「―俳句空間―豈」第47号読み倒し〔三〕 タ行~ハ行の作者
高橋修宏「藍の甕」二十句
B さて、今回はタ行の方々からです。まず、高橋修宏さん。去年出された句集『蜜楼』(草子舎)は評判がよろしいようですね。47号の「藍の甕」では、どんな句がお好きでしたか?
A 今回は戦前がテーマなのでしょうか。
赤蜻蛉ふいに消えるも満州ぞ
草摑む手袋のなか星流れ
ぬばたまのよもつひらさか煮凝りぬ
などがよかったです。
天の河ガーターベルトに吊る宣詞
の「ガーターベルト」や、
白桃の肥えゆく家族ごっこかな
の「家族ごっこ」など、言葉に寄りかかりすぎな印象も受けました。
B 今回というより、テーマに関してはいつも一貫している方とお見受けしてますの。高橋さんの句はほとんど有季定型ですけど、どことなく前回読んだ小池正博さんなどにも共通する言葉遣いを感じませんか? A子様が良いという「赤蜻蛉」の句ですが、トンボですから気ままにふっと現われ、ふっと消えるのはよいとして、そのふっと消えるのが満州国にかかってくるわけでしょう。その寓意的なレトリックが、それほど冴えてるとも思えなくて。
A そうですね。ただ、「満州ぞ」の句が「草摑む」や、さらにひとつ置いて、
髪を切る鋏の彼方まで枯野
の前にあるので、その世界の広がりをここで出しているのだろうと。小池さんよりは、ありうる景であると受け取りましたが。ただ、その詠んでいる内容が、平凡というか、わりとありきたりではありますね。素材でみせている感じ。そういう意味では、小池さんのほうが、わからないながら、非凡さがありますね。
B おなじ素材主義でも、技術は明らかに小池さんの方が上だと思う。
A もちろん上でしょう。でも、高橋さんは雄雄しさが魅力なのかもしれません。
B 雄雄しさ! たしかに。俳句で思想しようとするこの姿勢は、基本的にわたくしも支持したいですの。あとは言葉に対する老獪さみたいなものでしょうか、欲しいのは。なんというか、高橋さんの句の構造って、譬えるなら足し算、引き算だけなのよ。掛け算、割り算もものにして欲しいところだわ。
A ふむ、そうなんでしょうね。しかし、わかりやすいものを支持するという方々も、俳壇にはいますからね。
B わかりにくいものが好きってんでもないけど。最後にわたくしの好きな句も挙げておきます。A子様も挙げていた「草摑む」「髪を切る」、それとA子様はよくないのではと言っていた、「天の河」の句。たしかにガーターベルトみたいなものを、宣詞の神聖さに対比させるゆき方はやや図式的で、A子様が言うような言葉に頼っているという批判もありだと思うけど、ともあれ「天の河」という季語はなかなかよく効いていて、とても豊かな空間性を感じます。ハードボイルドな抒情があるんじゃないかしら。
A でも、ガーターベルトってきたら、「吊る」は裏切りがないですよ。あ、でも、天の河をガーターベルトのようだ、というのはなかなかな感性ですね。そう取るといい句に思えます。B子様とまったく評価ポイントが違いますが。
高橋比呂子「熱帯魚」二十句
B 次は高橋比呂子さんです。
母と娘のみずいろたしかめあう晩夏
夜桜の四角い耳鳴りもてあます
などが好きでした。
A 自分も「母と娘の」、それから、
車麩に一日かけてみちのくは
ですね。「みずいろたしかめあう」とは何だろう。しかし「晩夏」が効いていて、平仮名もなかなか。「車麩」もよくわからんのです、一日かけなくともすぐ煮えるもんだし、と思うのですが、車麩の長いのを覗くと、何かそれがみちのくの道のようなんですよ。
B 車麩の穴とは気づきませんでしたの。ご説明で面白くなりましたわ。「みずいろ」といえば、攝津幸彦さんに〈みづいろやつひに立たざる夢の肉〉(『姉にアネモネ』)という危ない句がありますね。高橋さんの句、これと関係があるということならヤバヤバですの。思い過ごしでしょうけど。母と娘のどんどん変化してゆく関係性のようなものを詠んでいるのかしら。「夜桜の」の方ですが、夜桜の過剰な存在感を詠んだ句は、〈睡りても大音響の櫻かな〉(角川春樹『補陀落の径』)とか〈殺さないでください夜どおし桜ちる〉(中村安伸)とかいろいろあって、これもその系譜上の句だと思いますが、「四角い耳鳴り」という共感覚的な表現が、成功しているのではないかしら。
A しかし、表題句の、
この指の岬にとまる熱帯魚
は、いただけませんね。B子様の言う年相応って範疇ではこれ、無理でしょう? 「夜桜の」の句は「もてあます」と心中を吐露してなければ取れるかな。下五惜しいです。
B そうですの、年相応問題というのはこういうケースのことなんですわ。
鬼灯の因数分解鬼ばかり
も、このナイーブさはいただけないですの。
金魚二匹戦争を知らざりき
とか見ると、すでに越智友亮さんに批評性で負けてますもの。
高山れおな「狐と犬」十一句
A 次は、高山れおなさんですが、どうですか?
B なんといってもこの、前書とかルビとか捨て仮名とか、じゃらじゃら光り物を付けたような感じの表記に違和感を覚えます。「豈weekly」のこないだの号のこの方の書評(第20号 「多行俳句の蒼空 中里夏彦句集『流寓のソナタ』を読む」)を拝見すると、多行俳句はフェティシズムだとかなんとか批判してますが、あなたがいちばんフェティシズムじゃん、という。
A 先日、十年前の「豈」をちら見する機会があったのですが、倉阪鬼一郎さんが、江戸俳諧だか川柳だかの前書をつけて一句ずつ詠んでいて、面白い連作でした。コピーを取る時間がなかったので、その原典としているものに当たれていないのですが。まあ、フェチ系俳句というジャンルでは、高山さんが第一人者なのでしょう、現在。今回の連作も『詩経』からですが、引き合わせて読むとけっこうその詩に含まれる字からの発想だったり、世界の焼き直し的句もあるのですが、
泥のごと大名眠る灯取虫
子ゆゑの白き夏野を並び狩る ⇒「子」に「きみ」とルビ
狩の犬飛びちがひつつ天上へ
田ると大地の鏡はこなごなに
⇒「田」に「たつく」、「大地」に「ガイア」とルビ
など良いと思いました。金子兜太さんの句集『詩經國風』(一九八五年 角川書店)に触発されての部分もおありなんでしょうかね?
