2009年3月29日日曜日

第32号




第32号

2009年3月29日発行

遷子を読む

〔1〕冬麗の微塵となりて去らんとす

・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井   →読む

極私的『第21回現代俳句協会青年部シンポジウム「前衛俳句」は死んだのか』レポート(後篇)

         ・・・関 悦史   →読む

俳句九十九折(29)

俳人ファイル ⅩⅩⅠ 清水径子 

          ・・・冨田拓也   →読む

雪女と月光

眞鍋呉夫句集『月魄』を読む

          ・・・高山れおな   →読む

匿名批評とは、の問いを、かなり、遅まきながら・・
          ・・・救仁郷由美子   →読む
 

あとがき           →読む

豈同人の出版物      →読む

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あとがき(第32号)

あとがき(第32号)



■高山れおな

花嫁としての金子兜太についてお知りになりたい方は、関悦史氏の文章をお読み願います。人間グーグル筑紫磐井氏をして人間テープレコーダーと言わしめた関氏の、臨場感たっぷりの極私的レポート後篇です。

冨田拓也氏の「俳人ファイル」に、ようやく女性俳人が登場しました。筆者自身がいちばん驚いているようです。

「遷子を読む」はいよいよ本編。いきなり深い読解がなされています。

救仁郷由美子さんは初めての投稿。いわゆるひとつの十日の菊、ですが。



■中村安伸

先日逝去した祖父へのお悔やみのメッセージをいただいた方々に、深く感謝いたします。また、祖父の俳句へのご感想をくださった方もいらして、大変うれしく思っております。祖父もよろこんでいることでしょう。
毎年元日に祖父の口からこの句を聞くことを楽しみにしていたのですが、直接感想を伝えたことはなかったように思います。そのことが悔やまれます。

佐藤文香さんのブログ「B.U.819」の企画「呼ばれなかった私達が勝手に祝う週刊俳句101号」近作五句で参加させていただいております。これらの作品は、数日前ふらっと松本城(表紙の写真をご覧ください)を見に行ったとき、車中で作ったものでした。

眞鍋呉夫句集

雪女と月光
眞鍋呉夫句集『月魄』を読む

                       ・・・高山れおな



季語は雪月花の三つがあればいいと喝破したのは、安東次男だったか高橋睦郎だったか。眞鍋呉夫の俳句を読んでいてそんな極論を思い出したのは、多彩な季語を詠み分けようとする態度が眞鍋には希薄で、まさに雪月花に収斂してゆくような比較的少数の偏愛の季語を、表現の中で掘り下げる行き方を採っているのがあきらかだからだ。そもそも眞鍋の三冊の句集を並べてみるがいい。第一句集『花火』(*1)、第二句集『雪女』(*2)、第三句集『月魄(つきしろ)』(*3)――つまり句集名のうちに「花」「雪」「月」の語が含まれているのである。もちろん、日米開戦の年の九月、遺書のつもりで出版したという第一句集が『花火』と題されていたのは偶然で、第二句集あるいは第三句集を編む時点で、ひとつその偶然を生かして句集名で雪月花を揃い踏みさせてやれ、というアイディアが浮かんだのではないかと思う。『月魄』の「あとがき」には、

集名を『月魄』と名づけた理由の第一は、私が青年時代以来、どちらかといへば、太陽よりも月のはうが好きな夜行動物だからである。第二は、漠然とではあるが、この日頃、この巨大で無限定的な宇宙も、私のやうに孤独で無骨な極微の存在とその運動によつて成立してゐるだけではなく、間もなくその巨大な宇宙の象徴としての「月魄」と一体化する日がくるにちがひない、と思つてゐるからである。(*4)

とあって、もちろんこれはこれで本当のことに違いあるまいが、一方で人知れぬ悦びとして雪月花の文字の組み込みが仕掛けられたものであろう。一九九二年に刊行された『雪女』は、第三十回藤村記念歴程賞と第四十四回読売文学賞を相次いで受賞して広く話題にもなり、知る人ぞ知るこの小説家を俳諧国中の人として認知させることになった。まだ、俳句をはじめて数年だった評者も、かなりの興味を持って読んだ記憶がある。『雪女』の俳句は古格にかなった洗練された作風を示しながらも、その本質は文学青年風なロマンティシズムにあり、上記のような季語に対する態度からしても、未だ俳句的語法に完全に馴染めずにいた不熟の読み手にも取っ付き易かったものと思う。当時書き入れたしるしを見ると、

刺青の牡丹を突つく鱵かな
  ⇒「鱵」に「さより」とルビ

という句にぞっこんであったらしい。

若水の捩れて煙をあげにけり
  ⇒「捩」に「よぢ」とルビ
いのち得て恋に死にゆく傀儡かな
  ⇒「傀儡」に「くぐつ」とルビ
花冷のグラスの脚の細さかな
  ⇒「花冷」に「はなびえ」とルビ
竹皮を脱いで光をこぼしけり
月光に開きしままの大鋏
亀鳴くと喚びしあとのさびしさよ

  ⇒「喚」に「をら」とルビ
糸吐いて透きゆく蠶ひと恋し
  ⇒「蠶」に「かいこ」とルビ
露の戸を突き出て寂し釘の先

などの句にも二重丸が付いていて、なるほどこれらの句に影響を受けたことには身の覚えがあるから、今となっては多少複雑な気分がする。

花冷のちがふ乳房に逢ひにゆく
  ⇒「花冷」に「はなびえ」とルビ

この句集で最も有名なはずの掲句には、なぜかしるしが付いていない。こういうのは、いかにもな物語性を喜ぶ人と忌避する人に分かれそうだけど、例えば眞鍋の短編「ソラキガエシ」(*5)にはこの通りのことが書かれているわけで、小説家の俳句が小説風なのを批判しても仕方がないのだろう。現在の評者には、

現身の暈顕れしくさめかな
  ⇒「現身」に「うつしみ」、
    「暈顕」に「かさあらは」とルビ

あたりがとても面白い。花粉症などで立て続けにくしゃみをした時に、頭がだんだんぼおっとなってくるが、あの感じをいわば外からの視線で「現身の暈顕れし」と捉え返したのであろう。正岡子規の〈糸瓜咲て痰のつまりし仏かな〉の悲愴かつ諧謔的な自己客観視に通うところもありそうだ。もちろん、こちらはただのくしゃみだから悲愴というのではないけれど、自分のものでありながら必ずしも意のままになるわけではない肉体の不気味さと、その不気味な肉体を纏う形で現に自分が存在してしまっていることの淋しいような嬉しいような馬鹿馬鹿しいような気分が、巧みに表現されている。

『雪女』のあと眞鍋は、『眞鍋呉夫句集』(*6)という文庫版の選集を出していて、そこには『花火』『雪女』からの抄録に加え、『雪女』以後の未刊作品も収められているらしい。ただし、評者はその本は見ていないので今は置く。第三句集『月魄』は、『雪女』以後ではなく、この選句集が出た二〇〇二年以後の作から二百十三句を収めている。一頁一句組はこれまでと同じながら、版型は大ぶりな菊判でまことに堂々としたたたずまい。前句集同様、雪女の句があり、傀儡の句があり、あれこれの季語で桜を詠んだ句もまた多い。

青梅雨やうしろ姿の夢ばかり
青蚊帳や生木を裂いたやうな肌
古蓆立ちあがりたる野分かな
月の前肢をそろへて雁わたる
  ⇒「肢」に「あし」とルビ
時雨忌やそよぎはじめし燠の灰
またたいて枯野の光ふつと消え
音ならぬ音して雪の降りしきる
寒立馬肌触れあへば眼を細め
鬣の根に残りをり雪の粒

「露草」「釘隠」「白桃」「青鷺」「湧水」の五章に分かれたうちの「露草」の章より。主題的な繰り返し感は別にして、いささかの怪奇趣味を含んだ物語性といい、世界の細部に沈潜してゆく感覚性の冴えといい、前句集からの衰えは感じられない。とりわけ、〈月の前肢をそろへて雁わたる〉は、三島由紀夫が俵屋宗達の魅力を評して、装飾性と写実性とは楯の両面であると云々した言葉を連想させる秀逸。実際この句に描き出されている情景は現実の正確な描写と言ってもよいのに、読者にはむしろ装飾性の強い絵画を見せられたような感触が残る。その理由のひとつはもちろん、月と雁の組み合わせが、文学と美術を問わず中国の古典文化にまでさかのぼる典型的なクリシェを構成しているため。もうひとつは、「月の前」「肢をそろへて」という限定が、現実の視覚には有り得ないような明示性を喚起するためであろう。輪郭線というのは平面美術における約束事であって現実世界には存在しないわけだが、いわばこの句の内部は輪郭線によって文節化されているのである。

