2009年12月12日土曜日

閑中俳句日記(19)日下野由季句集

閑中俳句日記(19)
日下野由季句集『祈りの天』

                       ・・・関 悦史


『新撰21』 (邑書林)がついに発売になった。出資して下さったさる篤志家の方をはじめ、関係した皆様のおかげでありがたいことである。

先日実物が届いたので早速通読したが(ボリュームが意外とある)、自分の100句は全部見たことがあるからともかくとして、他の作者たちの句にそれぞれ発見があり、意外にも、なまじ身近なために何となく知っている気になっていた同年輩の作者たちの真面目をここで初めて知らされたというケースも多かった。予想を上回って充実した良い本になったというだけでなく、何やら祝祭的な印象すら漂う。

この本については私は後日発言の機会を与えられていて、豈weeklyでも誰かしらが触れることにはなるのだろうから、今回はとりあえず、ここに入っていない若い作者の句集から句を拾っていこうと思う。豈weeklyは特に打ち合わせや編集会議の類があるわけではなく、誰が何を書くかは更新されるまで当事者間でもお互い全然知らないから、寄稿者全員が似たようなことを考えて、今週誰も『新撰21』をまともに紹介しないという可能性もないではないのだが。

さて、日下野由季さんである。

先日の長谷川櫂氏の仕事場訪問の際に初めてお会いしたが、極めてもの静かな無口な方なので、「会った」というよりはほとんど「同席した」というだけに終わってしまった。

『祈りの天』(ふらんす堂)は一昨年刊行された、作者「十代の終りから二十代の終わりにかけての約十年間」の句集。タイトル通り、空や天に関わる句が多く、一見生活圏内の見慣れたものたちや自分の感情を詠んだ句も概ね天の垂直性と明るみの中に位置づけられている。リーフレットを片山由美子氏が書いていて、そこにも「余分なことを言わず、大きな目をきらきらさせていたのが印象的だった」とあった。どこであれ静かな方らしい。しかし《伝へきれぬことの多さや青嵐》《秘めごとの秘めたるままに烏瓜》《つひに言ひそびれしことも卒業歌》といった句を見ると、その内実はかなりのポテンシャルの充溢したもののようだ。というよりも、想いの濃度がつねに静まりの中で立ち現われるというべきか。

静寂てふ音のありけり雪降りつむ

弾き初めの黒鍵にある硬さかな

白梅の一枝沈黙破りけり

佇めば滝音我の中にあり

かなかなや人恋ふるとは宥(ゆる)すこと

いずれも静まりの中に立つかすかな音を啓示のように聴きとめている。白梅が「咲いた」ではなく、その「一枝」が「沈黙」を「破」ったと書かれるとき、ここにあるのは形をもつことそのものを恩寵と感じ、この世があること自体を奇蹟と思う白梅がエクスタシーをともないつつその身から発した福音の瞬間であり、作者はそれを聴きとめている。《春愁や涙の粒のとめどなく》の、単なる「春愁」としては尋常でない量の涙はそうした世界との交感があってのことで、私情のみによるものとは到底見えない。

序文の高橋悦男氏はこの作者の句柄を「透明で清純」という。この「透明」「清純」は「純粋」とは微妙に、だが決定的に異なる。芸術において純粋さの追求は概ね頽廃への一本道をたどることになってしまうのだ。語彙やモチーフがかなり限られている感はあるにせよ、日下野由季において「透明」「清純」は己の感動から表現上の夾雑物を排除することによって得られるのではなく、逆に己をも他と関わりあう他者のひとつと見、寄る辺なくも世界という光に貫かれ開かれた有機的なひとつの場として感受しているところから生じる。

校庭へ洩れくるピアノ飛花落花

飛花落花水恋ふものは水の上

飛花落花そらへ光を返しけり

これら単なる「落花」ではない乱舞する「飛花落花」たちは、複数のものたちの激しい交錯がそのまま「恋」や「そら」との交感の場となるという事情を明かしているのではないか。

身にあまる甘さと思ふさくらんぼ

猫の尾のさきまで恋をしていたり

休講を知らせる掲示緑さす

身籠れる人が隣に花の雨

一見些細な日常の、どうということもない場面に現われる「身にあまる甘さ」「尾のさきまで恋」「緑さす」「身籠れる」といった幸福の充溢は、日下野由季というひとつの場の、勁い「開かれ」なしには受け止めることが出来なかったものと思われる。

この「開かれ」は必然的に軽さを要請する。日下野由季における軽さ、薄さ、存在感の稀薄さは審美的な次元に留まるものではなく、ひとつの倫理的要請である。

春の雪地につくときのこゑかすか

後の月吹かれてすこし歪みゐる

はくれんの祈りの天にとどきけり

秋の天より金の羽根銀の羽根

深秋や風のかるさの貝拾ふ

いちまいの水となりゆく薄氷

風花の触れ合ふことのなかりけり

爽やかやからだにかすかなる浮力

水音にまがふ笹音冬に入る

こうした場であえて身体の接触がはかられるとき、そこに聖性がスパークし、「神」が呼び込まれることになる。

血より濃きものの溢れて石榴裂く

神の手の触れて崩るる冬の薔薇

冬晴の椎の大樹に耳あてて

一対の冬木しづかに触れ合ひぬ

接触による聖性の迸りを扱った句としては、一見地味ながら《団栗を拾へば話題団栗に》というのもある。拾われ、掌に乗ったことで、団栗が幸福な交感の場の、それも主役の座に導きいれられるのだ。《白梅の蘂のくすぐつたくありぬ》の白梅内部での秘めやかな喜悦、《しぐるるやまだ青々と捨て野菜》の「しぐれ」と「捨て野菜」との触れ合いにもそうした聖性の裏づけがつねに行き渡っている。

クリスマスも近いが、そうした時期に読むのにふさわしい清廉な句集と言える。

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■関連記事

閑中俳句日記(17)長谷川櫂氏の仕事場訪問・・・関 悦史 →読む

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1 件のコメント:

関悦史 さんのコメント...

表題句の《はくれんの祈りの天にとどきけり》について、もうちょっと細かく書こうかと思いつつ時間切れで送稿してしまったもので、こちらでちょっと補足。

この句、平明な見かけのわりには格助詞「の」の魔術により意外と重層的な揺らぎを秘めていて、「はくれんの祈り」が「天に届いた」というだけのことを言っているのではなく、句集のタイトルが「祈りの天」で一つの塊になっていることからしても、「はくれん」が「祈りの対象としての天・祈りを受け止めるものとしての天・祈りを形象化したものとしての天」に届いたという句とまず取れます。

しかしそれだけで終わるわけでもなく、さらに「はくれんの祈りの天」までで一塊と取ると、「はくれん」が祈っている天、視野への「はくれん」介入により「祈りの天」と化した天に、語り手本人(の思い)も「とど」いたとも取れて、何物が何に届いたのか、かなり主体がゆらぎあいつつ重なりあった重層的な作りになっています。