・・・関悦史
産科医から精神科医に転じた経歴を持つ春日武彦の文芸評論集『無意味なものと不気味なもの』を以前読んでいたら、日本の作家で一番好きなのが、『田紳有楽』などの堅牢にして幻怪至極な私小説で知られる藤枝静男(!)だというのだが、その特徴を語ったくだりが秀逸で、同じく医師が本業であった藤枝静男の文体は、「医者の業界誌の随筆や紀行文に似て親近感」が持てるというのだ。
「手早く言うなら、地方の開業医にありがちな人柄を反映した文章であり、断定癖とか妙な凝り性加減とか郷土史家に似た側面とか田舎紳士然とした自尊心および自己嫌悪といったものであろうか。俗物さ加減とストイックさとが入り混じった文章と言ってもよいかもしれない。」
俳句の世界でこれに近い存在なのが内科の開業医であった岡井省二で、やはりその句業において類のない魁偉な硬度と高みを達成している。藤枝静男と同じく、一般の認知度は不当に思われるほど低い。
『大日』(本阿弥書店 2000年)がたまたま手に入った。
1999年後半から2000年にかけて書き下ろされた第11句集で、著者あとがきによると、第9句集『鯨と犀』、第10句集『鯛の鯛』とあわせて、「華厳・密教三部作」と位置づけられており、「諸行無常とする日本文学の閉塞的な負の流れを、私は俳句において大日の開放系思想の場へと転換させた」と揚言されている。
岡井省二は2001年に亡くなっているので、これが最後の句集となるらしい。
体のままの命(みこと)が食(を)して茸(くさびら)よ
「食(を)す」は「飲む」「食う」の尊敬語で岡井省二の句によくあらわれる。個人としての自分に敬語を使っているわけではなくて、自分の身を神格化された生命連続体のたまたま生じた一局所と捉えているわけである。
変種の数が厖大な上にどこまでが個体なのやらよくわからぬ、生成変化そのもののような「茸」がこれに和す。
ぐるりもみづり火を焚ける神咒(かんのう)寺
「もみづる」は「紅葉する」の意。
「神咒(かんのう)寺」の固有名が利いて、自然現象が思念と癒合する。
牡丹鍋すでにして橋がかりなり
強いてリアリズム的に読めば、牡丹鍋をつつきつつ、能が終局に入り鎮められた怨霊が他界へ還りゆくさまをテレビか何かで見ているとも取れるが、それでは句の位が下がりすぎる。
荒らぶる力の権化のようであった猪がすでに解体されて、食う・食われるという祝祭的関係を立ち上がらせ、「牡丹」という花の位をまとって語り手の身へと消えていく。その消滅をともなう宇宙への「開(ひら)け」が「橋がかり」なのであろう。
「祝祭的」はバフチン風にカーニバル的といっても良い。カーニバル的身体とは何よりもまず、口をはじめとする開口部・開口性によって特徴づけられるからである。
〓(あら)や〓(あら)シヴァとヴイシュヌが沖に立ち
「魚」偏に「荒」のアラが出ないもので何とも情けない表記になったが、岡井省二といえば大魚であり、省二の大魚といえば、「一即一切・一切即一」、つまり一つのもののうちに全てのものがあり、同時にまた全てのものが一つのうちにあるという、個と全体がフラクタル的にひろがり嵌入しあう宇宙観への通路をひらくナビゲーターである。
まちがいなく個別の生命体でありながら、個体識別がほとんど意味をなさず、つねに水の中に濡れあって存在するという性的・身体的融和のうちにあるものとして魚が捉えられており、その中で巨大さ等において一定の霊位に達したものが、ナビゲーターの資格を与えられるわけである。
数ある仏のなかでも岡井省二が偏愛する大日如来がそもそも、生身を以て既に滅びた歴史的実在としての釈迦から、その霊性を永遠性の中に抽出するという形で成立した仏格ではなかったか。
ところで、この句で呼び出された神格はヒンドゥー教の最高神3柱のうち、創造神ブラフマンを除いた2柱、すなわち破壊神シヴァと維持神ヴィシュヌである。個がそのまま宇宙へと開ける動きを「破壊」に託し、全肯定の心意を「維持」に託すという隠喩的なはたらきを果たすために呼び出されたものだろう。
黄道に出入りしをる黒鳥よ
黄道は天球上における太陽の通り道のことで、実際に目に見えるものではない。法のごとくに在りつづけながら目には見えない天行と遊ぶのに、黒鳥はまことに似つかわしい。黒い白鳥といえば、発見されるまでは実在しえぬものの代名詞であった。
一湾を孔雀としたり春の潮
春の潮の流れ込んでくる湾を極彩色と観じた、というだけでも一応の鑑賞は成り立つが、作者に岡井省二の名がつくと、孔雀明王を連想してみたくもなる。
孔雀は害虫や毒蛇をついばむ、そのことから孔雀明王は「人々の災厄や苦痛を取り除く功徳」があるとされ信仰の対象となったという。
渦潮をこそ空海としてゐたり
巨大なエネルギーの生成としての渦潮、その渦の形状の宇宙性から空海へと連想が飛ぶ。