〈時雨忌やそよぎはじめし燠の灰〉は、火鉢や囲炉裏で暖をとった経験がほとんど無い評者などには少しばかり難解な句である。真赤になった燠の周りに熱せられた空気の流れが生じ、そこに火鉢の灰がかすかに飛ばされてゆくのが見えるということだろうか。時雨忌(=芭蕉忌。陽暦では十一月下旬)の頃の肌にしのび寄る暗さと寒さ、火鉢の中の熱と光、魅入られたように火を見つめる放心――そんな時間が、「そよぎはじめし」の一語によって繊細に捉えられている。

〈寒立馬肌触れあへば眼を細め〉もまた「月の前」の句にも似た明晰な絵画性を帯びている。しかし、「月の前」の純客観的な叙法に比べると、「寒立馬」には寓意性が強く出ているのは隠れもない。眞鍋の『露のきらめき――昭和期の文人たち』(*7)というエッセイ集には、その文学と生き方の双方に兄事してやまなかった檀一雄をはじめとして、矢山哲治、島尾敏雄、佐藤春夫、川上一雄、保田与重郎、佐々木基一など有名無名三十人あまりの文士たちとの交流が書きとめられている(俳人では加藤楸邨と森澄雄の名が見える)。その付き合いの濃厚さは、彼らにそれを許した文学の権威や理想が消滅した現在では地を払ってしまった類のものだが、眞鍋が記すところの行間にはしばしばそうした人間関係が醸し出す恍惚感のごときものが揺曳する。「肌触れあへば眼を細め」のような表現を、弱々しい感傷と誤解すべきではないだろう。感傷というならそれは孤独や悲惨が裏映りした、かなり激しい感傷なのである。

約束の蛍になつて来たと言ふ
初夢はあはれ顔なき汝が乳房
落し角跳ねて落ちゆく月の崖
遮断機のむかうの我もかぎろへる

「釘隠」の章より。“顔なき乳房”の痴情というか放埓ぶりが凄い。「約束の螢」は一句だけでも鑑賞できるが、作者の脳裏には前出『露のきらめき』に見える檀一雄の俳句があったはずだ。それは、檀の最初の妻・律子が死んだ時に詠んだ〈国破れ妻死んで我庭の蛍かな〉という句で、佐藤春夫はこの破調の句を前書に引きながら「白昼杜鵑(とけん)」という弔詞をしたため、当時、福岡県のある山寺に身を寄せていた檀に送った。この佐藤の励ましもあって檀が、着手にためらっていた『リツ子・その愛』『リツ子・その死』(*8)にとりかかることになったいきさつを記すあたりは、『露のきらめき』の中でも筆致が最も熱を帯びた部分である。

魂まつり兄は鉄底海峡より
  ⇒「鉄底海峡」に「アイアンボトム」とルビ
我はなほ屍衛兵望の夜も
  ⇒「屍衛兵」に「かばねゑいへい」とルビ
凩やにはかに増えし象の皺
まかじきの嘴の切口霜を帯び
  ノモンハン事件より六十年後の遺骨収容
鉄帽に軍靴をはけりどの骨も
空蝉やひとしからざる背の罅

「白桃」の章で目立つのは戦争を詠んだ句の多さだ。一句目の「鉄底海峡」と二句目の「屍衛兵」についてはそれぞれ左注がある。すなわち〈鉄底海峡はフィリピン・レイテ島とミンダナオ島間の海峡の通称 「大東亜戦争」末期には わが国の「軍艦の墓場」だといはれてゐた〉のであり、また、〈「大東亜戦争」当時の陸軍には 戦死者を荼毘にすることが可能な場合には 昼夜をとはずその棺の前に衛兵を立てることがあり これを屍衛兵と称してゐた〉とのことである。両句とも趣向の点で取り立ててすぐれているわけではないが、「鉄底海峡」「屍衛兵」の両語には魅力がある。しかし〈鉄帽に軍靴をはけりどの骨も〉の衝撃力に比較すると、まさにその語彙に頼ったところが弱点に見えてしまう。〈空蝉やひとしからざる背の罅〉も、すでに見た「寒立馬」の句と同様に客観的な叙述の中におのずからなる寓意性を帯びている。阿波野青畝の〈ふたたびは帰らず深き蝉の穴〉(*9)なども思い合わされる。

月光の沁みしが燻る焚火かな
  ⇒「燻」に「いぶ」とルビ
おくれ毛の影大いなる傀儡かな
花冷の水が縄綯ふ川の中
姿見にはいつてゆきし蛍かな
短夜のルーペでさがすチチカカ湖
煙突にあはれ枝なき良夜かな

「青鷺」の章より。〈月光の沁みしが燻る焚火かな〉は、月の光を湿度として読み替える視角が新鮮だ。〈おくれ毛の影大いなる傀儡かな〉は、俳句におけるライティングの妙。〈花冷の水が縄綯ふ川の中〉は、深い川の中に出来た小さな渦巻きを詠んだものだろうが、細やかな着眼をさらりと言いおろして素晴らしい。〈短夜のルーペでさがすチチカカ湖〉には、〈チチカカ湖はペルーの東南部に位置し ボリビアとの国境線によつて二分されてゐる〉との左注がある。琵琶湖の十二倍以上の面積がある大湖であり、標高は三千八百メートル余と富士山よりも高い。インカの創造神話のうちにはこの湖を舞台にしたものがあるという。夏の夜の逸興に世界地図でチチカカ湖を探しているとは、ペルーの古代史の本でも読んでいるのであろうか。この句の面白さは、ひとつには「ちちかかこ」という音韻の魅力に由来している。チチ=父、カカ=母、コ=子とまで分解するのは余計かも知れぬが、確かにそこにはこれらの語が隠されているのだし、さしもの大湖も地図上では豆粒ほどに描かれているのを老眼をしばたたかせながら探せば、だんだん視界がチカチカしてくるのに違いない。「ちちかかこ」は、このチカチカというオノマトペへの連想も孕んでいる。インカの悲史という背景は歴史小説集(*10)も持つ眞鍋らしいロマンティシズムへと繋がり、一方、特異な音韻は眞鍋の俳句に総じて希薄なユーモアをもたらす効果をあげている。

かまくらの灯りて青く透きとほり
真夜中に起きて刺しあふ傀儡かな
犯人は月光と言ふ親殺し
雪をんな裏階段をのぼりくる
永へてわが為に哭け雪女
  ⇒「永」に「ながら」とルビ

終章である「湧水」の章は、死への傾きが強い。中でも〈永へてわが為に哭け雪女〉は、数多くの雪女の句を詠んできたこの作者にしてはじめてなし得る絶唱である。前句集『雪女』の後記は、一種の季語論なのだが、そこに記された洞察はこの句の背後にある思いをよく説明している。やや長くなるが一部を引用しておこう。

俳句の歳時記には、まま、不思議な季語が残っている。冬の季語としての「雪女」「鎌鼬(かまいたち)」「竃猫(かまどねこ)」などはその数例にすぎぬが、宇宙ロケットによる月面への到達さえ可能となった今日、「雪女」や「鎌鼬」の実在を信じている人は、もうどこにもいまい。「竃猫」の存在が、すでに過去の事象として忘れられかけていることも、事実であろう。しかし、それではなぜ、

雪をんなこちふりむいていたともいふ  素逝
御僧の足してやりぬ鎌鼬  虚子
何もかも知つてをるなり竃猫  風生

というような句が、われわれの源泉の感情を揺り動かさずにはおかぬのか。

それには、なるほど、零落した信仰の残滓のせいだとか、雪を豊年の瑞祥として眺めてきた農耕的な心性のせいだとか、少なからぬ理由が考えられよう。しかし、だからといって、これらの季語を生みだすに至ったより根源的な契機が、われわれの生命の母胎としての自然への畏敬にほかならなかったことを見おとすならば、その眼は節穴にひとしい、と言われても仕方があるまい。

即ち、そういう本質的な意味では、「雪女」や「鎌鼬」や「竃猫」などは、時代錯誤的であるどころか、むしろ、最も未来的な可能性を孕んだ季語中の季語だ、といっても過言ではない。また、その本有の意義は、ほとんど上代の詩歌における歌枕の意義に相ひとしい。

