2009年1月10日土曜日

日原傅+小原啄葉句集

風雅と自由
日原傅句集『此君』及び小原啄葉句集『而今』を読む

                       ・・・高山れおな

正月休みにいろいろ句集を読んだ中で、日原傅の『此君(しくん)』や小原啄葉の『而今(じこん)』などは、巧者という点では最右翼と称すべきものだった。かたや日原が一九五九年生まれで例の昭和三十年世代俳人の一角を占めるなら、かたや一九二一年生まれの小原は大正世代――年齢差はずいぶんあるが、ともに「天為」の同人で山口青邨の弟子という共通項もある。もちろん青邨が一九八八年に没していることを考えれば、同じく師事といってもその程度には相当の径庭があるのではあろうけれど。

日原の句集を読んでみようと思ったのは、昨年末に小澤實と対談したのがきっかけである。対談は、先日出た「澤」誌一月号に載っている「平成二十年澤俳句・俳壇展望」という記事のためのもので、互いに年間の注目句集を三冊ずつあげた中で、佐藤文香の『海藻標本』、山上樹実雄の『晩翠』と共に小澤が推したのが日原の『此君』だった。さらに小澤がそこに収録された句から紹介したのが下記の三句。

虫の屍を裹みて露のひかりけり
金蠅の己れを磨きたててをり
犬を見て犬が驚く枯野かな

評者としてはとりわけ一句目に感心した。

非常に目の効いた、質感をうまくとらえた句があります。(中略)露のなかに、虫の屍が入っているんですね。そういう露を詠った。

と、小澤が述べている通りの内容であろう。チャタテムシとかショウジョウバエのような、いわゆる微小昆虫の死体を詠んだものに違いない。かなりの秀逸と思ったが、句集に栞文を寄せている大木あまりは、意外にもこれら三句には全く触れていない。彼女が集中随一の作として推奨しているのは、

梨食うて心すずしくなりにけり

で、帯にも大きく掲げられている。大木はこの句について次のように記す。

果汁の多い青梨を食べたときの感覚を鮮やかに表出している。「心すずしくなりにけり」のリズムの流麗さが水の流れを思わせ、梨の本質を衝いている。『此君』は総じて涼やかな句が多い。全篇を涼風が吹いている感じがする。その涼しさの源は、この梨の句だったのだ。「心すずしく」は本句集のテーマであり、作者の思想でもあると思う。

「梨食うて」の句そのものは凡作にしか見えず、これを「白眉の一句」とまでいう大木に怪訝な気持ちを抱いた程であるが、句集を読み返すうちに、この句集の長所も短所も、“涼しさ”という「作者の思想」に根を持っているということにだんだん納得がいった。さすが大木は慧眼というべきなのであろう。

『此君』は、ⅠからⅧまで全八章からなっている。「あとがき」によれば平成十三年から二十年まで足掛け八年の作品三百句を収めたとのことだから、Ⅰが平成十三年作で以下順に各章が各制作年に対応しているものとおぼしいが、はっきりした説明はない。すでにこうした編集態度にも、“涼しさ”への志向は出ているように思う。つまり、実際は編年体でありながら、作品が特定の年次とむすびつくことを避けようとしているのである。

おなじ事情は空間に関しても観察できる。この句集は旅吟がかなり多く、国内各所への旅での詠作の他、少なくとも四回の中国行をはじめマレー行、沖縄行の連作を含んでいる。国内の小旅行で一、二句をものしたにすぎない場合はともかく、ある程度纏まった数の海外詠をならべる際には、多くの句集では「○○○ 何句」といった前書を付して地名を明示するのが普通であろうが(青邨の『雪国』などは最も徹底してそれを行っている)、『此君』ではそれは一切ない。地名に限らず、いかなる前書もない。固有名詞を句に詠むことを忌避する様子はないものの、作品以外の夾雑物は、時間についても空間についても意識的に排除されていると見てよさそうだ。当ブログ前号の拙稿で引いた清水哲男の西部劇エッセイの言葉を借りるなら、〈現代のこの地上のどこにもない場所に「永遠の時間」を設定〉しようとする強固な意志が句集を統御している。日々の雑務も不況も戦争もない、そもそも喜怒哀楽の感情さえほとんどない、風雅の“涼しさ”が句集全体を満たしている。

