■城戸朱理氏の永田耕衣論
耕衣の句のあの異様にして大らかな印象は一体どこから生じるのか。耕衣本人の言はこの際あまり参考にはならない。耕衣自身が「人生」の語を口にしながら、句作はそれを裏切るようになんら耕衣の「人生」を読み解く役には立たないのだし、通常の伝統俳人にとっては《身をすりよせるべき母権的なあり方として、退嬰を許すもの》にすらなりうる自然が、永田耕衣においては何の破壊もともなわないまま恐るべき異様さを現しているのだ。この伝統からの逸脱、「自然」への果敢な戦闘を特徴づけるキーワードとして、城戸氏は「途中」という語につきあたる。
いずかたも水行く途中春の暮
一見無常観や視覚的再現性といった常凡な領域にたやすく回収されてしまいそうに見える名句だが、しかし《むしろ、そこでは眺望は疎んじられ斥けられているように私には見える。それは、細部を喪失してそのままに句中への存在を余儀なくされているどことも知れぬひろがりでしかない》。
後ろにも髪抜け落つる山河かな
「眺望」とその「観察者」といった定位が無効になった中空での、相互の肉体の変容。これが「肉体の変容譚」というタイトルの由来であり、耕衣の「途中」性というのもこの互いに定位できないがゆえの相互影響による世界の変容のことなのだが(途中性の見本のともいうべき「行けど行けど一頭の牛に他ならず」といった句も引用されている)、これは《既存の体系から導かれる「無常観」とは次元を異にする一瞬の「空無」》であり、この踏査不能の領域の広大さゆえに「肉体」は必然的に「衰弱」していく。
腸の先づ古び行く揚雲雀
カットグラスの時代物吾が腸の弱さ
この伝統的な境地への安住からはほど遠い「途中」性こそが《超越的な境地から振りおろされる言語によっては成就されることはないであろう》《内側からの崩壊という滅びに裏打ちされ》ることによってはじめて《生体が発する玄妙なエロティシズム》の顕現の原因とするのが、城戸氏の論旨である。そしてこの論旨を裏付けるように、耕衣は後に「大晩春泥ん泥泥どろ泥ん」という、忍術の呪文を以て言語も肉体ももろともに、非在の泥の質料と睦みあう、目出度くも奇怪な句を書くことになる。
ここで私はドゥルーズがそのスピノザ論で『エチカ』の主要語彙を解説した件の、「持続」の項目の記述を連想した。
「……〈持続〉は〈永遠〉と対立する。永遠には始まりなどないし、この永遠ということばは一定不変の、まったき活動能力を有するものについて言われるからである。永遠は無際限の持続でもなければ、この持続の後に〔死後、来世において〕始まる何かでもない。永遠は、持続と共存しているのである。ちょうど、この私たち自身のもつ二つの本性上異なった部分――身体の存在を含んでいる部分〔外延的部分〕と、この身体の本質を表現している部分〔内包的部分〕とが共存しているように。」(ジル・ドゥルーズ『スピノザ―実践の哲学』 鈴木雅大訳 平凡社)
耕衣の句業はこの二つの時間〈持続〉と〈永遠〉との新たな関係付けの具体化ともいえる。もっとも、ここまで話を一般化すればあらゆる芸術は皆この両者に相渉るものだともいえてしまい、例えばセザンヌにおける視覚的質感的再現性と、有限の時間の外にあるかのような事物の構築性との総合の試みなどもそれに当たるのだろうが、城戸氏がこの耕衣論の冒頭で、耕衣の語りがたさを巡りつつ、耕衣は《「伝統」という一見、蒼然たる事象の、新たにして過激な自己検証》であり、「例外」でもなければ前衛でもないとして、前衛を以下のように定義づけていることと思い合わせるとまた別種の興味がわく。
《前衛とはまず自らを高みに置いて、その歴史意識のさなかで過剰な意味に斃れていく者のことであり、そこでは新たに選ばれた意味と、その反措定としての意味の相克が生じさせる緊張と時には振幅とが、ひとりの人生をなぞるときに、かならず不可解な熾烈さをともなって立ち現われてくることになる。前衛においては、まず持続が要求されており、つねに措辞たるべき意味と闘いつづけることによって、むしろその前提たる意味にこそ過剰な意味をまとわせていくその営為は、今日ではもはや信じがたい愚かさを帯びて見えてくるではないか。「戦後」の終焉を言う者は、自ら「戦後」を温存し、そのなかへとこそ倒れていくだろう。それが意志的にしか起こりえぬという選択の熾烈さは、つねに痛ましさと隣り合わせている。そのような図式を課されてあることを、むしろ能動的に生きることによって、その図式を完成すること、それが前衛なのだろうか。》