掲句における「永へて」の一語には、齢八旬をはるかに超えた作者の死に対する意識と共に、「雪女」に「最も未来的な可能性」を見てさえいる独自の季語観もこめられているということになりそうだ。さらに言えば、「われわれの生命の母胎としての自然への畏敬」がそのまま「われわれの生命の母胎としての女性への畏敬」でもあるような眞鍋の女性観もまた、「雪女」という季語に対する執着の根拠になっているのであろうことは想像に難くない。

〈犯人は月光と言ふ親殺し〉は俳句ではまず見かけないモティーフの異様さに眼がゆくけれど、すでに『雪女』に、

親殺し子殺しの空しんと澄み

があり、この作者にあっては親子というモティーフを作品化するに際して、親殺し・子殺しの意匠が必要なのではないか、という予想に誘われる。断じてニュース報道に触発されての詠作ではなく、『オイディプス王』『メディア』以来の人間の関係性の悲劇が、耽美的な俳句と化したものに違いない。眞鍋の父のやや異常な死のいきさつを実録風に書いたとおぼしい短編「鳰の浮巣」(*11)は、この推定の傍証になるだろう。やや異常というのは眞鍋(彼は作中に実名で登場する)の父親は、母親が知人宅の留守を預かるためにしばらく家をあけていた間に心筋梗塞で亡くなり、死後数日して、それも母親ではなく、不審を感じて家にあがって調べた知人によって台所でこと切れているところを発見されているからだ。「チチシス」の電報を受け取った眞鍋は、出版社からの前借で金を作り、妻と共に生まれてはじめてのボーイング727で急遽、太宰府の実家に帰るのだが、顔を見ることを周囲に止められるほど遺体は腐敗が進んでいた。小説の最後の場面では、眞鍋は父親の幽霊と会話を交わしているのだから、細部にどんな潤色が施されているかは知れたものではないとはいえ、基本的に事実を踏まえて書かれている感触がある。

眞鍋に俳句を手ほどきしたのは、じつはこの父親であった。『月魄』所載の略年譜には、〈市井の遊俳として終始した父天門の影響で発句を作りはじめる。〉との記述が見える。「鳰の浮巣」に、焼香を済ませた眞鍋が父の部屋に入って感慨に耽る場面があるが、そこには吉岡禅寺洞の名が出てくる。

それはしかし、予想以上に平凡な、ありきたりの八畳間にすぎなかった。ただ、父の望みどおり、北側を除く三面が窓になっているので、昼間の眺めは格別であろうが、その夜は雨戸が閉めてあったから外は見えず、それだけに道具の少い部屋の中が妙に侘しく見えた。おそらく、この二三日の泊り客のために片づけたのであろう、目立つのは東側の壁ぎわに据えられた父のベッドだけで、その枕もとの壁に、

汐木をかかへてよろめいたもう年だといふか

父の青年時代以来の親友で、数年前に疎開地の桜井で物故した吉岡禅寺洞さんの半切であった。

すると、父はこの下に寝ていたのか。七十を越えても、なお汐木をかかえおこそうとしたのか。そうして力つきて倒れた揚句、禅寺洞さんのあとを追って「雲なき空」へ旅立っていこうというのか……

『雪女』や『月魄』の句が、すでに見たようにあえて古風を演じるようなところがあるのに対し、第一句集『花火』には新興俳句を読んでいる形跡があらわ。出版は一九四一年、著者は御茶ノ水の文化学院文学部に在籍する二十一歳という状況からして、そのこと自体になんの不思議もないのだが、島尾敏雄や阿川弘之、那珂太郎らと創刊した同人誌「こをろ」についての記述はあっても、俳句の研鑽の過程については情報が乏しかった。しかし、父親が禅寺洞の親友で、その父親に導かれて作りはじめた俳句なのであってみれば、新興俳句の影響はいよいよ以て当然すぎるというものだ。

秋空に人も花火も打ち上げよ
噴水の真上の蝶はもんしろてふ
あきかぜよランプをみがくひとに吹け
かなしみつのりくればしろぐつはきもあへず
螺旋階 青い手袋踏まれたり
  ⇒「螺旋階」に「らせんかい」とルビ
わが性はさびし運河に放尿す
  ⇒「性」に「さが」、「放尿」に「はうねう」とルビ
サーカスの道化観に来しわれも道化
  ⇒「道化観」に「だうけみ」とルビ
わがひとの不幸のほくろやみでもみえる
白壁に雨が降るなり旅のはて


草城、秋桜子、誓子、窓秋、赤黄男、鳳作……。たちどころにこれらの作者の影を感じ取ることができるだろう。それは個々の句の素材や叙法に限った話ではなく、連作が多い点にも現われていて、上記の花火や噴水、ランプなどは、それぞれの語をキーワードにした連作に含まれる句である。「ねむくなるうた 四句」などという可憐な作もあって、これはどういう時代精神の産物なのであろう。

国澄めり睡くなる海四方にある
南国に玻璃器ならべて商賈睡る
  ⇒「玻璃器」に「はりき」、「商賈」に「ひと」とルビ
風速計カラカラ廻り詩人の朝寝
枯木あり刧初の雲をめぐらしめ
  ⇒「刧初」に「ごふしよ」とルビ

眞鍋は一九四二年五月に応召して、下関重砲兵連隊に入隊、三ヶ月の教育期間を経て豊予要塞重砲兵連隊に転属し、佐賀の関沖の高島という無人島に駐屯したまま敗戦を迎えた。年譜によれば〈戦艦大和の最後の出撃〉を見送っているとのことで、「鉄底海峡」の句などに見えた“兄”とは実際の肉親ではなく、戦死者たちの象徴ということのようである。


(*1)眞鍋呉夫句集『花火』 原著:一九四一年 私家版/増補復刻版:一九九三年 沖積舎
(*2)眞鍋呉夫句集『雪女』 原著:一九九二年 冥草舎/新装版:一九九二年 沖積舎/『定本 雪女』 一九九八年 邑書林
(*3)眞鍋呉夫句集『月魄』 二〇〇九年一月二十五日刊 邑書林
(*4)眞鍋の三句集は、『雪女』の後記を除き、本文・後記類共に正漢字と歴史的仮名遣いで組まれているが、拙稿では煩を避け、常用字体で引用する。
(*5)眞鍋呉夫『飛ぶ男』(一九七九年 東京新聞出版局)所収
(*6)『眞鍋呉夫句集』 二〇〇二年 芸林21世紀文庫
(*7)眞鍋呉夫『露のきらめき――昭和期の文人たち』 一九九八年 KSS出版
(*8)檀一雄『リツ子・その愛』『リツ子・その死』 一九五〇年 作品社
(*9)阿波野青畝句集『宇宙』(一九九三年 青畝句集刊行会)所収
(*10)眞鍋呉夫『蟲の勇氣―西域小説集―』 一九七三年 財界展望新社
(*11)眞鍋呉夫『飛ぶ男』(一九七九年 東京新聞出版局)所収


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俳句九十九折(29) 俳人ファイル ⅩⅩⅠ 清水径子・・・冨田拓也

俳句九十九折(29)
俳人ファイル ⅩⅩⅠ 清水径子

                       ・・・冨田拓也

清水径子 15句
 
 
雪積んで一丁の斧しづまれり
 
ふと水のやうな炎天もの書けば
 
寒凪やはるかな鳥のやうにひとり
 
一灯があれば梟よりゆたか
 
蓑虫も盥の水も謎の世ぞ
 
長き夢みたる朝のまくわうり
  ⇒「朝」に「あした」とルビ
 
鳥に雲北北西はさびしけれ
 
ねころんで居ても絹莢出来て出来て
 
飛魂また大いぬたでに摑まりぬ
 
寒卵こつんと他界晴れわたり
 
死思へば君とのことは青葉木兎
 
慟哭のすべてを螢草といふ
 
天さびし熟麦あつく擦りあへば
 
おいしい水にわれはなりたや雲の峰
 
ちらちら雪弟よもう寝ましたか

 
 
略年譜
 

清水径子(しみず けいこ)
 
