芒の中の捨て鏡

祭笛のさなか死にゆく沼明かり

狂ひ泣きして熟練の鸚鵡をくびる

翔びすぎて墳墓の森を見失ふ

鈴が鳴るいつも日暮れの水の中

遠き母より灰神楽立ち木魂発つ

亡き母顕つ胎中のわれ逆しまに

母の忌や母来て白い葱を裂く

青芦原母はと見れば芦なりけり

木の梢に父きて怺へ怺へし春

父よ父よとうすばかげろふ来て激(たぎ)

墓の木に花咲き父母ら囀れり

いまも未熟に父母きそふ繭の中

桃の世へ洞窟(ほこら)を出でて水奔る

消えやすき少年少女影踏み合ふ

永き日や霞に鳥を盗まれて

じんじんと耳蝉が鳴く虚空かな

古町に墓遊びして数へ唄

黄泉に来てまだ髪梳くは寂しけれ

翁かの桃の遊びをせむと言ふ

我れ在りて薄き夕日となりにけり

蝦夷の裔
(すゑ)にて手枕に魚となりたる


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2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

死後の春先づ長箸がゆき交ひて

いい句ですね。

死者の存在感と季節感、
「春」というところ、
「先づ」の語がいいです。
自然に還っていくんですね。

匿名 さんのコメント...

野村麻実さま

コメントありがとうございます。

「春」というのが四季のなかで一番永遠に近いのでしょうね。停滞感があるというか。

「秋」だと変化や頽落の相が入ってくるし、「夏」や「冬」だと身体的なストレスが強すぎてあまり長居できない気がします。