前衛という身振りがもはやとうの昔に失効していることを感じ取っていない詩人・俳人はあまりいまいが、では今後それ以外にいかなる更新の仕方があり得るのか、その貴重な実例となる耕衣像を城戸氏がここで提出してくれているからである。
この耕衣論が収められた詩論集が『戦後詩を滅ぼすために』と、あえて「滅ぼす」という言い方を採っているのも、前衛という、否定による更新の身振りが却って古いものを生き延びさせてしまうシステムを脱しなければならないという意志の表明であろう。
なお、城戸氏は来たる3月7日に行われる『第21回現代俳句協会青年部シンポジウム 「前衛俳句」は死んだのか』へ、パネラーとしての出席が決まっている。直接お話をうかがう好機である。
・・・関悦史
詩人の城戸朱理氏が去年刊行した評論集『戦後詩を滅ぼすために』(思潮社)には、吉増剛造、松浦寿輝、エズラ・パウンドといった現代詩人たちと横並びに、「肉体の変容譚――永田耕衣の現在」という87年に書かれた永田耕衣論が収められている。俳句作者の目にはとまりにくいものかもしれず、面白かったので以下その内容を簡単に紹介する。《》内は城戸氏の文の引用である。耕衣の句のあの異様にして大らかな印象は一体どこから生じるのか。耕衣本人の言はこの際あまり参考にはならない。耕衣自身が「人生」の語を口にしながら、句作はそれを裏切るようになんら耕衣の「人生」を読み解く役には立たないのだし、通常の伝統俳人にとっては《身をすりよせるべき母権的なあり方として、退嬰を許すもの》にすらなりうる自然が、永田耕衣においては何の破壊もともなわないまま恐るべき異様さを現しているのだ。この伝統からの逸脱、「自然」への果敢な戦闘を特徴づけるキーワードとして、城戸氏は「途中」という語につきあたる。
いずかたも水行く途中春の暮
一見無常観や視覚的再現性といった常凡な領域にたやすく回収されてしまいそうに見える名句だが、しかし《むしろ、そこでは眺望は疎んじられ斥けられているように私には見える。それは、細部を喪失してそのままに句中への存在を余儀なくされているどことも知れぬひろがりでしかない》。
ここで見るべきは「いずかたも」の一語によって特定の場への定着を阻む中空への能動的な意志であり、それによって「自然」は《相対的な位置を放棄させられた「物」それ自体として唐突に現われる。》これはいわば山や川がその肉体を失った状態であり、その中でやはり人間も《決定的な変容を蒙ることになる》。
山眠るや眼を失ひし人のむれ後ろにも髪抜け落つる山河かな
「眺望」とその「観察者」といった定位が無効になった中空での、相互の肉体の変容。これが「肉体の変容譚」というタイトルの由来であり、耕衣の「途中」性というのもこの互いに定位できないがゆえの相互影響による世界の変容のことなのだが(途中性の見本のともいうべき「行けど行けど一頭の牛に他ならず」といった句も引用されている)、これは《既存の体系から導かれる「無常観」とは次元を異にする一瞬の「空無」》であり、この踏査不能の領域の広大さゆえに「肉体」は必然的に「衰弱」していく。
腸の先づ古び行く揚雲雀
カットグラスの時代物吾が腸の弱さ
この伝統的な境地への安住からはほど遠い「途中」性こそが《超越的な境地から振りおろされる言語によっては成就されることはないであろう》《内側からの崩壊という滅びに裏打ちされ》ることによってはじめて《生体が発する玄妙なエロティシズム》の顕現の原因とするのが、城戸氏の論旨である。そしてこの論旨を裏付けるように、耕衣は後に「大晩春泥ん泥泥どろ泥ん」という、忍術の呪文を以て言語も肉体ももろともに、非在の泥の質料と睦みあう、目出度くも奇怪な句を書くことになる。
ここで私はドゥルーズがそのスピノザ論で『エチカ』の主要語彙を解説した件の、「持続」の項目の記述を連想した。
