-Ani weekly archives 004.18.01.09-
■遠流の島と虚構の海
そのひとつに、芭蕉の名句「荒海や佐渡によこたふ天河」(表記は岩波文庫版『おくのほそ道』に拠る)についての指摘がある。
私は、ずっと芭蕉の「あら海や佐渡に横たふ天の川」が不思議でした。随行した曽良の日記に強風の記事はなく、まして「銀河の序」(『日本古典文学大系』四六)には「波もたかからざれば」とはっきり書いているのに何で「あら海」か。それが、前掲の語り物の文言を通覧していて納得できました。伝統にこだわる芭蕉の、まるで歌枕紀行といった感じの『おくの細道』なればこそ、歌枕の乏しい越後の陸地はさっと書き飛ばしても、先人が「荒海」と語り続けた海だけは眼前にして、それがいかに静かであっても、「あら海」と観じなければならなかったのです。
これだけでは、なんのことか判りにくい。引用が長くなるのを承知で、右の文中で井上が言っている「前掲の語り物の文言」をすこし紹介しておこう。
芭蕉を含め、当時、日本列島の正確な形状を知る日本人はほとんどいなかった(それまで存在した地図が表わす列島は、現代人の眼には、奇妙にデフォルメされた珍獣がねそべった姿のように映る)。旅はいまと異なり、困難で危険な行為だった。辺鄙な地方を実際に踏査することのない「中央」のひとびとは、地方ごとに付与された定型的なイメージを踏襲しつつ、想像のなかでその地へ思いを馳せていた。越後の場合、その定型的なイメージは「荒海」だったのであり、「語り物の文言」こそ、そうしたイメージを固定観念としてひとびとに注入したのである。例えば、次のごとく――
東は奥州外浜、西は鎮西鬼界島、南は紀伊路熊野山、北は越後の荒海までも、 (『曾我物語』)
東は奥州そとの浜、南は紀の国熊野山、西は鎮西鬼界が嶋、北は越後の荒海まで、 (『別本鼠の草紙』)
東は奥州外が浜、西は鎮西鬼界がしま、南は紀の路那智の滝、北は越後の荒海まで (歌舞伎十八番『鳴神』)
井上慶隆の指摘は、俳句における虚構の問題にかかわって、われわれに次のことを教える。一つ、佐渡を眼前にした「荒海」は、実景ではなく、芭蕉の意図的な偽り(すなわち虚構)であること。二つ、その虚構の根拠として、越後に付与された「荒海」のイメージが踏まえられたこと。三つ、当時流布していたそのイメージを踏まえればこそ、件の句がひろく受容されるであろうことを、虚構を導入する動機(あるいは計略)として芭蕉が考えたかもしれないこと。
井上の指摘を知ったわれわれは、それでは芭蕉の仕事が低く見えるだろうか。否である。虚構の舞台裏を教えられたからこそ、芭蕉の非凡をはっきり悟るのだ。芭蕉は、定型的なイメージを踏まえつつ(それにより当代の読者の支持と共感が期待できる)、そのイメージを必然性の次元へ昇華させている。現代のわれわれには陳腐な固定観念に思える「荒海」に、詩性のいぶきを吹きこみ、句に必要な情景として蘇生させている。これこそ、彼が卓越した技倆を具えた詩人である証左なのだ。わたしの見るところ、この詩的転換を可能にした因子が二つある。ひとつは、「佐渡」にまつわる歴史的記憶であり、いまひとつは、「天河」の鮮烈な美しさである。
説明しよう。「佐渡」は古代より政治犯が流された辺境の島であった。また、越後で人身売買が盛んだった関係で、かどわかされた者が望郷の念を抱きつつ、苦役にしたがう所だという言い伝えもつきまとっていた。更に近世にはいり、金山が未曾有の活況を呈し、危険な労働に携わる金穿りが集住する地という評判が重なった(しかし、幕府のドル箱である佐渡金山の繁栄のピークは寛永期であって、芭蕉が佐渡を遠望した頃は、ゆるやかな衰退に向かっていた)。これが、「佐渡」にまつわる歴史的記憶である。つまり、こうした記憶は、佐渡を脱出して自由と安全を取り戻したいと願うひとびとが、波のかなたで呻吟しているという想像を喚起する。しかし、陸づたいの逃避行ならともかく、島を合法的に抜けだすのは困難だ。もし、うまく小舟をみつけても、日本海の荒波に呑まれて命を落とす危険性が高い。つまり、「荒海」が自由への途を遮断する。だから、佐渡をとりまくのは「荒海」でなければならない。芭蕉の詩的判断はこういうものであったろう。