B あら、倉阪さんのその連作、こんど見てみよう。高山さんは、安井浩司とか意識してるのかしらね。「大地(ガイア)」なんて言葉遣い、なんだか安井さん臭いわ。「週刊俳句」での、相子智恵さんとのやり取り(※1)は読みましたが、相子さんみたいな良い読者ばかりじゃないですからね。この路線で上手くゆくものかどうかお手並み拝見ですの。わたくしの好きなのは、
風の胎ラ出で入る雄狐を忘れない ⇒「雄狐」に「いうこ」とルビ
永久にゆく返し矢なれば囀らず ⇒「永久」に「とは」とルビ
あたりかしら。「風の胎ラ」の句なんて、金子兜太調でどうかという気もしますけど。
A ああ、「永久にゆく」もいいですね。「風の胎ラ」って何です? これも元が雄狐さんの詩でしたよ。
B まあ、A子様まで相子さんみたいなことなさってるの? お閑でいらっしゃるの? 高山さんもお喜びでしょうよ。「風の胎ラ」は、胎ですから風が生れる場所とか風が孕まれる場所とかそういうことかしら、素直にとれば。それでこの狐はそういう世界にも出入りする存在であるというふうな。なにしろ『詩経』の世界ということにしちゃってるから、どんな神秘も当たり前と言い逃れできちゃう寸法ね。
A 「風の胎ラ」と書くと、エロくてよいですね。いや、全部は読み合わせてませんが、そんなに暇なし。「田ると」、山口薫の抽象画の世界なんですよ。群馬の田んぼや貯水池を描いたもの。20年くらい前に、よく銀座の画廊に掛かってましたね。
筑紫磐井「昭和情歌 其拾五」二十句
B こんどは筑紫磐井さん。管理人サイドが続いてやりにくいけど、気にせずゆきましょう。筑紫さんの俳句って、あれですよね、オール・オア・ナッシングだと思うの。このゆき方を認めるか認めないかが大前提で、認めない人はハナから認めないでしょう。認める人は認める人で、一句一句の出来云々よりこの世界を楽しむという感じだし。
A ザ・筑紫ワールドですね。認めないとか認めるとか、よく言われますけど、自分も。小池さんのような現代川柳が、ああいった方向に向かっている一方で、こんなに批評性に満ちた俳句があるのが現代なんでしょう。面白いですね。でも、一句目の
閉ぢてゐる扇に君を知り初めし
なぞ初初しくて、裏にどんな悪意が、と勘ぐってしまいますが。
B 悪意ないのよ、こういう句は。筑紫さんて、本来はピュアな抒情派だと思うの。でも、福永耕二とかに憧れて作ってた時には、うだつがあがらなかったのね。それで、スキルアップで人々をぎゃふんと言わせるのではなく、社会の側を改造して自分の句を受け入れさせるというか、自分と社会との関係性を構築してそこに作品を流しこむみたいなことをこの方はやっているのだわ。読ませるための戦略主義ということでは坪内稔典さんと双璧かも。
A 失踪の妻が棲みたる冷蔵庫
は、ホラーですよね。でもどことなくおかしいのは、「棲む」の語の斡旋かな。トルーマン・カポーティの短編に、今まで飼ってた猫の遺体何十体をすべて冷凍庫に保管している老女の話があって、それを思い出しました。
ピュアなのは、
めらんこりいとは君の靴色聖五月
ですね。
高潔な霊長類は昼も眠り
も、風刺でありつつ、叙情が感じられて美しい。
初夏の妻と宣戦布告せよ
も、季語が入ってますが効いてます。なんだかんだ言っても季語がお好きとみましたが。韜晦系ですね。
B 季語を使いこなすくらいはさすがに手馴れたものですわ。能村登四郎の弟子ですから。わたくしはあえて一句に絞るなら、
現代の俳句に絶えし美男美女
ヒラメ顔の子規はともかく、虚子も碧梧桐も見た目立派ですわよ。東洋城とかも。四Sはなんですけど、四Tは立子以外は美人だし。そこいくと悲しい哉、今は顔の良い俳人がおりませんですの。淋しいですわ。
A 句と同じで整っていても、どこか腑抜けた顔ばかりでしょうか。
津のだとも子「新意識」十八句
B 次は、津のだとも子さんです。最大の難関のひとつかな、と。とにかく意味は少しも理解できないのですが、かなり練られた表現がなされている感触はあって。
雲が霧が罌粟の漆黒の一碗
強化ガラス並べ桜鯛なりけり
青鹿近くなつめやし甘美
球面からかもめの玉子という菓子から
調宮と罌粟をかぞえている現在 ⇒「調宮」に「つきのみや」とルビ
能面のやまもも熟すそのほか
うちもそともこうこつ文字にてうすばかげろう
など、ほぼ全く説明できませんが、美しいですの。
A そうですね。「調宮と」「能面の」、それから、
蔓ばらの等しく淡水魚なれ
と、とっています。「調宮」とは何でしょうか、非常に魅力ある句なのですが。ただ、
新意識塩のおむすび芭蕉の葉
の「新意識」とか句の中にこなれていない言葉も目につきます。「強化ガラス」の句、自分には納得しかねますが、ご説明いただけますか。それと「球面から」の句も素材の並列から抜け出ていない。「そのほか」「ときどき」と曖昧にぼかす手法も多用してますね。
B 「新意識」という言葉自体はわたくしはOKというか、むしろ絶対的にこなれていない言葉をあえて使っているのでしょう。それこそ津のださんは、俳句形式と言葉だけで、「新意識」を探りあてようとなさってるんでしょうし。しかし、この句に限って言えば、「塩のおむすび」「芭蕉の葉」という妙に俳句臭いものを持ってきてしまっていているのが興ざめでした。「強化ガラス」は「桜鯛」のお肉の充実したメタリックな質感の比喩ということなら面白いと思うのですが、表現が詰め切れてなくて、ガラスケースの中に商品の桜鯛が並んでいるみたいなイメージを払拭できない。その点、惜しいところで成功には至っていない句なのかな、と。「調宮」は、埼玉県にそういう神社があるらしいの。狛犬ならぬ狛兎がいるらしいわ。
A なるほど。「調(つき)の宮」みやが「月の宮」に転じて、ケシの花に降り注ぐ月光が浮かんでまさしく聖域の美しさです。
B 津のださんの俳句は、阿部完市さんの表現の流れかと思いますがどうでしょう?