こうした傾向性は、ある程度は昭和三十年世代の有季定型俳人に、より正確には彼らの中でも中核メンバーである長谷川櫂・小澤實・田中裕明・岸本尚毅らと通有のものではあるだろう。とは言っても長谷川・小澤はむしろ前書は多用する方だし、感情の表出ということに関しても日原ほど抑制的ではないように思う。つまり日原ほど涼しくはない。具体的な例として、食べることにかかわる句を見てみよう。

板敷に人を励ます泥鰌鍋
柿を剥く黒光りする刃かな
深川や八目鰻を焼き続け
白魚の漆黒の目に酌みはじむ
天麩羅にしてぜんまいの鏡文字
遠方の朋へ棗を山盛りに
川鳴つて筍飯のかろさかな
吉祥の文字こんがりと月餠に
丁寧に食ひをり土用蜆なり
読める字を読んでゐる子や心太
月餠の餡いろいろに西湖かな
爽涼やどろりの粥に貝柱

いずれも見どころを持つ、すぐれた句ばかりである。ただ、全体にあまり食欲をそそる感じがしないのはどういうわけか。長谷川櫂の食の句について、池田澄子が書いた文章があるので比べてみよう。

粽解く葭の葉ずれの音させて
鯛飯のあとの番茶や青嵐
穴子裂く大吟醸は冷やしあり
「葉ずれの音」や「青嵐」は、積極的な享受の姿勢において賜るもの。食にまつわるこの快さを、意識して喜ぶ行為は、自然界に在る者の最上の返礼であるに違いない。俳句は、多く季語を以て喜びを定着させ、定着させたことによって更に、その季語を授かったことを喜ぶ。   
池田澄子「交歓ということ 長谷川櫂句集『果実』」

やはりどうも長谷川の方が美味そうである。池田が書いているように長谷川の句には食べる喜びが濃厚にあり、日原の句にはそれが淡くしかない。小澤の発言にあった「質感」への拘泥が、食の句としての魅力を殺いでいるということかも知れない。食べる喜び以上に、食べることへの倦怠の気配が強く出てしまっているように思う。中では〈遠方の朋へ棗を山盛りに〉が、この人としては最大級に感情をあらわにしたものなのだが、評者が棗というものを食べたことがないために内容を味わいきれていないのは、日原のために気の毒な次第であった。とはいえ、この句に溢れているのが友人との再会の嬉しさであって、腹いっぱい棗が食えることへの期待でないのは確かだろう。中国への旅から生まれた作であり、従って「遠方の朋」とは句の語り手の側を指している。言うまでもなく、『論語』の〈朋あり、遠方より来たる、また楽しからずや。/有朋自遠方来、不亦楽乎、〉を踏まえた表現である。

ちょうど『論語』の話が出たので言っておくと、日原は法政大学で中国文学を講じる学者だそうである。ちょっと検索した限りではこの方面での単著などはまだ出していないようなので、中国文学でもどのあたりが専攻なのかはわからないけれど。評者は一昨年あたりから『詩経』などをこねくりまわして俳句をつくったりしているが、日原の場合はこんな「盲蛇に怖じず」の類とは異なる分厚い専門知識を持っているわけである。それをどんどん俳句に生かせばよさそうなものなのに、その点でも日原は抑制的というかはなはだ涼しげに振舞っている。気づいた範囲では、はっきり中国古典を踏まえるのは先ほどの棗の句の他には、