明治44年(1911) 東京に生れる
 
昭和12年(1937) 東京三にすすめられて、秋櫻子、誓子、草城を主軸とした新興俳句の作品、評論に興味を持つ。
 
昭和23年(1948) 「天狼」創刊。東京天狼句会に出席。
 
昭和24年(1949) 「氷海」創刊。翌年同人。
 
昭和48年(1973) 第1句集『鶸』
 
昭和52年(1977) 秋元不死男逝去。翌年「氷海」終刊。
 
昭和54年(1979) 中尾寿美子と共に永田耕衣の「琴座」へ投句、5月同人。「らんの会」結成。

昭和56年(1981) 第2句集『哀湖』。
 
平成6年(1994) 第3句集『夢殻』。 『俳句』9月号「特集・今日の句集 清水径子『夢殻』」
 
平成8年(1996) 「琴座」終刊。
 
平成10年(1998) 季刊同人誌「らん」を創刊。
 
平成13年(2001) 第4句集『雨の樹』。
 
平成14年(2002) 『雨の樹』で第17回詩歌文学館賞受賞。
 
平成17年(2005) 『清水径子全句集』刊 10月逝(94歳)

 

A 今回は清水径子を取り上げます。
 
B ようやく女性の作者の登場ですね。
 
A 清水径子は明治44年生まれで、平成17年に94歳で亡くなっています。
 
B 明治の末に生まれ、平成に亡くなったわけですから、明治、大正、昭和、平成という4つの元号を生きたことになりますね。
 
A 亡くなったのはまだ4年ほど前ですから、大変な長命でした。
 
B その句歴についてですが、俳句については、戦前から興味を持っていたそうですが、本格的な俳句活動を始めるのは、戦後からのようで、昭和23年の37歳の時に「天狼」の東京天狼句会に出席し、翌年には「氷海」の創刊に参加、同人となっています。
 
A そして、昭和48年、62歳に至ってようやく第1句集である『鶸』が刊行されます。
 
B 第1句集の刊行の時点で年齢がほぼ還暦であったということになりますね。
 
A このあたりが他の多くの俳人たちとはやや異なる点であるのかもしれません。
 
B では、その第1句集の作品から見ていきましょうか。
 
A まずは『鶸』の昭和40年以前の作品から〈雪積んで一丁の斧しづまれり〉を選びました。
 
B この句は佐藤鬼房が評価した作品であるそうです。
 
A 鬼房には〈切株があり愚直の斧があり〉という句がありますから、その作者がこの句を評価したという事実にはすこし興味深いものがあります。
 
B 鬼房の句のアグレッシブな動作の後の余韻を抱懐する静けさを封刻した内容と比べると、清水径子の句は雪が斧に降り積もっているところから、斧の刃の鋼鉄の部分のひややかさとその形象による静かな迫力が感じられるようです。
 
A 雪という、斧の硬質で強い性質を秘めたものさえも包み込んでしまうような、自然の持つ静かな力強さといったものも感じられるところがあります。
 
B 続いて昭和41年の〈ふと水のやうな炎天もの書けば〉を取り上げることにします。この句も第1句集『鶸』所載の作です。
 
A どことなく永田耕衣の〈物書きて天の如くに冷えゐたり〉を思い起こさせます。
 
B この第1句集における清水径子の作品には他にも〈初み空ひとの歩みの映るかな〉〈樹の上に遠し蜜柑の大粒は〉〈谿水を跳び傾くよ野菊と老い〉〈気おくれて鯛を愛せり春の暮〉などといった耕衣を意識したような句がいくつか見られます。
 
A 確かに耕衣の句である〈天上に映りて麦を刈り尽す〉〈夏蜜柑いづこも遠く思はるる〉〈夢みて老いて色塗れば野菊である〉〈近海に鯛睦み居る涅槃像〉を思わせるところがあります。
 
B 耕衣は「天狼」に所属していた時期もありましたから、この頃から清水径子には耕衣への興味というものは小さくなかったということになるようです。
 
A 続いて〈寒凪やはるかな鳥のやうにひとり〉を取り上げます。この句は第1句集『鶸』の昭和46年の作品です。
 
B 寒い冬の海が凪いで、静かな時に、その海を眺めているということなのでしょう。その自然の景観の大いさを前にして、自分自身の存在がはるかな遠いところを飛ぶ鳥そのもののようであると、その自身の孤独さを実感しているわけなのでしょう。
 
A この作者にとって「鳥」は生涯を通しての主要なモチーフの1つでした。
 
B 第1句集には、この句に見られる「鳥」というテーマの他に、さきほどに見た耕衣からの影響、そして、それだけではなく「さびしさ」や「孤独」、「やさしさ」、「変身」、「老い」といった生涯にわたって繰り返し追及されることとなるテーマが、この句集において既にほぼ胚胎されていたことがわかります。
 
A 作品としては、〈虻として飛ぶ充実の淋しけれ〉〈手足うごく寂しさ春の蚊を打てば〉〈蝶となり舟虫とある濤しぶき〉〈身が茂る青蘆原の蘆となり〉〈朝顔・雀・婆がもつとも朝よろこぶ〉〈綿虫を袖にうけとめ存へをり〉あたりということになりますね。清水径子の句業の根幹を成す基本の部分は、この第1句集の時点において既にある程度出揃っていたということですね。
 
B この第1句集『鶸』が刊行された当時清水径子は62歳でしたから、取り組むべきテーマはすでにこの時点である程度見定められていたものであったのかもしれません。この後はそれらのテーマに則沿うようなかたちで、作品における文体、即ち「語り口」が変化するという展開が見られます。
 
A ただ、この第1句集の時点では、まだその作品の上において清水径子独自の「語り口」が確認できないようなところがあるようです。
 
B 確かにまだ作品における言葉がやや生硬な表現である箇所が目立ち、これといった秀句が乏しいというのがこの『鶸』を読んだ後における偽らざる感想でした。
 
A では、続いて第2句集『哀湖』の作品を見ていきましょう。
 
B この句集になると言葉がやや洗練されて、各々の作品における表現が大分こなれてきているところがあります。
 
A 確かに〈虚栗夕日朝日と通り過ぎ〉〈露の世や小蕪は人なつかしげ〉〈一灯があれば梟よりゆたか〉あたりの作品を見ればそのあたりのことは首肯できるところがあります。
 
B この第2句集の時期である昭和52年には師の秋元不死男が逝去し、「氷海」も終刊することになります。そして、この後の昭和54年の1月から同じ「氷海」の同人であった中尾寿美子と共に、永田耕衣の「琴座」へ一投句者として投句を開始し、同年の5月には同人となります。
 
A かねてより私淑していた永田耕衣のところへ直接師事することになったわけですね。
 
B 直接師事する少し前の作品にも〈貝寄風に乗りたや山河みゆるべし〉〈踏み入りてももいろひとの桃畠〉〈大皿の鯛やさくらを見し思ひ〉といった耕衣の作風にこれまで以上に近接するような作品を確認することができます。
 
A 実際に師事した頃の作品が『哀湖』における昭和54年から56年の作品です。いくつか作品を引いておくと〈柩出しあとのとうすみとんぼかな〉〈瓜番に小さく月のあるばかり〉〈蓑虫も盥の水も謎の世ぞ〉〈うしろ手をつきてかなかなかなと鳴く〉〈風呂敷に残さず包む秋の暮〉〈形代はいまも泳ぎの半ばなる〉〈ぽつねんと坐せば葉のつく夏蜜柑〉ということになります。
 
B では続いて第3句集『夢殻』について見ていきましょう。
 
A この頃になると、永田耕衣の影響が作品の上に如実にあらわれるようになってきます。
 
B 確かに作品を見ると〈摺鉢にいかな睡蓮現はれむ〉〈長き夢みたる朝のまくわうり〉〈ねころんで居ても絹莢出来て出来て〉〈飛魂また大いぬたでに摑まりぬ〉など随分と奔放というか自在な表現になってきていますね。
 
A これまでの「鳥」や「さびしさ」を主題とした作品も〈鳥に雲北北西はさびしけれ〉〈板の間を飛べない鳥としてきさらぎ〉〈雲に鳥少しかなしき方にわれ〉〈われは風速九メートルの羽抜鶏〉〈鳥にはぐれてしもて黄色いハンカチフ〉といった具合に多彩な表現を見せています。
 
B また「さびしさ」という概念についても、このあたりの作品になると、これまでの作品に見られた単なる詠嘆とは異なる、どこかしら「明るい諦念」とでもいったような雰囲気がその作品の上にあらわれている変化が見られます。
 
A 他にもそのような作品として〈しばらくはなるようになる種茄子〉〈寒卵こつんと他界晴れわたり〉〈霜の橋この世の友は輝けり〉〈春の雨夢とわかつてもう晩年〉〈慟哭のすべてを螢草といふ〉などという句が見られますね。
 