A そうなのでしょうか。自分にはもう少し整理されたほうが阿部完市さんに近く感じます。
B もちろん、阿部さんの方が完成度は高いのですわ。ただ、「うちもそとも」の平仮名表記とか、あと全体のリズムとかアベカンっぽいですね。おっしゃる通り、もう一歩のところで整理しきれていない句が並んでいる感じかしら。A子様があげた「調宮と」「蔓ばらの」なんかが中では完成度が高いような。
中村冬美「木の玩具」二十句
A 中村冬美さんにいきましょうか。
空き箱を積んで六月ふくらます
八月を組み立てている木の玩具
ですか。
B 「八月を」はいいですね。あとは、
夕焼けの消し忘れた文字持ち帰る
が、なかなか。
A その句は、あえて定形に収めていないのでしょうか?
B 中七が字余りですね。正直言って、今、話題にあげたようなのはまず句になっていると思いますが、全体に発想の射程は極めて短い人だと思います。「あえて」という程、定型に意識的な人なのかそもそも疑問だわ。
A 例えば、
あやとりの梯子を昇る春の月
ジーンズの穴を零れる自己主張
などは常套手段ですよね。
B つまり全体として、現代俳句調の月並俳句ということよ。そこいくとなかなか成功作は難しいにしても、津のださんの俳句の射程距離ははるかに長かったと思い知らされますの。
A 確かに。津のださんの方が、より上質な発想ですね。
B おそらく、
右足が蟻踏んでいる神楽坂
とか、そのあたりがこの人の俳句の基本水準なのでしょう。さっきの「八月を」や「夕焼けの」くらいの句がたまたま出来れば御の字なのではないかしら。
中村安伸「トマトの水」二十句
A では、次へ。また管理人さんです。中村安伸さんは、
一列に馬を冷せり蔵書印
が、なんといっても秀逸ですね。
梅雨晴れ間毛深き死者となりゆけり
ゼラチンのやうな昼寝の農場主
東京のトマトの中の大きな水
も、よいです。
B わたくしは、
夏草が蛇となるこの教室で
逝く夏のギターを愛の循環す
地下鉄に黒い金魚のやうな母
それからA子様も挙げていた、「ゼラチンの」などが好きです。「一列に」の句はどんなイメージですか?
A 実際に馬を冷やしつつ、自分の書庫のことを考えているのでしょうか。きっと蔵書印も馬の図柄で、それも書棚にずらりと並んでいると、ダブルイメージ。
B わかる気がします。わたくしが挙げた「逝く夏の」のギターは、エレキギターということかと思うのですが、もちろん愛の歌を唄っているんですの。エレキ即愛のこのベタさを支持したいと思いました。
A 電気が循環していて、確かにプレスリーとかの感じありますね。「ゼラチン」は、そのものを比喩として使いつつ、農場の牛や豚や馬たちを薄く想起させますね。肉を取ったあとの皮や骨で作るゼラチンへ。ギュンター・グラスの詩に、「豚の頭のにこごりの作り方」というのがありますが、頭肉をひたひたとゼラチン質が覆っていく昼寝。
B 〈東京のトマトの中の大きな水〉は、あのタネのところのどろりとした水からの飛躍なんでしょうか。
A そう、トマトが東京そのものなんですね。原産地とはかけ離れた、水っぽいトマト。どこかまがまがしい、東京の現在の姿ですよね。
B あ、見落としてましたが、
白百合よコロスは井戸のやうに在り
の句がなかなか良いのでは。「コロス」は、ギリシャ悲劇の合唱隊ですね。それを「井戸のやうに」とする直喩は成立していると思うわ。
A 古代円形劇場の底から、湧き上がってくる歌声ですね。「白百合」はそのギリシャ風の衣服の襞のゆれでもある。
B なかなか素敵。もちろん「白百合」が実なわけですが、いわば眼前の白百合が、「コロスは井戸のやうに在り」という直観をもたらしたというふうに読みたいですね。
A そうなんでしょうね。「白百合」は実でもあり、遠く古代へ思いをはせる扉でもあると。
中山美樹「ふわふわびょう」二十句
B 次はミッキーさんです。わたくしは、
あぶみはずしてあぶないあいじんあいらんど
淋しがらせて金魚があかい
花火ならそのまま花火ならよかった
とまこまいまいまいつぶりもどらない
ぷらたなすさようならが古びない
銀幕へもどるざとうくじらかな
ぼたん雪ぼくのまねしてふわふわ病
などを頂きましたの。とにかく言葉のメロディーがいいわ。世界がある。
A わたくしも「あぶみはずして」「淋しがらせて」「とまこまい」、それから
やはり抜群の言葉遊びに惹かれます。メロディー、美しいですね。
B 特に難しい何かを表現したい人ではないでしょう。むしろ歌謡曲的な感覚に近いわかりやすいところを詠んでるんだけど、言葉の姿の良さがあるから、それが欠点にならないんですの。〈あぶみはずしてあぶないあいじんあいらんど〉は、頭韻の面白さはもちろんだけど、「あぶみはずして」の具体性が入ってるお蔭で、言葉が流れてしまわないのだわ。
A 「ふわふわびょう」っていうタイトルがゆるカワですよ。皆しかめつらしいタイトルつけますが、病って平仮名に開いてしまうと廟?描?とさまざまに連想が。
B 秒かも。「豈weekly」第22号の関悦史さんの原稿はお読みになりまして? そこに城戸朱理さんによる前衛の定義が引かれているのですが、自分を高みに置く自意識がまあ前衛たるものの要件としてあると。それはそうだと思います。津のださんなんか典型的にそのタイプよね。ところがミッキーさんは何はともあれ自分を高みに置く自意識はゼロ、ほんとにゼロ。
A 自分を高く見せたがる作者も多い中で、この中山さんは特異な存在なのでしょうね。
新山美津代「蓼の花」十五句
A 新山さんはどうですか? どれもできているのだけれど、安易に採れてよいのか?と自問します。一句目の、
山鳩よわが掌のまえに二歩三歩
は、〈山鳩よみればまはりに雪がふる〉(高屋窓秋『白い夏野』)からですが。
B ほんとにそうなのですか? 窓秋の換骨奪胎ということ?