朋来たる肩に尺蠖虫のせて
冬紅葉水を楽しむ人とゐて
花御堂東西南北の人に

くらいのもののようである。一句目はもちろん棗の句と同じく〈朋あり、遠方より来たる、また楽しからずや。〉が典拠。二句目も出どころは『論語』で、〈子の曰わく、知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。/子曰、知者楽水、仁者楽山、〉から来ている。三句目は、『礼記』の〈今、丘(きゅう)や、東西南北の人なり。/今丘也、東西南北之人也、〉を出典とする。「東西南北の人」は、原典では「住所不定の流浪の人」を指すが、「諸方の人。諸方から集まる人」の意味もあってここではとりあえず後者であろう。もちろんこの世を仮の宿と見るような視点からは、諸方の人すなわち流浪の人ということになるから、そのニュアンスも消えることはない。それゆえに、救済者としての仏陀誕生をことほぐ「花御堂」に強い照明が当たることになるのだ。これらに加えて例えば、

たそがれは鳥も鳴きやみ実千両

などもどこか漢詩臭かったりはする(王安石〈一鳥鳴かずして山更に幽なり。/一鳥不鳴山更幽、〉とか)ものの、もともと俳句的なものは半ば漢詩的なものを滋養にして成長したのだから、それを指摘することにあまり意味はあるまい。さらに附言するなら、先に清水哲男の言葉を借りて、〈現代のこの地上のどこにもない場所に「永遠の時間」を設定〉する志向をこの句集に見たのであったが、これなども中国文学の一要素ではあるだろう。例えば陶淵明の「桃花源記」などはまさにそういうものだ。しかし、陶淵明は同時に、「帰去来の辞」や「形影神」や「園田の居に帰る」の作者でもあった。むしろ挫折の苦悶や政治的無能に対する自嘲を通じて、自然への憧れを痛切にした人であった。一方の日原には、俳句を読む限りでは、強烈な感情生活抜きで桃源郷の写生に終始する陶淵明といった印象がなくもない。そういう意味で、帯の「自選十五句」にも採られている、

出入口なき虫籠を編む男

は、中国での旅吟ながら、この虫籠売りの姿、はからずも日原という俳人の寓意像めいて見えてくる。そして小澤實推奨の〈虫の屍を裹みて露のひかりけり〉は、さしずめ日原の庶幾する俳句の姿そのものではないのか。美しい露の玉につつまれた極小の虫のしかばね。

うぐひすや山城にして海近く
木のきしむ音にはじまる花吹雪
外套は神話の如く吊られけり
御降りの靄あたたかし葡萄園
葉桜のころの奉納相撲かな
つばくらや昨日荒れたる隅田川
流木が舟を打つ音螢狩
ががんぼのなかなか去らぬ碁盤かな
難しく幹にとまりて囀れり
ふらふらと来る自転車は氷菓売
長城の切れ端を目に秋耕す
滝壺の底が真赤や冬もみぢ
列の蟻まばらとなりて引き返す
黒き蠅とまりて光るダリアかな
がたごととゆく自転車も聖夜かな
たつぷりの落葉に跳ねて初雀
伝言を巫女は菊師にささやきぬ
黄土より乾びて蜥蜴這ひ出づる

好みのままに挙げてみたが、句集全体を通じて作品は粒が揃っており、ことさら不出来と称すべき句はほとんど見当たらぬようである。三句目の「神話の如く」という直喩がやや当世風である他は、穏当・古風な詠みぶりで、六句目〈つばくらや昨日荒れたる隅田川〉などは江戸時代の選集にあってもおかしくないだろう。二句目や七句目の木がたてる微かな音を聞き逃さない聴覚の鋭敏さ、十四句目の蠅とダリアの取り合わせの妙、十句目・十五句目の情味豊かな風俗スナップ、十七句目のほのかな官能、多くの句における小さな生き物に対する正確で温かな観察――まさに「虫籠を編む」ような練達の手つきではあるまいか。

最後に句集名の『此君』であるが、これは竹の異称で、魏晋南北朝時代の貴顕紳士の逸話集『世説新語』にある王徽之(おうきし。書聖・王羲之の息子)の有名なエピソードを典拠とする。

