2010年6月13日日曜日

閑中俳句日記(37) 佐藤榮一『猿笛』

閑中俳句日記(37)
佐藤榮市句集『猿笛』


                       ・・・関 悦史

佐藤榮市句集『猿笛』は『チキンスープ』に続く第2句集で2003年、北宋社刊。著者は私と同じ「豈」所属だが、句集に生年は載っていないので年上の方らしいということくらいしかわからない。

この句集ずいぶん前に小山森生さんから頂いて、いずれどこかで紹介しておきたいとは思っていたのだが、今に至るまで果たせないままになっていた。

難解俳句と呼ばれる部類には属するのだろうが、一句一句の解釈を探究するだとか、その難解さのよってきたるところを解明するとかいったことをする気をあまり起こさせないというか、ナンセンスギャグマンガの傑作といったものを連想させる破天荒な作風なので、その読解を試みるとなると、理に落ちないところに旨味があるにも関わらずわざわざ理に落としてしまうといったことにもなりかねない。

ナンセンスを成り立たせる仕掛け自体はさほど複雑ではない場合が多いのだが、その結果出来上がる作品は、「深み」などといった文学主義的な価値には背を向けているにもかかわらず、奇妙に次元の壁を越えたような膨らみを持ってしまうのだ。なまじ解釈など試みるよりは単にその醤油味のダダイズム的飄逸を楽しみたいという句集で、もしあえて評釈するとするならば、その評釈によって更にわけのわからなさが拡大するといった接し方が相応しいのではないかとすら思う。

何せ開巻劈頭の句がこれなのだ。

しゃぶしゃぶも神の手振りも日本橋

湯の中にしゃぶしゃぶの肉を泳がす手つきと、神主が幣を左右左に振る所作がモンタージュされているらしいととりあえずは読める。

「日本橋」は五街道の基点として江戸期から賑わってきた土地柄だが、その音が「二本箸」をも連想させる。つまり一膳飯に突き立てる「一本箸」とは違って、あの世のことなどではなく、たとえ「神」が出てくるにしてもあくまで世俗の賑わいが句の中心にある。

「日本橋」が江戸情緒を立ち上がらせるが、牛肉が一般に食されるようになったのは文明開化以後の話。つまりこの句は江戸と近代日本、現世と神仙界の間の領域(それがつまりは「橋」である)を切り開き、彼岸にも此岸にも着地することなく「手振り」という動作の浮遊性でもって「しゃぶしゃぶ」「神」「日本橋」を一句にコラージュして、目出度さを漂わせた出発点を描き出しているわけである。句集の冒頭に据えるにはまことに相応しい。

次は「馬九唱」なる9句連作の中から。更に何というかあっけらかんとした出鱈目の度合いが増してくる。

お馬科に睫毛科ありぬキンポウゲ
ごむたいな馬体のそばの瓜ふたつ
おおまかに馬と答えて眠る馬

《ごむたいな馬体のそばの瓜ふたつ》でも「むたい」と「馬体」の駄洒落じみた音韻の横滑りから広がる領域を「瓜ふたつ」が多層的に一句に繋ぎとめている。つまり、実際に馬のそばに瓜が二個あるというイメージ、瓜同士の相似、さらには馬体と「ごむたい」との間に強引に掛け渡された相似が馬の体に潜む、暴れ出したら人の手では押さえがたい暴力的ご無体性を引き出しつつ「ゴム体」「無体」のホログラフィじみた実体なき可変性へまで、読み手を同時に引きずり込む。それでいて句自体の風合いは別の次元にまたがった立体的な壮大さといった雰囲気など微塵もなく、あるのは背景の省略されたマンガのように平板な表層のみ。要するに作品が作者と一旦切り離されていて、句が作者の世界観や思い入れの図解たることを免れている。この切断によって却って射程を伸ばす作法を知性と呼んでもよい。

《お馬科に睫毛科ありぬキンポウゲ》の「科」は、生物学の分類の「科」なのか、それとも医院の受診科目のことなのか。いずれにせよこの妙な造語が馬の睫に独自の生気を与えつつクローズアップし得ている。「睫」がウマとは別の独自の生物として一科を成しているとすれば少々不気味だが、そうした違和は違和として抱えながらも愛らしさへと収束させているのが「キンポウゲ」で、このキンポウゲも意外に動かない。

《おおまかに馬と答えて眠る馬》。いろいろ違和はあるにせよ「おおまか」には馬なのだとの肯定が示されているが、この肯定が果たして大らかなのか無関心なのかは微妙なところだ。「馬と答えて」いる時点でお前、馬ではないだろう、何で口がきけるのだとの反問も思い浮かばないではないが、それら諸々をそのままに、眠られてしまえばさしあたりはこちらも現状を容認せざるを得ない。

この強引に押し切ってナンセンスなあり得ない光景を実体化させてしまう方法は、例えば以下の句にも見られる。

気球が見えてきた大塚さんである
赤味噌はティンパニーの上白味噌も
それにしてもそれは終わりのない袴
前向きに繁れるほかは箱である

《気球が見えてきた大塚さんである》は、気球が見えてきたことが「大塚さん」の指標になるのであれば、この大塚家にはつねに気球が浮かんでいると推定せざるを得ないし、《赤味噌はティンパニーの上白味噌も》では、ティンパニーの上に乗った赤味噌という唐突な光景の成因が一切説明されないままなのだが、その上更にそれを既成事実として「白味噌も」という別方向からの畳みかけが加わると、これはもう理由はわからないがとにかくそういう状態になっているのだ、それが事実なのだから仕方がないという思いへと誘われる。