A ちがう? ではどの句を採りますか?
B ちがうとも言い切れないですが、そうだとも言い切れなくて。わたくしは、
片側はしろがねのうろこ雲一片
でしょうか。
A 木鶏に似たる春意のいづかたへ
もできているのですが、どれも完成していながら、何か余韻といったものが足りないような。
B 見かけが立派すぎるのでは。ほんとに立派というよりか、立派に見せようとする意識の方が眼についてしまうんですの。偶然ながらミッキーさんのような人の隣に置かれてだいぶ損してらっしゃるわ。
A そうですね、雰囲気先行の句ととれてしまいます。
B 水仙の枯れ賑わしきかぎりかな
なんて、花壇の水仙がただ枯れてるだけでしょ。「枯れ賑わしきかぎりかな」って、内容が無いわりに大袈裟なのよ。そういう気取りがさほど気にならないのが、先ほどの「片側は」、それと、
雲奔りさくら丸ごと飲んでしまふ
でしょうか。ただ、雲と桜は、それこそ和歌・連歌以来の付け合いで、丸ごと飲んだくらいでは驚かないわ。
A 水仙が枯れるのって春たけなわになってからですしね、「枯れ賑わしき」では真冬ですよ。
橋本直「犬はどこから」二十句
B では、橋本直さんへ。
A 論のほうが目立つ方ですよね。「豈」「鬼」に所属しているので「uni」というサイト(※2)を田島健一さんと運営してますね。
B 今回の作品ですが、
神奈川沖浪裏透かし蠅叩
子供浴衣セット吊され商店街
和船ぎぃと進み入道雲多淫
廃船のペンキの厚き天の川
良きシャツを着て男等の花火かな
などが良いかと。「和船ぎぃと」の句は、虚子の〈川船のぎいとまがるやよし雀〉(『五百句』)を踏まえていますが、「入道雲多淫」で別の句になっているでしょう。むっつりスケベな感じが悪くないかと。「子供浴衣セット」の句なんかは、「澤」調も入ってるのかしらね。「廃船の」は写生句として出来ていると思いますが、Aさんは句会とかでこの種の作品はよくご覧になる?
A よく見かけるというより、福永耕二の〈昼顔や捨てらるるまで櫂痩せて〉(『踏歌』)とやはり比べてしまいますね。まあ、「廃船」と「天の川」の取り合わせはよいですが、でも、天の川が見えるくらいだから周囲には強い光源がないはず。「ペンキの厚き」が、写生として本当に見えているのか踏み込みきれない。剥がれている箇所があって厚いとわかったということかな、親切に解釈すれば。写生句としてでなく、この「廃船の」、それから、
箱庭に打ち上げられし抽象画
風鈴や舌噛めば血の流れ出る
と取ってますが。
B FRPの舟だったらあれですけど、木造船だったらこの感じ自体はよくわかりますよ。ペンキが剥がれかかったり、浮き上がったりとかいろいろしているのでしょう。
たましいに遅れて杖の行く秋の
は、中原道夫さんの〈飛込の途中たましひ遅れけり〉(『アルデンテ』)を踏まえつつひっくり返していて、これも悪くないですね。
A 「杖」の語の斡旋と「行く秋の」という言いさしの形で成功してますね。
出アフリカ犬はどこから秋茜
も、よく見えてきました。広大な景のなかに一匹の犬。
B 「犬」と「秋茜」は実ということでよいのですよね? いや、この句も面白いですよ。論客だけあって、二十句全体を見渡した時に構築性があるというか、世界が展開してゆく感じがします。
A 実景か、虚かは、わりと自分の中ではファジイに処理してます。犬と秋茜は実景ながら、虚の暗黒大陸へと錯覚をいざなう。「良きシャツを」や「子ども浴衣セット」、そんなによいですか? 「良きシャツを」は、〈男らのよごれるまへの祭足袋〉(飯島晴子『寒晴』)にひきずられてる句かと。「子ども浴衣セット」も、「澤」にいくらでもありそう。
B うーん、でも飯島さんの句は関係ないんじゃないかしら。「子ども浴衣セット」に関してはその通りで、「澤」にいくらでもあるでしょう、この種の詠み方は。「良きシャツを」は、なんか景色が明解に見えるのですわ。金持ちのぼんぼん風な若者たちが、楽しそうに花火に興じているのですが、たぶん男だけでやっている。「男等の花火かな」で、女抜きなんですわ。その風景が妙に気になるのよ。
A ああ、手花火なんですね。自分は打ち上げの大花火ととりました。そこが違って受け取れた所以か。しかし「かな」で安易にまとめている為に、花火がどちらか曖昧にとれます。
B 全体にこういうわかりやすい句が多いですが、最初の四句は難しいわね。まさにその四句目の「神奈川沖浪裏」は、北斎のあのビッグウェイブがぐわーっと盛りあがったあの感じからふっと連想を飛ばして、視界に迫ってくる「蠅叩」のイメージが出てきたのでしょうね。
A 蠅叩きの波がサーファー追いかけてるとしたら、現代の北斎のようで面白いですね。あと、〈風鈴や舌噛めば血の流れ出る〉は、ローリングストーンズのマークが風鈴からだらんと垂れてそうで、ようございます。