だとすると、ふたつめの因子、「天河」の鮮烈な美しさがここで生きてくる。逃亡困難な孤島としての佐渡。その夜空に、まるで架橋のように天河が横たわる。それは、島を脱出できないひとびとの(脱出できなかった過去のひとびとの)願望と希求の象徴のようでもある。そして、荒れやまぬ海と、清浄な静けさをたたえた天河の対比は、構図としても哀しく美しい。
脱出困難な孤島としての佐渡を強調するため、芭蕉は「荒海」という虚構を導入し、それに成功した。こう推測する傍証を、もうひとつ示そう。それは、この句の詠まれたのが直江津らしいことだ。陸地から佐渡までの直線距離が最も短いのは、巻町・寺泊町あたりであり、直江津からだと島はぐっと遠方にしりぞく。そのとき佐渡は、いやがうえに自由から遮断された異境のごとくみなされる。
もしかすると、芭蕉は、佐渡を望んで「荒海や」と詠む腹案をはやくからあたためていたかもしれない(「荒海」が独創を要しない定型的なイメージであることからして、じゅうぶんありうることだ)。だが、彼は七夕までそう吟じるのを待った。「天河」との組合せが肝要だったからである。
このように考えると、「荒海や」の句に関するかぎり、芭蕉は徹頭徹尾、虚構の人である。
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・・・江里昭彦
もっと知られていいはずの井上慶隆「佐渡と越後は筋向い」を読んだ者がほとんどいないのは、新潟県立文書館「研究紀要」に載ったからだろう(第四号. 一九九七年三月)。利用者が多い図書館と比べて、文書館の認知度は、この国ではまだまだ低い。その文書館がだす地味な研究紀要とくれば、接する者が少ないのも無理はない。でも、ほんとうに惜しいことだ。県史講座のひとつとして構想されたこの講演は、副題に「佐渡と越後の文化史」とあるとおり、北陸の地に展開された文化の動きに関する、有用な知識や刺激的な見解を多く含んでいるのだから。そのひとつに、芭蕉の名句「荒海や佐渡によこたふ天河」(表記は岩波文庫版『おくのほそ道』に拠る)についての指摘がある。
私は、ずっと芭蕉の「あら海や佐渡に横たふ天の川」が不思議でした。随行した曽良の日記に強風の記事はなく、まして「銀河の序」(『日本古典文学大系』四六)には「波もたかからざれば」とはっきり書いているのに何で「あら海」か。それが、前掲の語り物の文言を通覧していて納得できました。伝統にこだわる芭蕉の、まるで歌枕紀行といった感じの『おくの細道』なればこそ、歌枕の乏しい越後の陸地はさっと書き飛ばしても、先人が「荒海」と語り続けた海だけは眼前にして、それがいかに静かであっても、「あら海」と観じなければならなかったのです。
これだけでは、なんのことか判りにくい。引用が長くなるのを承知で、右の文中で井上が言っている「前掲の語り物の文言」をすこし紹介しておこう。
芭蕉を含め、当時、日本列島の正確な形状を知る日本人はほとんどいなかった(それまで存在した地図が表わす列島は、現代人の眼には、奇妙にデフォルメされた珍獣がねそべった姿のように映る)。旅はいまと異なり、困難で危険な行為だった。辺鄙な地方を実際に踏査することのない「中央」のひとびとは、地方ごとに付与された定型的なイメージを踏襲しつつ、想像のなかでその地へ思いを馳せていた。越後の場合、その定型的なイメージは「荒海」だったのであり、「語り物の文言」こそ、そうしたイメージを固定観念としてひとびとに注入したのである。例えば、次のごとく――