王子猷(王徽之)はあるとき人の空家に暫く仮り住まいしたが、さっそく竹を植えさせた。ある人がたずねた。「暫く住むだけなのに、わざわざそんなことをなさらなくてもいいでしょう。」王子猷はしばらくうそぶき歌っていたが、まっすぐに竹を指して言った。「一日たりとも此の君なしにおられようか。」                目加田誠訳

日原は「あとがき」でこの話を紹介しながら、

竹に対して王徽之が発した「何可一日無此君(何ぞ一日も此の君無かるべけんや)」といふこの言葉を俳句形式に対して奉りたいと思ふ。

と述べていて、俳句への思いの程を披瀝している。また、先述したように収録句数が三百になっているのも、句集の規模として標準的というだけではなくて、〈子の曰わく、詩三百、一言以てこれを蔽(おお)う、曰わく思い邪(よこしま)なし。/子曰、詩三百、一言以蔽之、曰思無邪、〉(『論語』為政第二)を意識しての意図的な設定と考えられる。まことに俳句に対する日原の愛の至純であることは疑いがない。しかし、愛の至純と俳句形式との親和性の高さが、日原の俳句を非歴史的で無時間的なものにしてしまってもいるのであろう。『此君』はハイレベルな句集であるが、今この時に作られたという時代の刻印を奇妙な程欠いている。完璧な「虫籠を編む」ことで日原が守りたかったものへの共感の度合いがそのまま、読者それぞれのこの句集に対する評価を決めることになる。

      *       *       *

日原傅『此君』の思想が“涼しさ”ならば、小原啄葉『而今』のそれは“良き”ということになるだろうか。

佳き牧のよき起伏より夏燕
火勢よき岩手木炭青邨忌
長い物には巻かるるがよし糸瓜垂る
藁仕事ちちははは仲良かりしよ
寒柝のころは人の世善かりける
鉄瓶の鳴りもよろしき桜餠
母の日の母の文字ほど佳き字なし

たちどころに、これらの句を拾うことができる。三句目はちょっとあんまりな俗調であるし、六句目なども等類が山のようにありそうで感心しないが、他の句はともかくも句集の核になる思いの在り処を伝える作と言ってよい、とりわけ四句目と五句目は。五句目の〈寒析のころは人の世善かりける〉は、一見すると概念的な詠み口のようだが、季節の空気を確かに捉えた秀句。冬の夜、いちにちを終えようとする人の耳に「寒柝(かんたく)」の乾いた音と火の用心の声が聞こえてくる。寒気の中を行く一団への気づきが、にわかな懐かしさと共に「人の世善かりける」の思いをもたらすのである。人間の寂しさと寂しさが結びつく、日常の中の小さな奇跡のような瞬間で、それはあるだろう。

孤独観の近代味は、――古代人にはない――感謝精神であつた。彼等の生活には、感謝すべき神がなかつた。孤独に徹しても光明の赫奕地に出た事はない。東洋精神の基礎となつたと信ぜられる仏教の概念が、修道生活によつて、内化せられて、孤独と感謝、寂寥と光明、悲痛と大歓喜とを一続きの心境とした。芭蕉は、この昔から具体化の待たれた新論理の、極めて遅れて出た完成であつた。                     折口信夫「歌の円寂する時 続篇」