B その説明は面白いですが、そう読めますか? 句形からすると上五と中七以下の取り合わせの構造ですよね。「舌噛めば血の流れ出る風鈴や」と引っくり返せばA子様の読みもあり得ると思うけど。
A 上五で切れて取り合わせなのでしょうが、そこにブリッジとして別のイメージを重ねてあるのでは。風鈴に舌がどうこうという句はいくらでもありますからね、もうひとつ何かないと面白くない。ストーンズのマーク見て思いついたのでは、風鈴にも舌あるじゃん、と。
B でも、それは親切過ぎる読みというものですよ。A子様の説明のようなところを狙ってるのかも知れないけど、現状ではそうは読めないなあ。
秦夕美「しんにゅう口」二十句
A 秦夕美さんは、
辻占にわが名父の名しぐれけり
風花や地蔵百体運ぶ闇
雪虫のなかの呪ひをつかみだす
B わたくしは、「辻占に」は同じく。他に、
坪内逍遥訳ハムレット冬北斗
寒月や九品のどこに坐らうか
枯菊を吐きつぐ出雲風土記かな
「風花や」の句は、例えば笠子地蔵のような世界連想すればよいのでしょうか?
A いえ、風花は笠子地蔵の話にあるような本格的な降りではないので。ただ地蔵を彫っている工房のようなところにちらちら舞う雪かと。
B その場合、「運ぶ」はどういう解釈になるのかしら。わたくしは、風花の舞う闇の質感、その静かさや冷たさを隠喩的に表現したのが「地蔵百体運ぶ」なのかと思いましたの。
A 新潟に行ったときに現地の方にも伺ったのですが、本来、風花は青空に舞う雪片なんですよね。だから「闇」はありえないのですが、ろうそくやランプの明かりの工房の中から運び出すと、と採りましたね。
B 闇はありえない、なるほど。ちなみに「寒月や」の句ですが、九品というのは極楽往生のランクが九段階になっているという、そのことでしょうか。上品上生・上品中生・・・・・下品下生とあるのですよね。死に対する意識が入った句かと。秦さんは技術の高い方ですが、季語の取り合わせ方はわりにベタ付けというか、意外性には乏しいですね。
A この「寒月」もそうですよね。でもそもそも、こういう句は実はよく句会で見かけます。三界だの、九竅だの。「上品(じょうぼん)」とか俗語として使われるものもありますし、仏教用語イコール死への意識というのは割と短絡的な構図では。
B そうね、仏教語はわりとありがちかも。そういう意味では、「枯菊」と「出雲風土記」の取り合わせも、悪くはなくとも既視感は免れませんね。○○物語がどうとか○○絵巻がどうとか、ありがちです。教養の程はうかがえるけど、全体として微妙に普通な感じが秦さんの世界には付きまとっているような。
A 教養なくてもその辺の言葉は入れて作れちゃうんですよ、俳句って。だから同じに見えてしまって、秦さんのようなタイプは損してしまうでしょうね。
羽村美和子「ダリ目覚めさす」二十句
B 教養ということでは、次の羽村美和子さんなど、タイトルの「ダリ目覚めさす」からして微かな勘違いの予感が・・・。表題句は、
時計草ひるがえりダリ目覚めさす
A 時計とダリは普通すぎる連想ですし、時計草の花は南方系で蔓ががっちりしてますからね。翻るとするのは、かなり無理が。
B 羽村さんは一句目の
きつねの嫁入り白い匂いの日が昇り
だけでしょう、取れるのは。でも、全体の水準を見るとこの句の出来は偶然だという気が……。
A その句でしょうね。「白い匂いの日」って良いですね。おや、つめたー。
B あともうひとつ強いて言えば、
いなびかり手紙の文字が立ち上がる
でも、
ひまわり畑千の眼に見つめられ
とか作ってしまう人だもの。もう、何をか言わんや。成功・失敗という話以前の、発想力みたいなところがすでに問題なのかも。
早瀬恵子「夏の瀬」十三句
B 次は早瀬恵子さんですが、
パリっとそとがわモンマルトル
という句なんか、A子様のご感想をうかがいたいですの。
A パリのモンマルトル、とバゲットのぱりっと焼けた皮をイメージ重ねてあるのでしょう? でも、モンマルトルはそんなに外側ではないですね。パン屋のコピーっぽいけど。
B そうか、パン屋のコピーとしてはありか(笑)。で、
指ぬきのほっと独尊ジャグバンド
の「ほっと独尊」は「ホットドック」の駄洒落なんでしょう? わたくし今、遠い眼をしております。
A ええ? そうなのですか? まあいいや、
ソフトクリームに隠れようかリボン
は、童心でかわいいですよ、早瀬さんのキャラなら。最後の
白扇のかなたの君はまぼろしの
は、追悼句でしょうか、長岡裕一郎さんの。
B 童心かあ。無敵のひとことよね。いや、わたくしも「ソフトクリームに」はちょっとかわいいと思いました。でもこういう句こそ、もう少し五七五の定型に配慮した方がいいのに。そうでもない?
A いや、これは定型でなくてよいのでは。定型にしたら古くなりそう。
B ちなみに、「ジャグバンド」って何ですか?
A まったくわかりません。ジャグリングに関係がある?
B もしか、ジャズバンドの誤植?
A そうかも。では、「指ぬき」とはどういう関係に?