重要なのは「気球」にせよ「赤味噌・白味噌」にせよ、あるいは3句目、4句目に現れる終わらない「袴」や、得体の知れぬ繁茂を見せる「箱」にせよ、象徴や暗喩としての機能をまるっきり持っていないことである。そうした意味性を求めると途端に「難解」という不幸なすれ違いが発生してしまうので、だから「単に楽しんでいたい」などと書きつけたくもなってしまうのだが、これら突如不穏な際立ちを見せはじめる物たちの存在は、奇妙に捩れた世界律を暗示しつつも、ある種の現代美術に通じる解放感をまぎれもなく発散している。

バカバカしさの相のもとに明るみに出される、存在するということ自体の奇跡感。

むき出しのままではあるいは危険に過ぎるかもしれないその奇跡感を、限られた素材と手法のもとに魅力ある再構成物とすることがアートなのだとすれば、これらの句もその一つといってよい。これらが大上段に構えた「芸術」の雰囲気を全くまつわらせていないのは美点である。

ピンボケの写真が蝶を飼っている
異国風な亀だが階段のある春だ
とりあえずどうでもいいや鰯雲

これら3句は先人の句を踏まえていると思しきもの。

1句目は阿部青鞋の《ピン呆けの蝶の写真を見て叫ぶ》、2句目は海生生物と階段の有無という要素から橋閒石の《階段が無くて海鼠の日暮かな》、3句目は「鰯雲」に心中思惟を直接合わせた手法から加藤楸邨の《鰯雲人に告ぐべきことならず》がすぐに連想される。

青鞋句の「写真」と「叫ぶ」語り手とを引き裂く次元の亀裂は、佐藤榮市においては二次元であるはずの写真の妙な膨れあがりのうちへと宥和され、移行の手段たる「階段」を欠いた閒石の「海鼠」は、「異国風」ではあっても「階段」を得た「亀」へと、更に楸邨の「人に告ぐべきことならず」の険しい断念は「とりあえずどうでもいいや」のノンシャランへと変貌させられる。これは包容性とか、思想的な大肯定とかとは少々趣きが異なる。そうした磐石の立場からずれ出た狭間にのみ生成する、面倒といえば面倒、虚無的といえば虚無的なのかもしれない自由こそがこれらの句を成立させているのだ。

鳥は火を火は夜のレールを秘めて雪

そうした多次元性を包括した一句として、この句の美しさは広く理解が得られるのではないか。

……といった堅苦しい語り口にはあまりしたくはなかったからこの句集は何となく取り上げにくかったので、それよりはむしろ《ターンして山霧カットで参集す》の「山霧カット」は歯の隙間を磨きやすくするために毛足がジグザグにカットされた昭和55年発売の歯ブラシ「ビトイーンライオン」の「山切りカット」を踏まえているだとか、《蛸だけど傘にかかっているけれど》の「嵩に懸かった」ならぬ「傘にかかった」蛸の、地上でも平気で活動でき、変な所にいて人にまつわりつきそうなイメージから、私はどうしても、ウルトラマンレオに登場した円盤生物の中にそんな形状のものがいたはずだがと思い出してついつい調べ始めてしまい、それがどうも「円盤生物ノーバ」なるやつであったらしいとわかったといった、むしろどうでもよさそうなことどもを膨らませて書き付けたかったという気がしないでもないのだが。

なにげないヒップの煙柿実る
ぬいぐるみなげあっている老夫婦
亜鈴とは雲のまにまにを叫びけり
津軽いま待合室はしあわせか
代々の箱にスリッパ置いてきた
絹豆腐まもなく甲府でございます
孔雀感ありてあやふやな大会
折鶴の折りまちがえてまた帰宅
人形の顔燃えにけり駅はすぐ
手に裂けて花王まばゆき一会かな
瀬戸内にちわわちわわと父の列
紐で顔のかたちつくれば明るみぬ
若さとは触れることなりハトサブレ
かもじ付けロンドンパリは波の音
さよならの背鰭光れり全京都
あやとりや自動改札のある廃墟
パリコレや美白美糞のイカ同文
水に沈む美貌である パンを食う
解凍の遅い娘笑いぬてぇへんだ
実印どこにアルハンブラ宮殿雨しきり
富士ですか廃娼ですか蝶陛下
手術台の上の散歩道のように囀り
満天星や疲れてカツレツどつく奴
ネクタイやふと蟹感の積み下がる
遠花火ずっと担架が好きでした
濁流に呼びかけられている日傘
花野かな毎度ありぃが逃走中
墜落のなかの墜落秋のコンロン!
白萩やせせせさささと頓挫して
白菊の塵はらいする夜は島
にんじんか兎かわからないが朝日さす
大根を干しております式次第
鶴の首切れ目もなくて歩みます


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