B 中でも〈寒卵こつんと他界晴れわたり〉などという句を見ると、寒卵が割れた後、「他界」としてのこの世界を、卵の黄身がまるで太陽のように明るく照らして出しているかのような暖かな印象を受けます。
 
A 「他界」というとその言葉からはやや冷たいような印象を受けるところがありますが、この句には確かにある種の明るさが感じられますね。また〈慟哭のすべてを螢草といふ〉という句にしても、「慟哭」ですから、本来は1句の世界が大変悲しい印象となるところですが、それを「螢草」であると断言することで、「慟哭」に纏わる負の重いイメージを、大らかでやや明るい印象のものへと変化させているところがあります。
 
B この句集が制作された時期作者の年齢は既に70代ですから、この高齢でこのように作品が軽やかに変化したという事実には、なかなか痛快なものが感じさせられますね。
 
A あと、この句集からは〈桃のスープ人はやさしきことをする〉という句に見られるように「やさしさ」というモチーフが、これまでの「さびしさ」「鳥」「老い」「変身」と同じくらいに作品の前面に浮上し始めてきているような印象があります。
 
B これも「明るい諦念」とでもいったようなものが作用したために生起した変化であるのかもしれません。
 
A では、続いて第4句集『雨の樹』を見ていきましょう。
 
B この句集となると先の第3句集よりもさらに表現が練成されているところが作品から如実に読み取ることができます。
 
A 確かに〈菊といふ名の残菊のにひるかな〉〈春の野のどこからも見えぼへみあん〉などという随分とコミカルな表現の句も見られます。
 
B このとき作者は最早80歳代であったわけですから、この作品から感じられる柔軟な発想としなやかさはなんとも信じ難いものがあります。
 
A 俳人の大方は加齢とともにその作風が硬化してしまうところがありますから、まさしく自在の境地といった感じがします。
 
B 加齢とともにこのように変貌してゆける作者というものはあまり存在しないでしょうね。
 
A その点から考えても、この作者の作品展開は希少なものであると思います。
 
B これまでのテーマである「変身」の句を見ても〈おいしい水にわれはなりたや雲の峰〉〈ひとりで生れいまは河口の夕焼よ〉〈いま生れ変るとすれば窓の雪〉〈鳥帰る生きるといふは霞むなり〉〈夕暮れてひとり薺の花でゐる〉などとやはり大変自在です。
 
A この地点にきて清水径子における「変身」をテーマとする作品はひとつの完成を見たといってもいいのかもしれません。そして、これらの作品からも、それこそ「明るい諦念」といったものが感じられますね。人は誰もが老いて、死んでゆくという生滅の運命を避けて通ることができないわけですが、そういった事実に対しても無理なく向かい合うような姿勢が感じられるようです。
 
B また「さびしさ」というテーマの作品でも〈鳥帰る人の世は靴すり減らし〉〈白露けふ淋しきものに昼ご飯〉のようなストレートにその感傷を詠んだものもありますが、それだけではなく〈天さびし熟麦あつく擦りあへば〉といった単なる「さびしさ」のみではなく生命の力強さをも感じさせる作品も見られます。
 
A 「鳥」をテーマとする作品でも〈ほととぎす言葉みじかきほど恋し〉〈囀りのほかテーブルに何もなく〉〈花や鳥生れかはれば涅槃西風〉〈同じうたうたひつづける寒雀〉といったように、ここにも「明るい諦念」における自在さが感得できます。
 
B 先に取り上げた「やさしさ」というテーマを見ても〈月のぼるよと二階より声まぼろし〉〈どこからか姉来て坐る秋の風〉〈春の月やさしき人と居る心地〉などといったようにその作品は深化を見せているように思います。
 
A 先ほどにも触れたように、この句集は作者の80歳代の時の作品であるわけですが、ほとんど衰えが見えないというか、清水径子の句業におけるピークを示しているようなところがあると思います。
 
B そして、それはあまり無理のない自然な気息で作品が詠まれているようなところがありますね。
 
A 『雨の樹』以後の平成13年12月以降における作品についてですが、この時期の作品も〈その時が来たから野菊咲いてくれる〉〈ちらちら雪弟よもう寝ましたか〉〈梟も淋しいときは目をつぶる〉〈さびしいからこほろぎはまたはじめから〉〈朝顔の白い元気をもらひたし〉などといったようにこれまでのテーマが変わることなく作品に詠まれています。
 
B この時期作者は90代の前半です。
 
A やはりあまり無理なく作品が詠まれているような感じがありますね。

B 他にも〈わたしは誰生かされている月の下〉〈半世紀経つてしまへり昼寝覚〉などといった作品が見られ、最期に至るまで優れた作品が生み出されていたことを確認することができます。
 
A 清水径子は最後まで優れた作者であったというわけですね。
 
B 鳴戸奈菜さんが『俳句朝日』2006年7月号の追悼文「俳句第一義の人」という文章で、清水径子について〈慕って来る人にはやさしく心を配ったが、俳句に関しては自他に厳しく、勉強もよくされていた。ときに借りた結社誌の作品欄にはマルバツが施されていて、ここまで目を通しているのかと驚かされた。先日も蔵書の整理を手伝いにいって、句集のほかに文学論、詩論、俳論の類の本が多く、径子さんの来し方が想像された。〉と書いておられます。
 
A 随分と勉強家であったようですね。
 
B 耕衣からの影響や、その作品の終生における「鳥」、「さびしさ」や「孤独」、「変身」、「老い」、「やさしさ」といったモチーフと長期間にわたって向かい合い、徐々にその作風を深化させ、「明るい諦念」といった大らかな優しさを感じさせる自在な作品境地を獲得するに至ったプロセスの裏側には、このような弛まぬ姿勢での俳句研鑚とまさしく俳句への強い思いが存在したということなのでしょう。

 
 
選句余滴

 
清水径子


乳房もつ白鷺か森に隠れたり
 
初み空ひとの歩みの映るかな
 
木目よき柩を思ふ雲雀かな
 
誰もわるくない二階より寒い風
 
虚栗夕日朝日と通り過ぎ
 
露の世や小蕪は人なつかしげ
 
ただ高くある送火のあとの月
 
貝寄風に乗りたや山河みゆるべし
 
大皿の鯛やさくらを見し思ひ
 
瓜番に小さく月のあるばかり
 
風呂敷に残さず包む秋の暮
 
形代はいまも泳ぎの半ばなる
 
ぽつねんと坐せば葉のつく夏蜜柑
 
摺鉢にいかな睡蓮現はれむ
 
てのひらで見るあふとつや秋の暮
 
下半身幾尋ならむ葛の花
 
身体はときどき春の丘に立つ
 
板の間を飛べない鳥としてきさらぎ
 
考えてみてもむづかし柳の葉
 
生前の葦かしばらく話そうよ
 
倒れたる板間の葱に似て困る
 
雲に鳥少しかなしき方にわれ
 ⇒「方」に「かた」とルビ
 
生の空死の空いまは春の空
 
われは風速九メートルの羽抜鶏
 
追想をすれば真葛ヶ原くすくす
 
しばらくはなるようになる種茄子
 
鷺草は姉の納戸に咲きかかり
 
春の雨夢とわかつてもう晩年
 
桃のスープ人はやさしきことをする
 
鳥にはぐれてしもて黄色いハンカチフ
 
われは草死ねばこの家のほうき草
 
睡魔ゐて螢袋を出られぬ日
 
鶴来るか夕空美しくしてゐる
 
菊といふ名の残菊のにひるかな
 
溺愛をするべく雪はまだ序曲
 
春の野のどこからも見えぼへみあん
 
水の精かかときれいな葦の花
 
ほととぎす言葉みじかきほど恋し
 
ひとりで生れいまは河口の夕焼よ
 
いま生れ変るとすれば窓の雪
 
鳥帰る生きるといふは霞むなり
 
いい顔で睡てゐる月の列車かな
 
晴るるまで居れと送り火焚きながら
 
うたた寝の流れつきたる春の岸
 
芳しきむぎわらとんぼではないか
 
のど飴を静かな冬と思ひをる
 
囀りのほかテーブルに何もなく
 
水澄んで急には見えぬ父と母
 
月のぼるよと二階より声まぼろし
 
どこからか姉来て坐る秋の風
 
春の月やさしき人と居る心地
 
花や鳥生れかはれば涅槃西風
 
同じうたうたひつづける寒雀
 
梟も淋しいときは目をつぶる
 
わたしは誰生かされている月の下
 
半世紀経つてしまへり昼寝覚
 
生きている限りは老婆秋ふかし


 
 