東は奥州外浜、西は鎮西鬼界島、南は紀伊路熊野山、北は越後の荒海までも、 (『曾我物語』)
東は奥州そとの浜、南は紀の国熊野山、西は鎮西鬼界が嶋、北は越後の荒海まで、 (『別本鼠の草紙』)
東は奥州外が浜、西は鎮西鬼界がしま、南は紀の路那智の滝、北は越後の荒海まで (歌舞伎十八番『鳴神』)
井上慶隆の指摘は、俳句における虚構の問題にかかわって、われわれに次のことを教える。一つ、佐渡を眼前にした「荒海」は、実景ではなく、芭蕉の意図的な偽り(すなわち虚構)であること。二つ、その虚構の根拠として、越後に付与された「荒海」のイメージが踏まえられたこと。三つ、当時流布していたそのイメージを踏まえればこそ、件の句がひろく受容されるであろうことを、虚構を導入する動機(あるいは計略)として芭蕉が考えたかもしれないこと。
井上の指摘を知ったわれわれは、それでは芭蕉の仕事が低く見えるだろうか。否である。虚構の舞台裏を教えられたからこそ、芭蕉の非凡をはっきり悟るのだ。芭蕉は、定型的なイメージを踏まえつつ(それにより当代の読者の支持と共感が期待できる)、そのイメージを必然性の次元へ昇華させている。現代のわれわれには陳腐な固定観念に思える「荒海」に、詩性のいぶきを吹きこみ、句に必要な情景として蘇生させている。これこそ、彼が卓越した技倆を具えた詩人である証左なのだ。わたしの見るところ、この詩的転換を可能にした因子が二つある。ひとつは、「佐渡」にまつわる歴史的記憶であり、いまひとつは、「天河」の鮮烈な美しさである。
説明しよう。「佐渡」は古代より政治犯が流された辺境の島であった。また、越後で人身売買が盛んだった関係で、かどわかされた者が望郷の念を抱きつつ、苦役にしたがう所だという言い伝えもつきまとっていた。更に近世にはいり、金山が未曾有の活況を呈し、危険な労働に携わる金穿りが集住する地という評判が重なった(しかし、幕府のドル箱である佐渡金山の繁栄のピークは寛永期であって、芭蕉が佐渡を遠望した頃は、ゆるやかな衰退に向かっていた)。これが、「佐渡」にまつわる歴史的記憶である。つまり、こうした記憶は、佐渡を脱出して自由と安全を取り戻したいと願うひとびとが、波のかなたで呻吟しているという想像を喚起する。しかし、陸づたいの逃避行ならともかく、島を合法的に抜けだすのは困難だ。もし、うまく小舟をみつけても、日本海の荒波に呑まれて命を落とす危険性が高い。つまり、「荒海」が自由への途を遮断する。だから、佐渡をとりまくのは「荒海」でなければならない。芭蕉の詩的判断はこういうものであったろう。
だとすると、ふたつめの因子、「天河」の鮮烈な美しさがここで生きてくる。逃亡困難な孤島としての佐渡。その夜空に、まるで架橋のように天河が横たわる。それは、島を脱出できないひとびとの(脱出できなかった過去のひとびとの)願望と希求の象徴のようでもある。そして、荒れやまぬ海と、清浄な静けさをたたえた天河の対比は、構図としても哀しく美しい。
脱出困難な孤島としての佐渡を強調するため、芭蕉は「荒海」という虚構を導入し、それに成功した。こう推測する傍証を、もうひとつ示そう。それは、この句の詠まれたのが直江津らしいことだ。陸地から佐渡までの直線距離が最も短いのは、巻町・寺泊町あたりであり、直江津からだと島はぐっと遠方にしりぞく。そのとき佐渡は、いやがうえに自由から遮断された異境のごとくみなされる。
もしかすると、芭蕉は、佐渡を望んで「荒海や」と詠む腹案をはやくからあたためていたかもしれない(「荒海」が独創を要しない定型的なイメージであることからして、じゅうぶんありうることだ)。だが、彼は七夕までそう吟じるのを待った。「天河」との組合せが肝要だったからである。
このように考えると、「荒海や」の句に関するかぎり、芭蕉は徹頭徹尾、虚構の人である。
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