tag:blogger.com,1999:blog-4734103401000226006.post7361762296382961501..comments2023-05-14T20:15:48.690+09:00Comments on ―俳句空間―豈weekly: 中岡毅雄句集『啓示』yasnakamhttp://www.blogger.com/profile/08671629243313330081noreply@blogger.comBlogger2125tag:blogger.com,1999:blog-4734103401000226006.post-61546929746165162162009-07-23T21:36:10.883+09:002009-07-23T21:36:10.883+09:00堀本吟様
熱烈コメント有難うございます。
湿暑の時節、御身御大切に願いあげます。
『水取』や『一碧...堀本吟様<br /><br />熱烈コメント有難うございます。<br />湿暑の時節、御身御大切に願いあげます。<br />『水取』や『一碧』より今回の『啓示』の方が佳いのではというご意見、わたくしも同感でした。発病前の部分に限っても、より冴えた印象を受けました。高山れおなnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-4734103401000226006.post-69766761260741802902009-07-22T15:23:58.345+09:002009-07-22T15:23:58.345+09:00中岡毅雄さんの新句集『啓示』には、少なくともふたつの主要なモチーフがあり、一つは風景への憧れ、および...中岡毅雄さんの新句集『啓示』には、少なくともふたつの主要なモチーフがあり、一つは風景への憧れ、およびその現場に立とうとする視線や身体の動きの記録。<br />もう一つは彼の存在凡てを決定してしまうかの如き「病気」との戦いの記録。<br /><br />このふたつの方向への「記録」が彼の「表現」であるとおもわれます。<br /><br />旅吟の時間過程は、今まで彼が学んできた写生の方法で記録(表現)可能です。しかしとても美しい風景の連続で、この美しさ完成度にはただならぬものがあります。<br />まさに、れおなさんが書いている、「身体感覚に残った定型の記憶」の再生がとりわけ写生を通した典型化にむかって大きく作用しているはずです。<br /><br />引用<br />「中岡がいわば体に残った定型の記憶に勝手にさせる他ないためにもたらされている。表現の拡散を、定型の記憶が繋ぎとめているところに、独特の味が生まれているといった感じではないか。空を飛ぶ鳥が自由などではないように、中岡も実際のところ“自在”を得ているわけではない。」(高山れおな)<br /><br /><br />が、心身の病を、病とは認めないという戦い、ここに俳人としての転機を劃している、という意味で、作家論を書くとすればこれは、彼の中ではずせない句集となっています。<br /><br />鬱病に悩んでいる人は、私の関わっている永年の友人にもいます。中岡さんもここ数年そう言う友人のひとり(ミク友)です。<br />わたしだって、インターフェロンの薬物後遺症で一時的にそうなったことがあります。<br />低血圧症だし、交通事故でアタマを打ているので、今日みたいな梅雨の日には、不発の皆既日蝕みたいに、アタマがまるで回らないし気分が落ち込む。でも、これはバイオリズムだとおもって我慢していると、<br /><br />引き潮のごとく欝消え額の花 (毅雄)<br /><br />となります。これはよくできた俳句だなあ、と思うのは、私の情況にあっても中岡さんの句のちょうどこのような気分が行きつ戻りつする、それが景として活写されているからです。季節もちょうどいまごろ。「額の花」が巧みです。有り難いことにこの程度だから、病気とも思わず医者にもゆきません。<br /><br />その私が、中岡さんのような休職退職にまでの難関に見舞われ心身の退嬰に悩まされている人、の「心の記録」を、その表現としてのよろしさを、勝手に自分の現実にあてはめてしまった好いのかな、と、まあこんな拘泥がわいてきます。(俳句作品だけではなく、背後の作家の生存の場面に入らされることへの、自己防衛かも知れません。)<br /><br />今回のれおなさんの評文は、まえに大本義幸句集を評したときと同じく、他者の不遇にたいする万感の同情と共感(シンパシィ)を惜しんでいません。<br />これは、れおなさんのひじょうに優れた人間的な感受性を示すもので・・人としての品格をつくっているものです。<br />それに踏まえた、リリックな鑑賞文だと思いました。<br />(これは、高山れおなの中岡毅雄句集評への私の感想、です。)<br /><br />句集については、私は、特にこのなかの風景句の美しさに感動しています。まえの『水取』『一碧』やよりもいいなあ。<br /><br />あしあとがつづく凍湖のかなたま(毅雄)<br /><br />なぜなら、いずれ落ち込まされる現実の混濁かかえながら、澄明なかたへこころがうごかされるかぎり、そういう風景の奧にゆこうとしているあくがれるこころが、一句の動きを作っているからです。<br />対象世界=風景を静止させていないところがすばらしいとおもいました。<br /><br /><br />霧ふぶくなか山百合の数知れず(毅雄)<br /> <br />これは、実写としても異様な美学です。<br /><br />こういう病気というのはじつは病気というべきではないのではないか。人間の意識のある場面、と考えた方がいいのではないか、とつくづく考えさせられる句集です。<br /><br />新緑や宥(なだ)められても欝は欝 (毅雄)<br /><br />宥めようとは思いませんが、「人それぞれなやみがあるんですねえ。たいへんやねえ、ほんとに」と言ってあげたいです。こういう人には。<br /><br />みなさん、失職している中岡さんの句集を買ってあげましょう。コウイウ良い句集を読ませて貰ったのだから、貰った人はこういう人に限っては、定価の半分ほどでも小遣いを倹約してお祝いをあげましょう。私はそういたします。中岡さん、病苦を押しての快挙、おめでとうございます。(堀本 吟)Unknownhttps://www.blogger.com/profile/00150502238276483466noreply@blogger.com