「……〈持続〉は〈永遠〉と対立する。永遠には始まりなどないし、この永遠ということばは一定不変の、まったき活動能力を有するものについて言われるからである。永遠は無際限の持続でもなければ、この持続の後に〔死後、来世において〕始まる何かでもない。永遠は、持続と共存しているのである。ちょうど、この私たち自身のもつ二つの本性上異なった部分――身体の存在を含んでいる部分〔外延的部分〕と、この身体の本質を表現している部分〔内包的部分〕とが共存しているように。」(ジル・ドゥルーズ『スピノザ―実践の哲学』 鈴木雅大訳 平凡社)
耕衣の句業はこの二つの時間〈持続〉と〈永遠〉との新たな関係付けの具体化ともいえる。もっとも、ここまで話を一般化すればあらゆる芸術は皆この両者に相渉るものだともいえてしまい、例えばセザンヌにおける視覚的質感的再現性と、有限の時間の外にあるかのような事物の構築性との総合の試みなどもそれに当たるのだろうが、城戸氏がこの耕衣論の冒頭で、耕衣の語りがたさを巡りつつ、耕衣は《「伝統」という一見、蒼然たる事象の、新たにして過激な自己検証》であり、「例外」でもなければ前衛でもないとして、前衛を以下のように定義づけていることと思い合わせるとまた別種の興味がわく。
《前衛とはまず自らを高みに置いて、その歴史意識のさなかで過剰な意味に斃れていく者のことであり、そこでは新たに選ばれた意味と、その反措定としての意味の相克が生じさせる緊張と時には振幅とが、ひとりの人生をなぞるときに、かならず不可解な熾烈さをともなって立ち現われてくることになる。前衛においては、まず持続が要求されており、つねに措辞たるべき意味と闘いつづけることによって、むしろその前提たる意味にこそ過剰な意味をまとわせていくその営為は、今日ではもはや信じがたい愚かさを帯びて見えてくるではないか。「戦後」の終焉を言う者は、自ら「戦後」を温存し、そのなかへとこそ倒れていくだろう。それが意志的にしか起こりえぬという選択の熾烈さは、つねに痛ましさと隣り合わせている。そのような図式を課されてあることを、むしろ能動的に生きることによって、その図式を完成すること、それが前衛なのだろうか。》
前衛という身振りがもはやとうの昔に失効していることを感じ取っていない詩人・俳人はあまりいまいが、では今後それ以外にいかなる更新の仕方があり得るのか、その貴重な実例となる耕衣像を城戸氏がここで提出してくれているからである。
この耕衣論が収められた詩論集が『戦後詩を滅ぼすために』と、あえて「滅ぼす」という言い方を採っているのも、前衛という、否定による更新の身振りが却って古いものを生き延びさせてしまうシステムを脱しなければならないという意志の表明であろう。
なお、城戸氏は来たる3月7日に行われる『第21回現代俳句協会青年部シンポジウム 「前衛俳句」は死んだのか』へ、パネラーとしての出席が決まっている。直接お話をうかがう好機である。
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2 件のコメント:
あら、こんにちはo(^-^)o
見たようなお名前が(笑)。
ビックリしました。初投稿、おめでとうございます。
耕衣の句、あまりたくさん知らないのですけれど、(あれこれの有名人をあつめた教科書的(?)句集とか“部長の大晩年”におさめられている句とかくらいなのですが)耕衣の句が“途中”というのは言い得てピッタリだと思います。
面白いものを探してこられましたね!
私は残念ながら「詩」にはまったく興味がないのですが(どうも数学的頭には今のところ理解ができません)城戸朱理さんの本も読んだことがありませんし、一度読んでみようかな。
でもそれだけのために買う気になるかどうか、お取り寄せできそうか見てみて考えて見ます。
野村麻実さま
いつも大変にお世話になっております、こちらでははじめまして(笑)。
『部長の大晩年』は私も読みましたが、句と実生活が切れている人なので、作品からは全然わからないところが多く、あちらはあちらで面白かったです。
現代詩は考えたら私も一部の著者を別として、最近あまり読んでいませんね。
城戸氏の詩集は現代詩文庫のがあったはずなので、もし読むとしたらその辺からでしょう。
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