B ???
はるのみなと「ちちんぷい」二十句
B はるのみなとさんは、二十句全体に水準高しですね。大ベテランですし。前衛古風の作者という感じでしょうか。一句目に、
ねんごろに風をほどきて山眠る
とありますが、まさに風がほどけてゆくような軽やかさやユーモアもある。
くれなゐに階包む風呂敷よ
稲は穂に渡る世間にアデランス
菜の花のふるさとまとめて船箪笥
疊屋が走る月下のいるかショウ
などをとりあえず挙げますが、特に悪い句はないような。
あやとりの橋の投身まあだだよ
は、また綾取りですかという感じではあるけど、下五の「まあだだよ」で救ってます。そのあたり巧者ですね。
A 自分は、「ねんごろに」「くれなゐに」、それから、
朝寒がドアの把手に提げてある
玄関に立て掛けておく虫の闇
胸倉に収めし虹はみな片脚
ですね。「あやとりの」の句は「投身」が良いのでしょうね。綾取りの橋の細い形状はまさしく吊り橋のようで、危うさもある。「まあだだよ」の斡旋は、作為が感じられて、それほどとは。
B 「投身」もそうですが、
藍染の暖簾の奥の処刑台
の「処刑台」とか、
青蚊帳の中騒然と付喪神
の「付喪神」とか、強い言葉をつかってますがそれが一句の中で浮き上がらない。言葉の強弱の出し入れというか、押し引きというか、それがきっちり計算されてますね。あえてベストということなら「くれなゐに」でしょうか。
A そうでしょうね。ここまで見てきた方たちの中でも、かなり周到に練られている方と思いました。発想だけ、取り合わせだけ、新奇な言葉を入れるだけに終わらせないですね。独自の造語らしきものもあって、
蝶冷えの甍続くよあさきゆめ
もよいです。
B なんか、金沢とか倉敷とか、そういうシックな町で、美しい令嬢が夢を見ながらうなされている、みたいな感じかしら。「蝶冷えの甍」なんて、瓦屋根の質感の捉え方として新鮮ですね。「くれなゐに」の方は、赤いカーペットが廊下や階段に敷かれているのは実際にも見ますし、赤絨毯といえば権力の象徴でもあるわけですけど、それが「風呂敷」に変換されてしまい、覆うことは出来ても包むことなど出来ないはずの階段を包んでしまう。なかなか見事などんでん返しですわ。
A 赤いカーペットか。どんでん返しの句とは思いませんでした、なるほど。やんごとなき方が思いがけず通るときにさっと赤い風呂敷広げたとか、取りましたが。くれないの色彩がどこまでも広がっていくようで、そこに立つのが姫だとしたらビーナスの誕生のように、風をはらんでいる景かと。
B どんでん返しという説明の仕方はともかく、クリスト夫妻のアート作品なんか思い出します。A子様は挙げてなかったですが、〈稲は穂に渡る世間にアデランス〉はどうです? なんか、本人はくすりともしないで変なことを言って人を笑わせるような、ポーカーフェイスなユーモアがいいのだわ。
A 上五が、実りを引き出してしまい、アデランスが効いてないと見ますけれど。「ねんごろに」、のユーモアのほうが上かな。
B なるほど。稲穂ふさふさがアデランスの邪魔をしているということかしら。これは短歌でいう序詞みたいな感じで、あまり気にしないで読んでいたのよ、わたくし。でも、「ねんごろに」の句も、もちろんいいですよ。風が、山々にぶつかってほどけながら吹き渡ってゆく感じ、よく出ています。
A といいつつ、ねんごろになる、という意味もはらんでいて、「風をほどきて」が万葉の頃の「下紐解く」を引き出し、やることやっちまったら先に寝てしまったよ、この山ってやつは、というおかしさも。
B やることやっちまったら、ですか。まあ、A子様、お若いのね。しつこいようですが、「稲は穂に」じゃなくて「花は葉に」とかだったらどう? もっと景色に華やかさが出て対照性が浮き立つようにも思うけど。
A 花は葉に、だと養毛剤効きすぎですよ。ならば無季の言葉を入れるべきでしょう。
樋口由紀子「じょうだん」二十句
B ほほほ。さて、樋口由紀子さんですが、この豈47号、作者名の五十音順に並んでるだけで編集部の作為は無いはずなのに、なんかいろいろ味わい深い見開きが出来てますよね。樋口さんも、言葉がよく練られた作者という点ではみなとさんに近くて、しかも俳句と川柳の違いも非常にくっきりしているという・・・。
A 川柳ですよね、紛れもなく。一句目から対照的になっていて。
B そういう意味では、小池正博さん同様やりにくさはあるけど。好きということでは、
廃屋の内と外には象の跡
駅前の整形外科は一途なり
ユリカモメもう座ってもいいですか
てっぺんに覚悟のできぬ髪飾り
生きていくのに精一杯の姫人形
あたり。
A 自分は、「廃屋の」の他、
嘆いてもどうにも合わぬ皿の数
からくりは昼のはずれの景に似る
でしょうか。
B 「廃屋の」は、はいいですね。荒廃のリリシズムというか。ロマン主義の廃墟趣味まで持ち出すのは大袈裟でしょうけど、日本のボロ屋なんでしょうから。
A 幻の象が、せつなくて。日本家屋のぼろさは、動物園で見る象の擦り切れたヨタヨタ感にも通じていて。サバンナや熱帯雨林ではもっと活動的なはずなのに。そこに、高度成長の幻影もあるかと。
B 虚子は、〈年を以て巨人としたり歩み去る〉(『五百句』)と詠みましたが、やはりこの象も時間の寓意という面はあって、でも虚子の巨人のような決然たるものではないですよね。象自体、滅びゆくものという悲しい象徴性を帯びてしまっていますから、今や。
A 〈からくりは昼のはずれの景に似る〉は、「昼のはずれ」が巧みですね。一瞬でフラッシュバックした、非日常。川柳なんだけど、面白い。
B 昼の街はずれ、じゃなくて、あくまで「昼のはずれ」、なんですよね。時間と空間の両方からはずれてしまった感じ。〈ユリカモメもう座ってもいいですか〉は、わたくし小学校か中学校の国語の教科書に載っていた吉野弘の「夕焼け」という詩を思い出しました。女子学生が満員電車の中で何度も席をゆずって、最後にゆずらなかったという詩。A子様は、ご記憶ありませんか?
