2009年12月6日日曜日

あとがき(第68号)

あとがき(第68号)



■高山れおな

アンソロジー『新撰21』が出来上がりました。

装丁は間村俊一氏で、じつは版元の邑書林からデザイン見本をメールで示された際には、いささか宮廷趣味で若手の作品集にはふさわしくないのではないか、というような感想を述べたのでした。しかし実際の仕上がりを見ると、タイトル周りや帯の色遣いも美しく、当初の意見はこちらの不明であったようです。

カヴァー及び表紙の装画は、間村氏自身のコラージュ作品を用い、タイトルは《帰還》とクレジットされています。古代ギリシャの情景を描いた十八世紀くらいのエッチング作品を下地とし、リボンのついた女物の帽子の絵を貼りこんでおります。帽子は、画面奥の方向から手前へと、風に飛ばされてきた按配ですが、下地の絵の古代ギリシャとは全く時代の異なる、十九世紀から二十世紀初頭にかけての帽子で、典型的なシュルレアリスム式の取り合わせということになりましょうか。

エッチング作品は、右半分が深い森で、左半分は視野がひらけ、田園風景が続くかなたに円錐形の高い山が霞んで見えます。森の木陰に、地面に腰をおろして語らう羊飼いらしき若い男女が描かれていますが、絵の焦点は森の入口にあたる場所にいる三人の人物です。右側の森の方から進んできた若い男は、弓矢を携え、左手に猟犬の綱の先を持ち、右手を相手に向かって差し出しています。左から進んできたやや年が上に見える男は、長剣を腰に差し、やはり右手を相手に差し出しています。もうひとりは、杖を手にして両者の中間の位置に立っていますが、性別はよくわかりません。画題から考えて、オデュッセウスの帰還かとも思いましたけれど、物語の記述とは必ずしも一致しないようです。

いずれにせよアルカディア風の雄大な自然を背景にして、若者たちの出会いないし再会の情景が描かれているのは確かのようです。はるか後世の帽子が風に飛ばされるさまは、しかしこの若やいだ光景もたちまち過ぎ去ってゆくことの暗示になっているでしょうか。こんど間村さんにお目にかかった際に、聞いてみたいと思います。

関悦史さんは、『新撰21』にも参加している豊里友行さんの句集『バーコードの森』の書評です。わたくしもいちど取り上げた本で、挙げられた共鳴句は一致している場合も多いですが、もちろん別な作品に注目しているケースもあって、興味深く読みました。「句に詩性があり、血や肉がある。」という指摘にはとりわけ共感します。別に境涯性という意味で言うのではないのですが、やはり「血や肉」こそが致命的に重要だと思う今日この頃です。

冨田拓也さんの「七曜俳句クロニクル」は、一九八〇年代から九〇年代初頭にかけてのさまざまなアンソロジーについて書いています。当時の若手発掘の盛り上がりがうかがえます。南方社の『俳句の現在』全三巻、東京四季出版の『現代俳句の新鋭』全四巻、牧羊社の『俳句の現在』全三巻、立風書房の『現代俳句ニューウェイヴ』などが紹介されていますが、その参加メンバーの顔ぶれを見ると、現在、俳壇のリーダーとして活躍する名前が多く含まれているのは当然として、全く見かけない名前も少なくないことに気づかされます。俳句を辞めてしまった人、続けていても伸び悩んで名が顕われない人、それから少数でしょうけど亡くなった人(有名な故人である攝津幸彦、田中裕明は別にして)もいるかもしれません。一方、その後の活躍ぶりや、キャリアの長さからすると、これらの本に入集していて不思議でないのに見当たらない名前としては、高野ムツオ氏、それから他ならぬ筑紫磐井氏がいます。



■中村安伸

私のところにも『新撰21』が届きました。高山さんも書いておられるとおり、装丁は美しく、内容はこれからですが、非常にバラエティに富んだ人選で、ずっしりと餡のつまった和菓子のような魅力があります。

今回の冨田さん記事にまとめられているとおり、一時期若手の俳句アンソロジーが非常にたくさん刊行された時期があったのですが、やがて終息し、今回の企画が実現するまでの間には結構なブランクがありました。

ちなみに、私がはじめて参加した句会は、冨田さんの記事中にある『燦』と『耀』に参加した人々が集まったものでした。

今回のU-40 という年齢による切り分けには異論も出るでしょうが、現在40歳を少し越えた高山さんや五島高資さんたちの世代が、『燦』『耀』で最も若い人たちだったことを考えると妥当なラインなのかもしれません。


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