有季定型俳句は、基本的にはこの有名な一節にいう「極めて遅れて出た完成」の後継者であるから、本性として世界に対する肯定性を帯びている。『而今』の思想は“良き”であるとしたのは、「人の世善かりける」の句に典型的なように、そうした有季定型俳句通有の肯定性がことさら強く出た印象を敷衍したにすぎないが、それにしても〈藁仕事ちちははは仲良かりしよ〉とまで言われると、評者は多少の驚きに打たれざるを得ない。八十代も半ばにさしかかった作者が、仲睦まじく「藁仕事」にいそしむ両親の姿を遠く回想しているわけで、まずは御同慶のいたりなのであるが、しかしそこに同時に何かしらめでたいとばかりも言い切れない不気味なものも感じられる。ことのついでにもうひとつ折口の言葉を引くなら、〈何物も、生れ落ちると同時に、「ことほぎ」を浴びると共に、「のろひ」を負つて来ないものはない。〉(「歌の円寂する時」)のであって、両親に対するこの肯定の視線のうちには、自ら望んで生まれてくるわけではない人間の、誕生してしまったことに対する恨みのようなものが、微かにまことに微かに含まれてはいないだろうか。「仲良かりしよ」の詠嘆は、作者の表層の意識とはかかわりなく、「一続きの心境」のうちにある「孤独と感謝、寂寥と光明、悲痛と大歓喜」のいずれに向かうとも定めがたく揺れ動いているのである。そしてもしそうならば、“良き”の思想は単なる肯定というよりは、肯定への飢渇を孕んだ肯定というべきなのかも知れない。

『而今』は、小原啄葉の第七句集で、平成十七年から十九年までの作品四百句を収めている。日原の『此君』が自らの現在を無時間性・非歴史性へと還元しようとしていたのに対し、『而今』に流れているのは、過去と現在が混在し、時に何が過去で何が現在であるか、見分けがつかなくなるような、そんな時間のようだ。これは文字通りのことだ。

太郎杉誰もがたたき暖かし
透明な合羽の中に子猫抱く
厩より厨へぬけて初蛍
虫送りをへて無人の村となる
草刈機蝮刎ねたる音したり
言ふなれば千人針は虱の巣
今日来るか来ないか来るか水を打つ
出水川遠く流るる秣桶
懸煙草這ひ這ひの子のくぐり来る
無月には無月のあかり芋洗ふ
老人が抱かれ花野へ降ろされし
  回想 これが兄と最後の日となる
陸軍中野学校の兄と泥鰌掘る
氷下魚みなひとたび跳ねて凍りけり
屋敷神まづは灯して庭田植
  回想 二句
地吹雪や「陛下に代りビンタをやる」
悴みてビンタ賜はる構へとる
正座して婆の見てゐる厩出し
雀の巣捨て洗濯機の中にある
吹雪く中人のかたちの雪歩む

平成十七年、十八年の作から引いた。はっきり回想と前書された句もあるが、それでは三句目「厩より」、四句目「虫送り」、八句目「出水川」、九句目「懸煙草」、十句目「無月には」、十四句目「屋敷神」、十七句目「正座して」の句は現在眼前の景であって、回想の句ではないと言い切れるだろうか。これらの句、現在の景だと言い切るにはあまりにも農村の古俗に傾いており、過去の景だと断ずるには生々しい生命感に富みすぎていて、評者には過現を判別することが出来ない。また、最後の「吹雪く中」の句などは、句集の中での排列からすれば眼前写生と判断されるのだが、描かれたいとなみのすざまじさゆえに、繰り返されてきた永遠の景として立ち上がってしまうようである。それにしてもしばしば作り物めいた昭和三十年代作家の句に比べると、さすがにこれらの句では人間が激しく生きているではないか。以下、平成十九年の作。

雪達磨へ酔うて愚図愚図言うて立つ
つながらぬほどに離して餠あぶる
こゑひとつ出さず独りの鬼やらひ
水のせて水を流るる薄氷
股仏その股なりの名残雪
  註 股仏は最終年忌に立てる二股の塔婆
盆の寺牛飼つてをりそんな寺
遠野秋敬ふ石の多かりし
籾殻を八戸も焼けば富むごとし
野分雲葬りと言へど五六人
特攻隊と見し黒点が鷹となる  ⇒「特攻隊」に「とつこう」とルビ
這うて出て障子を開けてくれし姉
数へ日のかぞへ始めの青邨忌
いくさ星いくさは年の夜もつづく