俳人の言葉
 
俳句という詩の中に、美しい五体を持つ人間が居るという事は、俳句のもろもろの論理に優先するというのが、かねてからの私の論理である
 
清水径子 『雨の樹』 「あとがき」より

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2009年3月28日土曜日

遷子を読む(1)

遷子を読む〔1〕

・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井


冬麗の微塵となりて去らんとす  『山河』

筑紫:それでは、まず私の選んだ句から始めさせていただきたいと思います。

この句は、遷子の最晩年、昭和50年冬の句です。遷子の亡くなったのは昭和51年1月19日ですが、この句はその1ヶ月半前の11月26日に詠まれたものであることが句帳によって分かっています。遷子はあまり推敲をしない人なのですが、この句は、

冬麗に何も残さず去らんとす

を原案とし、表記の句に改められています。

この句は、句集『山河』の末尾から21句目の作品ですが、多くの読者には、遷子の絶句として受け取られています。例えば、福永耕二は「相馬遷子覚書」という長編評論(昭和51年6月「俳句とエッセイ」)を執筆していますが、その最後を締め括るのはこの句でありました。句集末尾の句は

わが生死食思にかかる十二月

ですから、『山河』は昭和50年中の作品で終了していることになります。ですから絶句といってもそう間違っていることにはならないと思います。最後の作品に価値があるのではなく、遷子その人を彷彿たらしめる句であるかどうかということだからです。そして、まさに遷子その人を彷彿たらしめているのがこの句であるのです。

遷子は無神論者であると思われます(「無宗教者死なばいづこへさくらどき」『山河』)。従って、死んだあとには、死後の世界も来世もありません。こんな虚無の中へ帰って行くのですが、にもかかわらず、「冬麗の微塵」という美しい終末を確信しています。ここらあたりは、「馬酔木」的な俳句の美への信仰というより、武士の風格のようなものを感じてしまいます。死後が何もないのなら、せめて自分の意志で粛然と死んでゆくというのは、とてもできないことながら羨望を感じてしまいます。すでに前回述べましたが、福永耕二の「俳句は姿勢」をそのまま引き受けたような句であると思います。

中西:この二句前に「病急激に悪化、近き死を覚悟す」とまえがきのある

死の床に死病を学ぶ師走かな

という句があります。医師ですから次はどうなるか自分の病状が分かっていたのではないかと思います。原句の冬麗に何も残さず去らんとす」こちらはその時思った素直な気持ちではないでしょうか。戦争体験世代の明治大正生まれの世代は、死に格別なものを持っているように思うのです。家の父なども、昨年11月に亡くなったのですが、やはり医師でしたので、自分の死を知っていたようです。入院する前に手紙、記録類をすべて処分してありました。身奇麗に死にたいという願望を実践したのでした。この句も形あるものは残さないということかと思います。しかし、俳人の部分は句集として残りますね。この矛盾。しかし、この時はすべて消したかったのではないでしょうか。この「何も残さず」を「微塵となりて」に直したのは、やはり本物の俳人なのだと思います。直したことによって、詩が深くなって、ここに美が生まれました。この精神の高さが、相馬遷子の句として完成をみせていると思います。死に直面して、詩人の業が顕在化したと見ていいかと思うのですが如何でしょう。医師ですから今までに多くの死と対峙してきたはずです。ですから、自分に死が訪れたときどうするか、癌と知った時から少しずつ思い描いていたのではないでしょうか。この句は願望です。願望だからこその美しさなのでしょう。

原:生涯を締め括る句が真っ先に来ましたね。磐井さんに「遷子は無神論者」と言われてはっとしました。我々の大方がそうだと思いますが冠婚葬祭の時以外、神仏には無関心というのが普通ですし、ましてや遷子は医師ですから科学的認識の人でしょうしね。死に際して縋るものは無いわけです。だからこそ「微塵」となる、「微塵」でしかない、との覚悟が痛切にひびきます。と同時に、この一句だけ取り出して見ると、峻烈とさえ言いたいほどの意志を感じて近づきがたい思いにもさせられるのですが、たとえば、胃癌を発症した昭和49年の作、

わが山河まだ見尽くさず花辛夷

磐井・義紀両氏の共選でしたが、仮りに、この句と対にして眺めると遷子の郷土愛といいますか、郷土の自然への信頼とダブって伝わってきて、この「微塵」が自然に還る究極の相として、祈りのようにみえてきます。とはいえ、句集では掲出句に続いて、さらに切迫した状況が詠まれてゆくのですけれど。

中七部分の原案が「何も残さず」だったというのは今回初めて知りました。生まな心情の吐露を捨てる。最悪の体調のさなか凄い推敲をするものだと溜息が出ました。この表現の推移について、ご意見があれば伺ってみたいのですが。原句においては、この世に後ろ髪を引かれる思いが全面に出ているのに対し、成案は自分の死のあり方自体を詠んでいる。死という孤独を見据えた先に「微塵」が現れてきたと感じます。

深谷:いきなり最終楽章ですね(笑)。この句は、遷子の作品のなかで最も著名な作品と言えるでしょう。しかしそれ以上に、筑紫さんの発言にあるように遷子という俳人を象徴する作品だと思いますし、敢えて言えばこの一句を残すためにその俳句人生があったのではないかという気さえします。それほど印象鮮烈な句です。そして遷子がこうした境地に到ったのは死の間際ではなく、実はかなり以前から遷子は「自分の死」あるいは「死に様」というものを意識していたのではないかと思います。小生の十句選にも入れました

春の服買ふや餘命を意識して  『雪嶺』

は、遷子が五十歳の時の作品です。ちょうど今の自分とほぼ同じ年齢ですが、余りにも早過ぎる気がします。実際に逝去する18年も前です。若い頃に重い病を患った体験が影響しているのかもしれません。そして、もうひとつ

元日や部屋に浮く塵うつくしき  『草枕』

という句が戦時中函館での病院勤務時代にあります。冬日を浴びて、静かに室内に浮かぶ塵。独断を懼れずに言えば、この映像が40年後、死に臨む遷子の脳裏に蘇ってきたのではないかとも考えます。いずれにせよ、「死んだら富も名誉も一切関係ない。かつて自分が看取った貧しい患者達と同じように、静かにこの世を去っていくのだ」という遷子の覚悟を感ぜずにはいられません。

窪田:今回の「冬麗」の句に触発されて、医者である遷子が、老いや病気をどう詠んでいるのか知りたくなって、句集『草枕』から『山河』までの四冊から「病・老・死」に関係のありそうな句を抜いてみました。患者を詠んだ句は、『雪嶺』が最も多く他の句集では僅かです。遷子自身の病の句は、『雪嶺』までは次第に増えますがそれほど多くはありません。『山河』では急増し昭和49年・50年の作品はほとんど全てが病との戦いの句です。当然と言えば当然ですね。でも、こうして句を並べて見ると、遷子の病・老・死に対する態度というようなものがうっすらではありますが、見えてくる気がしました。大雑把に言えば、生々しい生への執着が薄れ(諦めかもしれません)山河あるいは宇宙へ帰っていくという一種のアニミズム的な思いへ移行していったように思えるのです。

桐の花人死す前もその後も  昭和45年



高空の無より生れて春の雲  昭和49年

の句があるように、遷子の中には自然、宇宙への畏敬のようなものが元々あったと思います。それが山河、自然の美を詠もうという遷子の作句態度に反映したのではないか。同時に

あきらめし命なほ惜し冬茜  昭和50年

などの句を読むと、人間相馬遷子の生々しさを思わずにはいられません。

一方、磐井さんの言われる「虚無の中へ帰って行く」ということもわかります。死を覚悟した遷子の詠んだ「冬麗の微塵となりて去らんとす」は、磐井さんの言われた「武士の風格」を確かに感じます。しかし、今回「病・老・死」の句を抜き出し並べて読んだことによって、遷子の人間らしい弱さと強さに思いが残り、すっきり「武士の風格」と言えなくなってしまったのです。そんなわけで、俳句をどう読むか、どう読んだらいいのかちょっと悩みました。