A そういえば、あったような。でもあまり印象に残ってないですね。女子学生に思い入れなかったしな。ユリカモメってけっこう便利な季語で、かなりどんな内容にもフィットしますね。いや、この句は季語として使われているわけではないでしょうから、これを否定しているのではないですが。
B この場合はもちろん、新都市交通ゆりかもめもにも連想がゆくことが期待されているかもしれません。「夕焼け」は、優しい人間が、過剰な責任感に傷つくという詩でした。この句の「もう座ってもいいですか」も、もちろん救いを求める内心の声のように読みました。樋口さんには、他人になりかわれる力があるようにも思いますの。
A そうか、あの乗り物のゆりかもめですね。そういえば、あの路線が通っているお台場付近にもユリカモメ多しです。車窓から鳥のいる景を眺めつつの、内心の思いですね。川柳はやはり人の写しこみなんでしょうか。
B 三人称なのか一人称なのかはわかりませんが。川柳らしいという意味では、
てっぺんに覚悟のできぬ髪飾り
なんかもそうですよね。この句の女の自意識の出し方なんか、面白くありませんこと?
A うーん、覚悟、がどうか。覚悟だとやはり一人称になりませんか? そうするといまひとつ。
平田栄一「南無アッバ」二十句
B 次も意味ありげな見開き。内容がというのではないですが。平田栄一さんのタイトルが「南無アッバ」、福田葉子さんが「パライゾ」。
A 短文がわりに短歌が十一首ならんでいます。短歌のタイトルでは「アバ様」になってますが、これはつまりabba?
B 父なる神でしょうね。平田さんはキリスト者なんですの。俳句より信仰が上位にあります。うまい下手、好き嫌いを言っても仕方ない部分がある。
A ヘブライ語なんですね。より親密な神への呼びかけですか。福田さんもキリスト教信者ですか? 平田さんは短歌の方が読みやすし。
誰彼のお陰で生きてビール飲む
一卵性母子を疎みてヨハネ祭
人死んで仕事は残るモニカ祭
と、やはり信仰が元になっている句のほうが取ってしまいます。
B わたしは、
ひとりと思う一人にあらずペトロ祭
と、A子様もあげた「人死んで」かな。感じるところはある。でも、これってまるっきりカトリックの公式言語そのものでしょう。
A まあ、そうでしょうね。でも、
子供らの喚声残る祭あと
という句の月並よりは少し俳句に傾いている、と。
B 同じくクリスチャンでも、「天為」同人の柚木紀子さんなんかは、表現者なんですね。もちろん信仰が上位なのでしょうが、表現にも強い執着がある。平田さんは表現することにはほぼ執着がないですね。
A 聖書の言葉、そのまま俳句にしました、というところでしょうね。それはその方の思いですから、そっと大事に。
福田葉子「パライゾ」二十句
B 福田葉子さんがクリスチャンかどうか知りませんが(たぶん違うのでは)、
初夏の色秘めパライゾの白揚羽
の「パライゾ」は、高柳重信文化圏の言葉ということだと思いますよ。
薔薇・魔術・學説・盟社曝書せり
の「薔薇」や「魔術」と同じでしょう。
A 思想ではなく、あくまで言葉ということですね。
殘夢果てなしミモザ明かりにあゝ父よ
朧夜の脱ぎしものみな柔らかく
天網に少しの湿り若葉とき
匙磨く人数分の夏が来て
と採りました。
B まったく同じです。ただ、強く推すというか、積極的な気持ちではないですが。ふつうに俳句になっているということで。
A まあ、そういうことで次へ。
藤田踏青「ドクダミ」二十句
B 藤田さんは自由律です。
まだらに染まった今日のネジが落ちていた
コスモスが揺れるだけ一両電車が止まる
まだ止まぬ雨が曲げてゆく時間
あたりが良いかと。
A 自分は、「コスモスが」ですね。自由律で口語、なんですね。
B というか、自由律なので口語、なのでしょうね。
A 焦点の合わなさを感じるのは自分だけ?
B 自由律の長律ってこういうものですよね。川柳と近いんですよ、実は。
A B子様は、「まだらに染まった」「まだ止まぬ」の句をどう読んだのです?
A 「今日のネジが落ちていた」というのは、まあ疲労感ですわね。句の前半の「まだらに染まった」というフレーズはなかなか魅力的だと思います。単に否定的なだけでなく、喜びもまたあるということでしょう。抑制された表現だと思います。ただ、一日の労働の疲れとか、人生の倦怠とかを、落ちていたネジで象徴させてしまうあたりのこのセンスの古さはいかんともしがたい。雨が時間を曲げるというのも、戦後詩のメタファーそのものですよね。「荒地」派の詩によく似たフレーズがあったような。ついでに「コスモスが」の句ですけど、〈夏草に汽缶車の車輪来て止る〉(山口誓子『黄旗』)と同巣の構図です。誓子の方が非情、藤田さんはセンチメンタル。
A センチメンタルが良いほうに出ると、決まる句柄なのでしょうね。そうでないものは説明になっているようで。
B ただ、
出口と入口騙しあっている結界
という句なんか、まさに「結界」を説明しているわけですが、説明としてウィットがあるわ。句として良いかどうかはまた別ですけど、気が利いてる。
A でも景ですね。川柳ではない。説明ながら確かに面白い。
B 結界というものについての、或る納得はあります。
藤原龍一郎「十字街」十首
B 藤原龍一郎さんです。タイトルの「十字街」は、久生十蘭の小説のタイトルにあるようですね。釧路や函館の地名にもあるらしい。
A 十字街、魅力的な響きですね。そういう街があるなら見てみたい。歌は、
末期の眼あらば見たきよアドバルーンいくつも浮かぶ昭和の空を
ルーレット必勝法を記したる黒き手帳の夢のさびしさ
B 「末期の眼」は、昭和のいつ頃なんでしょうね。昭和は長いから、いつごろかで全然風景が違ってくる。でも、そういえばアドバルーンって最近あまり見ないような気がします。
A こないだどこかの地方都市で見ましたよ。同行した年若い人たちが、「あれ何?」と聞いてきましたが。
B えー、A子様、嘘ついてらっしゃるわね。
A いやほんと。で、B子様はどちらの歌を?
