tag:blogger.com,1999:blog-4734103401000226006.post8635208591697713313..comments2023-05-14T20:15:48.690+09:00Comments on ―俳句空間―豈weekly: 遷子を読む〔59〕yasnakamhttp://www.blogger.com/profile/08671629243313330081noreply@blogger.comBlogger1125tag:blogger.com,1999:blog-4734103401000226006.post-39290300250754317682010-05-22T01:08:38.341+09:002010-05-22T01:08:38.341+09:00酷寒に死して吹雪に葬らる 相馬遷子
『雪嶺』所収
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皆さんの読書はねばり強く、地味...酷寒に死して吹雪に葬らる 相馬遷子<br /> 『雪嶺』所収<br />***<br />皆さんの読書はねばり強く、地味な一作家から、一個の存在感とともに、その普遍思考を引き出そうとしておられて、この姿勢が好もしかったです。<br />主流作家の境地から得られるものとは違った馬酔木俳句の良さに感興を催しました。<br /> 「読書会を」(読んでいる姿)を読む、というのも、自分に禁欲を強いることになりました。何か言いたくなるし、書きたくなるし。<br />とても、かわった知的体験でした、ありがとう。<br /><br />*<br /> 私は、遷子の句では <br /><br /> 山深く花野はありて人はゐず <br /><br /> というのが最初の頃出てきたでしょう?あれが、一番好きだし、ヒューマニストの癖に人間的要素を脱色した自然描写の極地だと想っています。(想念の内なる人影がうじゃうじゃでてきますから、ネガとポジの関係のようかきがします。ぎゃくになっているともいえます)。<br />遷子という人のそういう内面の人と自然の交錯にあじわいがあります。<br /><br />まえに榎本冬一郎のことを想起したと書きましたが、<br /> 「メーデー終へて部下を市民の夜に帰す」<br /> 榎本冬一郎<br />この人は警察官、遷子は医者、ともに、職業柄一個人を公的な「市民:」「部下」。「患者」<br />「村人」というような呼び方になれている。最初から関係性のなかで社会的な的存在として見る習慣がついている、それが、表現の言い回しにでてきているような気がしました。<br /> 思いつきめいていますが、社会性俳句、という呼称の見直しのきっかけにもなるかとおもいます。<br /><br />A<br />卒中死田植の手足冷えしまま 『雪嶺』 〔46〕 <br />大寒や老農死して指逞し 『雪嶺』<br /><br />B<br />凍る夜の死者を診て来し顔洗ふ『山河』〔42〕<br />安楽死冴え返る夜を医師戻る 『雪嶺』<br />最初の<br />酷寒に死して吹雪に葬らる <br />これらは、ある概念化された関係にある「人」の状態から、一個人に戻ったときに、ふとおもいしらされる逃げ場のない自己のすがた。個体としての老農の死体、をみてしまった、、こういう句は遷子独壇上で、かつひじょうに心をうちます。<br />まあそんなところから、馬酔木の中の意識の重層をむきだしておられるのでなかいか、と。<br />感想一言。Unknownhttps://www.blogger.com/profile/00150502238276483466noreply@blogger.com