空海は治水事業にも辣腕をふるった、流体力学の大家でもあったと何かで読んだ記憶もある。渦潮から空海への直観は、言われてしまえば動かしがたい内的必然性があるのではないか。
かまぼこのちりめん皺も天の川
特権的な存在であったはずの魚が、すり身にされてかまぼこになってしまった。それでも整形時についたわずかな凹凸によって宇宙との照応は続くのである。
ニーチェの『善悪の彼岸』に「怪物と戦う者は自分が怪物となってしまわないよう注意しなければいけない。深遠を覗き込むとき、深遠もまた君を覗き込む」という言葉がある。
句集を通読してみて、岡井省二の場合は華厳・密教的宇宙観を句に現成させようと努めつづけることが、自身をそうした宇宙観の中に定位することとイコールになっていると思われた。
誇大妄想に近い営みとも見えかねないが、言語芸術において遺されるのはテクストのみ。「怪物」化することも俳句という形式の中に本質的に潜在する妙境のひとつというべきか。
入手しがたいものでもあり、以下目にとまった句をやや多めに引く。
大日や吾のそびらに夏鯨
牛の糞が乾びてつづく道の秋
ひろしやびふひろしやびふ秋鯖の海
註 ひろしやびふは理趣経の真言
住吉に綿菓子食(を)すや鳥渡る
蛸壺のそれぞれに星流れたり
月光のくまなく鯤(こん)の鰭の上
註 鯤は想像上の大魚
頭蓋骨を上から見たら鮃かな
ニス塗つてニス塗つてかつ黄沙かな
空腹は磯巾着の天地(あめつち)ぞ
密院の硯の海の夏鯨
夏潮や窟(いはや)の中に昼の影
蛇がまぐはひ真空に虹また虹
宇宙権現大章魚(たこ)が逼ひずるよ
舌出しおどけるアインシュタイン虹の蛇
天地(あめつち)掃くとき玉砂利に蛇生まれ
蹴鞠(けまり)して神らあそぶやクンビーラ
註 クンビーラは鰐、金毘羅
寺町に絣(かすり)買ひたる天の川
太陽の中に白象秋の潮
眉間にて呼吸(いき)してゐたり月夜茸
音無くてくろきくれなゐ鹿の肉
吾と海鼠とくれなゐの闇なりき
このわたの闇なり天御中主(あめのみなかぬし)
月光のうごいてゐたる海鼠かな
白鳥の生毛(うぶげ)を栞(しを)り大日経
大日や年の天狼(シリウス)海の上
岡井省二…1925年三重県生まれ。内科医。加藤楸邨・森澄雄に師事、「寒雷」「杉」同人。1971年第1回杉賞受賞。1991年「槐」主宰。2001年9月23日没。
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関さまの句の鑑賞は、詩的ですね。
返信削除(句のほうはあんまりわからないのですけれど←すみません)論評は読みやすくてするする入ってきます。
これからも書いてくださいませねo(^-^)o!
このコメントは投稿者によって削除されました。
返信削除また、ちょっと間違えたので削除し訂正しました、
返信削除「曼荼羅俳句」を唱えた故岡井省二氏が、関さんの関心のなかにでてくるとは!
氏の晩年、とても親しくお世話になりました。 なつかしいかたです。
禅から密教思想に傾き、汎生命主義とも言うべき全肯定の世界観に達した人ですよね、 『大日』は最後の句集です。
私は、奈良で「短詩形文学をかたる会」というのをやっていまして、そこにたびたび来てくださいました。
この方が亡くなられて、「遺言」によって追悼のために,槐同人の前で、『岡井省二の世界」というミニシンポジウムをしたことがあります。
省二と短歌(長岡千尋ー誌面参加)
省二と連句(小池正博ー歌仙「山鳥」の巻)
省二と俳句(島 一木ー『山色』)
省二と川柳(樋口由紀子)
省二と宇宙観(高橋将夫新主宰ー後期の省二) 司会(堀本吟)
晩年は、永田耕衣。安井浩司に通う救済と祝祭をもとめる俳句観だったようです。この宗教性は一種の仮象だとおもうのですが、表現論としては、なんでしょうね、一体。ともかく魅力ある俳人でした。
もっと読んであげてください。
>野村麻実さま
返信削除ありがとうございます。なるべく頑張ります(今週はちょっと無理でしたが)。
句の方もよろしく。
詩的というと“空疎な美文”を連想する人などもいるのかもしれないのですが、自然科学の方でも意想外な創見・発見に出くわしたときの感興は十二分に「詩的」なものだと思うので、なるべくそちらの方向へ行きたいですね。
>吟さま
岡井省二については私も知るのが遅くて、本人の没後、某所の勉強会に出入りするようになってから「槐」会員だった弟子の方を通じてようやくだったのですよね。
安井浩司などに比べると一句一句本人の言いたいことが極めてはっきりしていて、ただしその表現を標語に終わらせないためにハードな隠喩の結晶みたいな句となっているので感受が難しい人には難しいといった印象ですね。
自分のブログの方にも『大日』の補遺のような記事を上げました。