B わたくしも「末期の眼」「ルーレット」は頂きますわ。他に、
白昼の街にはクボタ・ドラッグと荒俣宏らしき濃き影
高柳重信と釈迢空とならび古書肆の棚の煉獄
駅前にUNTITLEDの塑像ありて副流煙の甘き香りや
円谷が抜かれしその名ヒートリー刹那憎みてその後忘れき
決して丈高い詩情とは思いませんけど、この辺はずぶずぶと楽しいですの。
A ええ、楽しませていただきました。かっこいいんですよね、無頼の匂いもあり。挫折の表情もちらと覗かせて。
B まあ、共感度の高い固有名詞を使って人の弱いところを突くというやり方ですね。短歌はこういうのいくらでも出来るからうらやましい。
A 俳句でおやりになってるでしょ、B子様だって。隣の芝生を覗いても仕方ないです。
B 藤原さんはこれからもずーっとこの路線なのかしらね。今までもずーっとこれだったわけだけど。
A いつどう路線を乗り換えられるのか、興味ありますね。
B ええ?これがあの藤原龍一郎?みたいな大変身を遂げたところを見てみたいわ。徹底的な植物写生とか、これはまあ冗談ですけど。
A ああ、フェチ的な写生はいけるかも。細密画チックに。
堀本吟「ギンワールド 夢涯てや平城宮の京終に」二十句
⇒ルビ「涯/は」「平城宮/ならのみやこ」「京終/きょうばて」
B ハ行の最後は堀本吟さんです。
A B子様は如何に?
B 句より先に気になったことが。二十句全部、十三字で字数を揃えて、当然ながら天地揃えになってます。意図的なものですよね?
A そうでしょうね。
夕立や蕗の葉掲げ三毛と走る
掌のどこもトゲなり草田男忌
爺ちゃんの恋婆ちゃんの新走
あたりでどうでしょう。
B 「夕立や」がわたくしも好き。この句もそうですが、吟さんの句は自句自解してもらうと面白そうなのよ。
ねねさまと藤吉郎はよき夫婦
なんてどういうつもりで作ったのか、知りたくてたまりません。
A 細やかな滝の泡にぞ母棲める
これもママは居る、ですね。この対談の第一回に登場した岡村知昭さんの〈ヒヤシンス大陸棚にママはいる〉を思い出しました。シュワシュワの泡を持ってきたところは新しい。
B ところで、「掌のどこもトゲなり」って凄いこと言ってますが、これが草田男だという認識を述べたものと素直に受け取ってよいでしょうか?
A そう、素直に草田男の表現でしょう。まあ、近いのでは。でも、サボテン男みたいでおかしい。
B 草田男サボテン男説! 掌にトゲが刺さったのではなくて、掌からトゲが生えてるのね。ますます怖いわ、夢に出てきそう。じゃあ、マ行以下はまた来週。
(※1)http://weekly-haiku.blogspot.com/2008/11/10.html
(※2)http://www009.upp.so-et.ne.jp/tajima/uni/uni_introduction.htm
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A子とB子の匿名合評対談「―俳句空間―豈」第47号読み倒し 〔二〕 カ行~サ行の作者 →読む城戸朱理氏の永田耕衣論 ・・・関悦史 →読む
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★ 御批評ありがとうございました。巷間に、匿名批評は云々という意見があったので、すこし気になっていました。私は、名乗りを上げて向き合うタイプなので、A子、B子はだれなんだろうと、気が散りましたが、でも。いろいろやりかたがあっていいとおもいます。(私などは筆名だから、すでに匿名なのです。
返信削除「首都はいま匿名希望の火事ー江里昭彦」
っていうのがありましたけど、わが「俳句空間—豈—weekly」の匿名さんは、火事を起こすほどの読み方ではないですね。でも回を重ねるに連れて、「豈」人の句の読み方に成熟されてきているような、今回のしんがりにとりあげられて貰った者としてはうれしいです。ていねいに読んでもらっているし。
70人全員を読み好い句でも何かいってくださる、というのは、ここでは前提だとおもいます。大変な作業ですが、是非つづけて欲しい、こういう機会あまりなかったでしょう?作る方も励まされるし、読む方も鍛えられます。)
★ 自句説明は、気が向いたらそのうちに。私のは緩やかなストーリーをもつ「劇的風景」をねらっていますけど、これもはじめてみると、自己撞着がおくてむずかしいです、
夕立や蕗の葉掲げ三毛と走る
掌のどこもトゲなり草田男忌
爺ちゃんの恋婆ちゃんの新走
ねねさまと藤吉郎はよき夫婦
細やかな滝の泡にぞ母棲める
これら・・うん、自分で読んでもおもしろいね。どういうつもりだったんだろう(笑)
コンセプトが、あまりはっきりしているのも好きじゃないんです。俳句ではどうしても一句抜かれて、批評されますしね。しかもそれがそれとして引き立つためには、そうとう工夫がいりますしね。
ともかく、なんだか評者のお顔がみたくなりましたね。
合評ありがとうございます。
返信削除拙句について、「俳句より信仰」とは、まさに図星かもしれません。
痛いような、それでいいような、複雑な気分です。
今後とも、このサイトを楽しみにしています。
よろしくお願いします。