2009年1月5日月曜日

あとがき(第21号)

あとがき(第21号)



■高山れおな

高山は喪中の為、新年の賀詞をのべることは遠慮いたしますが、本年も当ブログをどうぞ宜しくお願いいたします。昨年は喪中欠礼葉書というものを初めて出させて頂きまして、当然ながら年賀状はほとんど参りません。しかし、欠礼葉書を差し上げていない方から幾らかは頂戴しますし、欠礼葉書を差し上げたにもかかわらずお送り下さる方もあります(私もよくやる失敗です)。そんなわけで数は少ないですが、素敵な年賀の句を二つばかりご紹介いたします。

牛連れて桃の邑まで歸るといふ  間村俊一  ⇒「邑」に「むら」とルビ
生酔ひの件に問ひたきこと一寸  前島篤志

間村さんはグラフィックデザインがご本職ですが、俳句も玄人はだしにて、すこぶる雅趣に富んだ句をお作りになります。『鶴の鬱』(二〇〇七年 角川書店)という面白い句集があります。その中の「時雨集」の章は、〈わが裝訂になる本の數々に拙句奉る〉のがコンセプトで、著者や著作に対する洒落た批評になっている趣。

  『谷崎潤一郎と異國の言語』野崎歓
春深し卍に開く人の妻
  『新編中原中也全集』
坊やその月夜の帽子とつてくれ
  『本の音』堀江敏幸、河馬亭主人の號あれば
春分の繪葉書ヒポポタマスも萌え

といった調子です。俳書もございます。

  『不覺』中原道夫
色鳥やたましひ既に裝飾過多
  『實』加藤郁乎
都鳥一本附けてくんなまし

ずっと句集を拝見して唸っておりましたが、昨年の暮近く、「澤」の小澤實さんにお引き合わせいただく機会があったのは幸いでした(小澤さんとも初対面だったのですが)。

二句目の作者・前島さんは、伝説の秘密俳句結社「俳句魂」の創設者のひとり。その昔、『燿―「俳句空間」新鋭作家集Ⅱ』(一九九三年 弘栄堂書店)という十六人各百句からなるアンソロジーが編まれたことがありまして、前島さんと高山とはいずれもその時の出詠者でした(メンバーには五島高資さんもいました)。その時の十六人の中では個人的には前島さんと正岡豊さんの作品がいちばんフィットしたのですが、二人とも俳句を熱心に続けるというふうにはならなかったのは残念です。

府中の猫はこれは嘘だが全て片目
電話する怪獣ガラス割りにけり
覚えなき想像妊娠双子ですね
火事を背に家庭の影が長くなる
銀の活字五十銭今日は「な」を下さい
西表山猫ストも辞さぬ構え
のねずみよアスパラガスを担え銃!
私の感情は電光掲示を流れてゆく

これが『燿』に載る前島さんの俳句。うーん、やっぱり面白いな。最新作(?)である〈生酔ひの件に問ひたきこと一寸〉も、干支の丑をひとひねりして半人半牛の妖怪・件(くだん)を持ち出したあたり巧みです。「○○○の会」へのあてこすり、ということではまさかないのでしょうが。「俳句魂」の活動も盛大に復活して欲しいものです。

       *      *      *

高山檀(まゆみ)さんから句集『雲の峰』(二〇〇八年十二月十日刊 本阿弥書店)を頂戴しました。檀さんはじつは、筆者の隣のマンションに住んでおられます。正確には、拙宅と細い道を隔てて駐車場があり、さらに一戸建て一軒を置いた向こう側ですが、とにかくマンションとしては隣同士。それで当方が現在地へ越してきて程も無い頃ですから四、五年前でしょうか、筆者宛のどなたかの句集を郵便局が檀さんのところへ誤配したことがありました。住所が何々の何丁目というところまで一緒の上に苗字までおなじ高山ですからミスの原因ははっきりしていますが、そんな近所に田中や佐藤ほどの数がいるわけでもない同姓の俳人が二人まで住まっているのはやはり奇縁と申すべきでしょう。その本は檀さんが拙宅へ届けてくださいました。顔を合わせたのはその時きりながら、筆者が第二句集を出した時には歩いて行ってポストに入れて進呈しましたし、今回は逆にポストにお入れ頂いたわけです。

初点前釜の双耳に干支の龍
祭笛メリヤス工場の機止まず
婉曲に断りを入れ火の恋し
段取りを話す職長股火鉢
青芝のはや傷みたる三遊間
噴水にみな背を向けて彼を待つ
我のほかみなそよぐもの大花野
色のなき風吹き抜ける埴輪の目
かざしては胸に当てては毛糸編む
春時雨苔ふつくらと立ち上がる
脱ぐために着る真打の夏羽織
生業は隙間産業夜業かな

高山檀さんは俳誌「春月」の同人で、『雲の峰』は一九九七年から二〇〇七年までの作を収めた第一句集。「春月」主宰の戸恒東人氏の序文によると、檀さんは草月流生け花の師範で、四つの教室で指導をしている程の腕前だそうです。初心の頃からすでに堂々として安定した詠み口を見ると、芭蕉の〈多年俳諧に好(すき)たる人より、外(ほかの)藝に達したる人、はやく俳諧に入る〉(『三冊子』)という言葉を思い出さないわけにはいきません。

掲出した十二句のうちでは七句目や八句目に主情性がやや強く出ている他は、おおむね客観的な描写・叙述に徹しています。これは句集全体についても同様です。高柳重信流に計量カップ式の俳句であると批判することも可能でしょうが、思わせぶりな曖昧な表現をとらず、言うべきことをスマートに言い切る句姿にはすがすがしさを覚えます。戸恒氏は序文で、〈生まれ育った下町やその人情、現在九十八歳のご尊父の経営したメリヤス製造工場や職人たちを詠い上げたものに佳句が多い〉と述べておられますが同感です。ここでは、二句目、四句目、十一句目、十二句目がそれで、三句目も父君のお仕事がらみの遣り取りを父君になりかわって詠んだものかも知れません。

特に二句目、〈祭笛メリヤス工場の機止まず〉は、檀さんの娘時代の回想の風景でしょうか。「祭笛」が聞こえて人々がうかれ歩く中で操業を続けなくてはならないのは気の毒なようですが、それだけ注文が殺到しているということでもある。現在のような世相にひき比べて、むしろ羨むべき光景です。中七の字余り(コウバなら一音、コウジョウなら二音)が、効果的に情感を盛り上げ、働く人たちの活気と誇りを伝えています。日米繊維交渉が妥結するのは昭和四十六年ですが、それに遡る高度成長期の工場街の空気を彷彿させます。心に残る句です。



■中村安伸

新年あけましておめでとうございます。本年もご愛顧くださいますようお願いいたします。

今号は記事二編と、第一号以来の少数精鋭ラインアップとなりました。年も改まり、新しいスタートを切るというつもりでお届けいたします。前号にひきつづいての遅刊につきましてもお詫びいたします。

なお、私事ですが昨年末に退職いたしました。新しいスタートを切ることができるよう研鑽する所存です。


0 件のコメント: