2010年1月9日土曜日

新撰21竟宴 配布資料抜粋

-Ani weekly archives 010.10.01.10.-
新撰21竟宴 パネルディスカッション配布資料

以下は、「セレクション俳人プラス 新撰21 刊行記念シンポジウム&パーティー 新撰21竟宴」の会場で配布されたパンフレットの記載事項のうち、シンポジウム第二部のパネルディスカッションに関連する部分を抜粋したものである(プログラム、パネラー略歴+自選五句、発言資料)。パネルディスカッションにおける実際の発言は、「Ani weekly archives 009.10.01.10 新撰21竟宴 パネルディスカッション『今、俳人は何を書こうとしているのか』記録」として別に掲出した。(高山記)


① 司会あいさつ


② パネラー紹介

相子智恵(あいこ・ちえ)
1976年、長野県飯田市生まれ。1995年、大学2年生のときに小澤實の俳句実作講座を受講したのをきっかけに俳句をはじめる。2000年、「澤」創刊時に入会。2003年、澤新人賞受賞。2005年、澤特別作品賞(選考 小林恭二・高橋睦郎・小澤實)受賞。2009年、角川俳句賞受賞。現在「澤」同人、俳人協会会員。


【自選5句】


一滴の我一瀑を落ちにけり
北斎漫画ぽろぽろ人のこぼるる秋
蔦のひげ吸盤あまた家吸ひぬ
にはとりのまぶた下よりとぢて冬
阿修羅三面互ひ見えずよ寒の内




関悦史(せき・えつし)
1969年茨城県土浦市生。
2002年「マクデブルクの館」で第一回芝不器男俳句新人賞城戸朱理奨励賞。
2008年「全体と全体以外―安井浩司的膠着について―」で現代俳句評論賞佳作。
2009年「天使としての空間―田中裕明的媒介性について―」で俳句界評論賞。「他界のない供犠―三橋鷹女的迷宮について」で再び現代俳句評論賞佳作。同年より「豈」同人。


【自選5句】


蝋製のパスタ立ち昇りフォーク宙に凍つ
祖母がベッドに這ひ上がらんともがき深夜
独楽澄むや《現実界
(レエル)のほかに俳句なし
人類に空爆のある雑煮かな
グローバリズムなるゴーレムも春の土


佐藤文香(さとう・あやか)
1985年神戸市生まれ。「ハイクマシーン」「里」所属。
松山東高時代、神野紗希らと出場した第四回俳句甲子園で優勝。翌年、山口優夢を予選で打ちのめし個人最優秀賞。早稲田大学1年のとき、谷雄介と「ワセハイ」創刊(1号で打ち止め)。第二回芝不器男俳句新人賞対馬康子審査員奨励賞。句集『海藻標本』(ふらんす堂)が第十回雪梁舎俳句まつり宗左近俳句大賞。現在愛媛県松山市にて松西ハイカーズ(松山西中等教育学校国際文化文芸部)とともに俳句活動。


【自選5句】


手紙即愛の時代の燕かな
また嘘を君が笑って蛾が傷む
雲流す仕掛に蝶が来ているよ
夜の地平ビニルハウスが白く灯る
知らない町の吹雪のなかは知っている


山口優夢(やまぐち・ゆうむ)
昭和60年、東京生まれ。開成高校在学時に句作開始。きっかけは俳句甲子園。1年生の時、神野紗希の松山東高に敗れ、翌年は佐藤文香率いる同じ高校に敗れ、3度目の出場で団体優勝、個人最優秀賞受賞。その後、第2回龍谷大学青春俳句大賞大学生部門最優秀賞、第4回鬼貫青春俳句大賞優秀賞を受賞。大学時代は東大学生俳句会に所属、THC等の超結社句会にも参加。去年12月、結社「銀化」入会。今年7月からwebマガジン「週刊俳句」編集手伝い。現在、東京大学大学院修士課程2年。好きな惑星は火星。


【自選5句】


月冴えて顔のさいはてには耳が
心臓はひかりを知らず雪解川
あぢさゐはすべて残像ではないか
眼球のごとく濡れたる花氷
これ全部釈迦の鼻糞途方に暮れ



③今、俳人は何を書こうとしているのか
   ゼロ年代俳人が考えていること

(その1)形式の問題
外山一機「消費時代の詩―佐藤文香論」(「俳句空間―豈」49号)をめぐって

【参考資料1―1】 外山当該論考より
今日の「新人」たちは、かつての「新人」のようには俳句形式を信用していない。かつてのように俳句形式で「自己」表現ができるとか、なにか「新しい」ことができるなどといまだに本気で考えているとしたら、それはむしろ狂気である。
  (中略)
端的にいえば、彼ら(長谷川櫂・林桂ら昭和五十年代前後に登場した新人たち……引用者)は、俳句形式という崩壊しつつある神話を「それでも(原文傍点)」「私」の表現の形式として信じようとしたのだった。
彼らが俳句形式を「それでも
(原文傍点)」信用したことで、俳句表現が豊かになったのはたしかである。だが僕らは以前とは異なる季節を迎えつつあるようだ。(僕を含めて)近年の「新人」たちが俳句形式を選択する行為は、俳句形式への信頼というよりも、むしろ俳句形式へのフェティシズムに近い。僕らは俳句表現史を遡行しつつ、かつての俳句表現を切り刻み、貼り付け、組み立て、消費する。その軽やかな犯行には、素朴な進歩史観でとらえられるような意味での「未来」などない。僕らはただ、過去/現在/未来が互いを犯しあう祭典に興じるまでだ。

【参考資料1―2】 外山近作「は、往く」8句より
馬酔木咲く金堂の扉(と)にわが触れぬ(水原秋桜子)

葦火幸く
坤道の徒
俄か
狂れぬ
⇒総ルビ あしび/さ/こんどう/と/にわ/ふ

人体冷えて東北白い花盛り(金子兜太)

寝台
冷えて
童僕
白い洟さがり
⇒総ルビ しんだい/ひ/どうぼく/しろ/はな

【参考資料1―3】 椹木野衣「シミュラクルの戦略」より
恐れることはない。とにかく「盗め」。世界はそれを手当り次第にサンプリングし、ずたずたにカットアップし、飽くことなくリミックスするために転がっている素材のようなものだ。シミュラクルの問題を単なるノスタルジーの問題としてではなく、新たな前衛を構成するための武器として変形すること、あるいはシミュラクルのデジャヴュをある種のユートピアへとむけて唯物論的に提示すること―それをここに示してみせよう。
◆ 椹木野衣『シミュレーショニズム ハウス・ミュージックと盗用芸術』
(1991年 洋泉社/引用は1994年の河出文庫版より)


(その2)自然の問題
相子智恵「のり弁、ふたたび。」(「俳句空間―豈」49号)/髙柳克弘「受け継がれゆく雪月花」(「俳句」2009年11月号)等をめぐって


【参考資料2―1】 相子当該論考より
「豈」四七号「青年の主張」特集での拙稿「リアルということ」の中で、私は「雨の県道あるいてゆけばなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁 斉藤斎藤」という短歌を引き「(このような現代のリアルを)無季俳句ならば詠めるだろうか。(有季)俳句で現代のリアルを詠むとはなにか、そしてそもそも私は俳句にそれを求めているのか」と書いた(中略)じつは私自身はこう書いたそばから「季語を捨ててまで現代のリアルだけを書くのなら、私は俳句を書かない」という、個人的な直感もしくは本能としか呼びようのない答えが湧き上がってしまったのだが、その思いに論理的な道筋はつけられず、書き加えることができなかった。
  (中略)
冒頭の拙稿はこれら(吉本隆明の二、三十代詩人をめぐる発言/穂村弘の悪夢的リアル論/片山由美子の実感より歳時記優先説……引用者)を総合して言えば、現代の悪夢的なリアルの側から季語を追って実感主義で捉えようとした結果、破綻した例となる。もはや(中略)「紛物」や「疑似」こそが現実となった〈悪夢的なリアル〉がいまの私の現実なのであり、片山氏の述べる、季節らしさを表現する〈言葉〉のはずの季語が、吉本氏の「なくなっちゃった自然」のように望まれているような状況だ。もしかしたら季語の実感主義とは、悪夢的リアルによってじわじわと酸欠を起こしつつある俳人たちが、無意識下で現実生活と自然を添わせようと要請したものかもしれないとすら思えてくる。

【参考資料2―2】 髙柳当該論考より
「“無”に塗りつぶされた詩」。
吉本隆明氏が現代詩の若い詩人の作を評した言葉である(『日本語のゆくえ』光文社、平成二十年)。吉本氏によれば、彼らの詩に「過去」も「未来」もない。あるのは「現在」だけで、その「現在」も、得体のしれない「無」であるというのである。そのために、「神話としての現代詩」や「神話としての若い人たちの詩ということを考えることはまず不可能」であると主張する。
その所以として、吉本氏が指摘するのは、「自然」に対する感受性の喪失である。立原道造や中原中也以来の自然詩の伝統と切り離された現代の詩人、とくに若い世代の詩人の身辺からは「自然」が失われ、それを感じ取る感性自体も彼らに欠乏している。ゆえに、現代詩は、太古の神話へとつながることのない表現になってしまったのだ、と氏は分析する。
俳句は季語を入れることが約束になっている。問答無用で「自然」が入ってくることになるのだ。だが、それは本当の意味での「自然」なのだろうか。


(その3)主題の問題
神野紗希「主題はあるか」(「俳句空間―豈」49号)をめぐって

【参考資料3】 神野当該論考より

小川軽舟は、自著『現代俳句の海図』(角川学芸出版)において、「三十年世代とは、極言すれば世代として求めるもの、主張すべきものを失った世代」「俳句もまた、それを用いて何かを主張する手段ではなくなり、表現行為としての面白さそのものが目的となった」と、自らの世代が、俳句表現(=型)をいかすことを主題としている世代だと位置づけた。しかし、表現をいかすということは、どんな主題を持つ人間にとっても、前提であり、必要不可欠なことだ。では、他の主題を持ち、そのために表現を磨く俳人に対して、表現を主題とし、表現を磨く俳人は、いったいどう対抗できるのか。どうしても、前者よりパワーが細くなってはしまわないか。
  (中略)
むしろ、たとえば昭和三十年世代は、日常や家族、適度な都会生活が主題の世代だといったほうが、こちら(金子兜太・津田清子・宇多喜代子らの主題主義的近作……引用者)とも張り合えるのかもしれない。壮大なテーマに対し、卑近なものの素晴らしさを主張するというのは、価値の転覆をはかることで新しさを確保してきた、俳句の戦略らしいではないか。

④今後の抱負


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