山本健吉は、『現代俳句』の山口青邨の項で、〈俳人は何かと言えば「みちのく」である。〉と痛烈な批判を記した(引用は平成二年刊の角川選書版による)。

芭蕉の『奥の細道』以来、いな河原左大臣や実方・能因の昔以来、「みちのく」は詞客の魅力ある歌枕だったのだろう。芭蕉の辛苦とは縁もゆかりもない楽な旅行をちょっとしてはすぐ「みちのく」などと言うのは空々しいのだ。せめて『雪国の春』(柳田国男)の十分の一ぐらいでも、東北地方の悲しい庶民の生活に、下情の息吹きに、風土の真髄に触れた上で詠んでくれたら、もっと感動がこもるだろう。(中略)「みちのく」とはついにエトランゼの詠歎語にすぎないのか。

こう断った上で山本は、盛岡の産である青邨の場合は、同じく「みちのく」を詠むにしても他の俳人たちとは〈少し意味が違ってくる〉と述べ、「みちのく」の語を詠みこんだ青邨の句を挙げている。もっともその青邨の句にしてからが、〈さほど東北の庶民生活の匂いが出ているわけではない。〉のであり、〈行きずりの旅人とは違った感慨が作者の胸に渦巻いていることは確かであろう。〉という健吉の擁護も、書き付けられた表現が現に「行きずりの旅人」のそれとさほど水準を違えているわけではないのだから、なにやらむなしく響く。青邨の詠作は〈俳人の「みちのく」流行の発端をなした〉にせよ、俳句が東北地方の「下情の息吹」「風土の真髄」に触れるにいたったのは、戦後の佐藤鬼房や成田千空、小原啄葉らの成果によってではないかと思う。彼ら大正世代よりもさらに三十歳近く年長の青邨は、触れようと思えばより古い、より厳しい東北の現実に触れ得たであろうが、彼自身はあくまで天皇の官僚であり、国家の近代化に責任を負うエリートとしての意識を内面化していたのではなかったか。〈鬼房忌集ひしわれら蝦夷の裔〉というのは『而今』のうちにあって格別の秀句でもないが、ともかく「蝦夷の裔」と屈託なく詠むためにさえ、鬼房や啄葉は下級の兵士として戦場をさすらって帰還する必要があった。

それにしても、掲出した句々を眺めていると、俳句が山本のいう東北の風土の十全にして柔軟な表現を得た時、それが過去の貧しさとは異なる未来の閉塞に覆われてしまっていることに改めて愕然とする。ただ、詠まれている現実が暗いほどに句が暗いわけではない。むしろ日原傅の優雅な俳句などよりよほど溌剌たるものがここにはあるだろう。日原の一見すると純度の高い句風は、じつのところ風雅の観念を媒介にしてようやく成立しているものだった。小原の句集に低い風流意識の次元で心理の慰撫に走った例少なしとしないが、ともあれ成功した作品において小原は、そのような観念に足を取られることを免れている。日原が跼蹐として自分が美と信じるところを守ろうとしているのに対し、小原の句からは何かを守ろうとする気配は感じられない。吉田健一は詩の要諦を、〈言葉の過不足がない組み合せが、それに働き掛けられた我々の精神からも無駄や歪みを去って、何にでも向える自由を精神が取り戻す〉(『文学概論』)ところに見たが、『而今』の句のいくつかはそのようにして読む者に自由の感覚を与えてくれる。〈いくさ星いくさは年の夜もつづく〉という句でさえもがそうだ。時事とも回想ともつかない時空で戦いつづける人間たちの剥き出しの姿は、その救いようもなさを隠そうとしていない点にかろうじての救いを感じさせてくれるのである。

*日原傅句集『此君』 ふらんす堂 二〇〇八年九月二十七日刊 

*小原啄葉句集『而今』 角川書店 二〇〇八年七月十日刊
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1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

> その救いようもなさを隠そうとしていない点にかろうじての救いを感じさせてくれるのである。

いい言葉ですね。
等身大、ということなのでしょうね。何に関しても。

小原啄葉『而今』
農村の送りの部分の句、とても好きです。
あとあの年代のかくしゃくとしたおじいさん、「良い」とか「良し」とかよくいいますよね。古くなりつつある、日本語の一つかもしれませんね。