(参考)富田拓也(「俳句九十九折」26より)
B この句が遷子の句の中では最も有名なものであるのかもしれません。
A 自らの最期をこのように句に表現したところに、なにかしら作者の精神の剛さのようなものすら感じられますね。
B 冬の麗らかに晴れた日、その澄み渡った青い空の下、自らが細かい塵となってこの世界から去っていくということを、ごく自然なものとして捉えているように思われます。

筑紫:メンバーではありませんが、富田拓也氏の、「俳句九十九折(26) 俳人ファイル ⅩⅧ 相馬遷子」をこれからときおり引用させていただきます。いいタイミングで書いていただきました。

いきなり遷子最後の句を取り上げたので皆さん面食らっているようですが、句集の順番通り取り上げるよりはこの方が各人の関心にあわせて研究できるかと思ったためです。前号の10句選を見ても分かるように、ものの見事に各自の選は異なっていました。遷子自身の作品が皆に知れ渡っているわけでは無いということの他に、今回集った参加者の遷子への関心のあり処がそれぞれ異なっていると言うことを意味しているからかも知れません。
例えば、私の関心はおそらく次のような項目に集約されると思います。

①遷子は一流の俳人ではないのではないか。
②ないとしても、一流の俳人にないものがあるのではないか。
③われわれは、たった一人となったとき、俳句とどう向き合うべきか。

こうしたシリアスな質問に、虚子も龍太も答えてくれません。長年俳句をやってきたお蔭で、俳句の嘘や作者のポーズは何となく見抜けるようになった気がします、おそらくこうしたまじめな質問に答えてくれる作家は(楸邨や草田男でもなく)相馬遷子たった一人しかいないように思えるのです。

例えば、今回取り上げた句―――「何も残さず」を「微塵となりて」にあらためる心境は虚飾のように見えなくもありません。しかし、生涯の最後に残す1句のために俳人は俳句を作り続けるとしたら、この推敲はじゅうぶん分かるのです。というよりは、句の是非を越えて、かかる態度に粛然とせざるを得ないのです。

窪田さんの述べられている「遷子の人間らしい弱さと強さ」についてはまた改めて考えてみたいと思います。

冒頭に述べられた中西さんの御父君の体験談は、医師の持つこのような覚悟を身近に述べられていて貴重です。
                      (以上〔1〕終わり)


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■関連記事

遷子を読む はじめに・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井   →読む

俳句九十九折(26) 俳人ファイル ⅩⅧ 相馬遷子・・・冨田拓也   →読む
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現俳協シンポ(宇井・田中他)

極私的『第21回現代俳句協会青年部シンポジウム「前衛俳句」は死んだのか』レポート(後篇)

                       ・・・関 悦史


金子兜太講演後の休憩が終わって、午後2時40分からシンポジウム開始。

まず総合司会・橋本直氏から今回のパネラーと司会者の簡単な紹介、パネラーは荻原裕幸氏(歌人)、城戸朱理氏(詩人)、田中亜美氏(俳人)、須藤徹氏(現代俳句協会青年部長)の4氏で、司会者が青年部の宇井十間氏。その宇井氏の主旨報告から。

宇井十間 《今回のシンポジウムは、これまでに現代俳句協会青年部の勉強会で阿部完市、鈴木六林男を取り上げてきたのに続く前衛俳句を再考する企画の第3回に当たるわけですが、この企画の立案の動機は、今の俳句状況に対する違和感を言葉にしたかったということです。今の俳句が可能性を尽くしているとは思えない。それに揺さぶりをかけるため読まれていない前衛俳句を読み返したかった。歴史的名称としての「前衛俳句」に対して、そもそも価値がない、あるいは存在しないという結論が出る可能性もありますが、そうなったらそうなったでいいと思っています。

その時代その時代への違和を「前衛」と呼ぶべきか。例えば普段「伝統」的な俳句として読まれている鷹羽狩行や飯田龍太は必ずしも「伝統」の枠内には収まっていないのではないかとも思われるし、一方に外国人の詠み手による国際俳句が盛んになっていく中で、俳句の概念が不安定に理解されていっているという状況がある。これは歴史的な意味での「前衛俳句」と似てはいないだろうか、だから今読むのも面白かろう、先入観なく再評価したいということです。

パンフレットには「戦後俳句略年表」というの(年次とその年の主な句だけを並べた3ページほどの表)が載っていますが、実は僕は「再考」と年表とは相容れないのではないかと反対したんですね。》

ここからスクリーンを使ってのプレゼンテーションとなり、引き続き宇井氏の話。

宇井 《中村草田男の句集『銀河依然』(1952年)の跋文で草田男が「叙情性・詩性」から「思索性」へという見通しを示しているのが、その後の「伝統俳句」から「前衛俳句」への動きを予言しているように見える、はたしてそれ以外の第三存在は可能なのか。

造型論の「イメージ」は「メタファー」とほぼ等しいと思われるが、反対に阿部完市はオートマティズム的に概念レベルではなく韻律レベルでアノマリに向かっているのではないか。アノマリというのは概念的思考に収まりきらない外れるもの、つねにそこから離れるものを指すのでメタファーとは反対です。メタファーというのは概念と概念とで作られるものですから。

草田男は形而上と形而下両方の要素があって観念論的とか独善的とか言われ、後続との軋轢を生んだ。これは「前衛」と似ているのではないか。》

「国際俳句」の作例も数点紹介された。インドの俳人の「彼らは信じる/彼らは信じない/彼らは信じる」という当地の宗教対立事情を踏まえたと思しき作品、台湾出身・アメリカ国籍の俳人の「無限/それから水平線に/釣り船」という作品など。

宇井 《句会でこういうのが出てきたら「これは俳句じゃないよな」となるでしょうが、従来の「俳句」の概念に入っていなくてもそういう作品が現にある。》

ここまでで「俳句」及び「前衛俳句」という概念規定を揺るがせようという話が一段落。以後、パネラー4人が順番におのおのの基本的な視座を話していく。

田中亜美 《「前衛」とか「新興」とかでの二項対立という図式自体が古いのではないか。そういう二項対立を超える動きがあちこちで出ていて、例えば「豈」39号関西篇での前衛俳句特集――大変いい特集でしたが――や、自分が所属している「海程」でも林田紀音夫を読み直すという企画が進んでいます、さらに片山由美子・櫂未知子ら(明らかに前衛の系譜ではない俳人たち)の編纂で去年刊行された『覚えておきたい極めつけの名句1000』(角川学芸出版)にまで金子兜太、林田紀音夫の句がけっこう収録されているんですね。

辞書的には「前衛俳句」とは――角川の辞典で「前衛俳句」の項目は阿部完市が書いているんですが――「積極的表出活動を求める」「前駆的」(な傾向の作品で)、「無意識」の領域を探る、「俳諧・有季への固着を超えるもの」「社会性俳句に直接して出現」したもので、そういう歴史的な意味での前衛俳句とは別に「俳句前衛という志は常に」あるというふうにまとめています。

私はもともとパウル・ツェランというドイツ語の詩人の研究をしていまして、そもそも戦後、言語を絶する物事をどう表現して言語化していくかという問題があるわけですが、そういうところから金子兜太や阿部完市に通底するものを感じています。》

荻原裕幸 《「前衛」という言葉、雑談でもあまり今使いませんが、短歌の方がこの「前衛」という言葉を出せますね。

短歌をやる人たちというのは歴史好き、年譜好きな人が多くて(宇井さんはパンフレットに年譜を載せるのに反対とおっしゃっていましたが)、ここまで(宇井さん、田中さん)の話を聴いていて、こんな一般論のどこにでもあることを俳句ではなぜ言えるのかと思いました。個々の興味深い事象はあっても(俳句界全体が俳句の)歴史を共有していないのではないか。

短歌で特徴的なのは、金子兜太さんのお話で「嘘がつける」というのがありましたけれども、一から七か八くらいくらいまでは自己言及なんですね。〈私〉をどう描くか。

前衛といえば短歌ではいわゆる四天王(塚本邦雄・岡井隆・寺山修司・春日井建)のことという共有されている解がありまして、これは菱川善夫という、評論だけに特化した評論家が作った枠組みです。俳句では高柳重信は作家・評論家・編集者と一人で何役もこなしていた(ので、そういう枠組みが共有されにくかったのかもしれませんが)。

短歌では今、「前衛」という語は(討論の際などの)見出しには出ない。70年代に特集記事や論が集中的に出て、それが終わった後は(もう)定着しています。》

城戸朱理 《前衛俳句や前衛短歌というものは時代性の中で位置づけられるわけですが、前衛詩というものはないわけです。詩は『新体詩抄』から先、全部前衛だったのではないか。

明治まで日本人にとって世界というのは唐(中国)・天竺(インド)・日本の三国だけだったわけですが、欧米列強の脅威にさらされ、自らのアイデンティティを探らなければならなくなった。そのとき初めて旧来の俳諧や漢詩等ではない新体詩としての自由詩が始まるわけです。

この呼び方は大正にはもう使われなくなりますが、基本的には(新体詩といっても)五七調・七五調でした。それが萩原朔太郎によって終わります。

欧米のような詩を(という欲求)から始まったのが新体詩だとすれば、それ以後の詩は海外のアヴァンギャルドから直接影響を受けたものと言えるでしょう。

いま2009年に「前衛」をめぐるシンポジウムが開かれるというのも趣き深いといいますか、マリネッティ(イタリアの詩人)が「未来派宣言」を発表したのが1909年で、今年はそれからちょうど100年目なんですね。1914年に第一次大戦があり、その後1916年頃にツァラによる「ダダイズム」の命名があって、その前にエズラ・パウンドによるイマジズム運動、これは俳句から影響を受けたものですが、これがさらに英語圏のモダニズム運動へと繋がっていく。

この(ダダ発生の)頃のチューリヒというのは兵役拒否の連中が集まっていてレーニン、ジョイスなどもいたわけですが、ここからヨーロッパ各地に(ダダが)飛び火し、パリではダダを離脱したブルトンが1924年に「シュルレアリスム宣言」を出して美術へも広がっていく。これらの動きが(わずか)数年のタイムラグで日本にも紹介されています。そこに「前衛詩」という名が存在しなかった理由がある。

自由詩は形式を考え続けること(自体)だけが形式なので、そのつらさから逃れて詩人が俳句に行ったりすることもあるわけですが、大体詩人が俳句をやるとどうしようもない伝統俳句を作ってしまう。

詩では俳句や短歌の「前衛」に当たるものは「戦後詩」と呼ばれています。田村隆一をはじめとする荒地派などですが、西脇順三郎の影響が非常に大きい。西脇はオックスフォードに留学していて1922年に出たジョイスの『ユリシーズ』やT・S・エリオットの『荒地』に生で接している。それが帰国して旧来の詩と違うものを作ろうとする。現代詩と呼ばれるものの発端は西脇ではなかったか。詩集『Ambarvalia(アムバルワリア)』(1933年)、この「アムバルワリア」というのは豊穣の女神への祭を意味していますが、その巻頭に収められた「天気」という短い詩は「(覆された宝石)のやうな朝」と始まる。新たな世界、世界が自らを語る。ここには「私」がない。私の感情ではなく言語が、世界が自らを語っている。

(戦後詩誌の)『荒地』は前衛俳句と並行していて、メタファーとシンボルによって語りえないものを語ろうとしている。(ところが逆に)その中で今日最も偉大とされている田村隆一は直接的・明示的な言葉で書いています。それが散文とどう違うロジックを作りあげるか。「水」という詩の場合だと…》

どんな死も中断にすぎない
詩は「完成」の放棄だ

神奈川県大山(おおやま)のふもとで
水を飲んだら

匂いがあって味があって
音まで聞こえる

詩は本質的に定型なのだ
どんな人生にも頭韻と脚韻がある

           (田村隆一「水」全文)

《…とメタファーではなく、非常に散文的で、中国的な対句法のような方法で構築されています。》

須藤徹 《今回のシンポジウムのテーマ、『「前衛俳句」は死んだのか』というのは大変困って苦し紛れにこういうタイトルになりましたが、『未定』という雑誌の方で「詩は死んだのか」という特集企画が進行中で、『「前衛俳句」は死んだのか』というのと「詩は死んだのか」というのとは若干違っています。

アノマリ(非定型性)という言葉が出ましたが、阿部完市の句は固定観念からの解放で、観念がないことを特徴としている。意志はあって、何をどうというところが脱落している。

(前衛俳句については)飯島晴子は、前衛俳句は時間をかけて俳句形式そのものに滅ぼされたのだと言っている。折笠美秋は、前衛――それは去ったのであり、来つつあると、ロラン・バルトは(前衛とは)何が死んだのかを知っている(ものだ)と言っています。》

以上で最初のプレゼンテーション一巡が終了。

各々の基調報告を踏まえて司会の宇井氏が田中氏に「ツェランと阿部完市の通底とは、具体的にどういうところが」と訊き、田中氏はそれよりもと「前衛俳句」の理解が短歌に比べてバラバラなことに驚きを示し、「前衛」の規定をかすめるような堺谷真人氏(だったか)の「(前衛俳句は)ありとあらゆる実験で(俳句の領域)を広げた。何を・どこまでというのを一度徹底的にやってくれた」という談話を引きつつ、ツェランの詩には言葉を刈り込んでいくことで俳句と通じるものが出てくるのではないかという仮説を抱えていると返答。

次に宇井氏から荻原氏への質問。

宇井 《どうして「前衛短歌」がニューウェイブ辺りからよまれなくなったのでしょうか?》

荻原 《80年代くらいに文芸全般ですごく大きな断絶があった。俳句ではどうだかわからないのですがポストモダンと呼ばれる動きですね。》

宇井 《断絶とはどういう?》

荻原 《例えば私の師匠である塚本邦雄に、「青春」という語が入っているこういう歌があるんですね。「ロミオ洋品店春服の青年像下半身無し***さらば青春」(会場、微妙な笑い)。この青春という言葉、当時でもギリギリだったんですが今はもうありえない。皮肉としてすら効かない。短歌では“私語り”を超えようとして、前衛短歌の後は、結局“私語り”に戻ってしまったのではないかという気がします。》

城戸 《短歌は端的に“私語り”なので、変わったのは世界の方ですね。日本では「人生五十年」と言われてきましたが、これは『往生要集』にもともとそういう捉え方があって、40代はもう「老人」だったわけです。それが1960年前後に平均寿命が60まで伸びた。

それ以前は確かなものだった「冷戦構造」とかがあって、それに向かいあって自分の位置を定めることが出来たんですが、80年代以後、情報社会となると「世界」が多数化してその分裂が「私」に及び、ニューウェイブ系以後の日常性が出てきた。

なぜ20世紀初頭にアヴァンギャルドが現われたかというと、そこで認識・精神が激しく揺さぶられるということがあったからです。19世紀と20世紀では、馬車やガス灯から自動車・電気へと世界・生活が変わっていて、マルコーニが1902年に無線を発明し、ライト兄弟が1904年に飛行機を飛ばすことに成功する。距離感が変わるわけで、オリエンテーション(所在意識)をテクノロジーが変えてしまった。十五年戦争を経て前衛短歌・俳句は、言葉にし得ないことをいかに表現するかを迫られた。数年前、読売新聞に俳句に潜む前衛性について書いたのですが、つまり俳句形式には本質的に前衛性が含まれているのではないか。》

須藤 《時代性について言うとヨーロッパではジャン=フランソワ・リオタールが大きな物語の終焉ということを言ったわけですが、それまでは例えばモダニティ、産業革命、殖産興業、戦後民主主義、労働運動、そういった一つの大きな物語に向かっていた“幸福な”時代でその中で社会性俳句も出てきた。しかし80年代以降、大きな物語が見当たらない。一人一色になってしまった。阿部完市の俳句など、反写実的にメタファー、アイロニー、リズムの変化などで私性・日常性を超克しようとし、フィクションとしての言語の構築をはかる方向が出てきたが、大きな物語がないと危なくなってくる、共通項がなくなってくる。》

これに荻原氏が革命挫折以後の変化ではとの補足を入れたのを受けて、城戸氏が「68年革命」前後について語る。

城戸 《ソ連の冗談に「一番信用出来るのが時報、次が天気予報、一番信用出来ないのがニュース」というのがありましたが、ソ連は強制収容所で200万人ともいわれる死者を出し、中国も大躍進政策の失敗で200万から2000万人といわれる餓死者を出している。イタリアやドイツの極左はテロに走り、モロ事件(イタリアの元首相が誘拐殺害された事件)まで起きた。こうした社会主義の「死の論理」に対して、資本主義はひたすら生(セックスを含む)の称揚に走る。その図式自体が91年に(ソビエト連邦崩壊によって)消失し、一人一人しかいない個人鎖国の状態になってしまった。ただ日本では文化は大体鎖国の時期に生まれています。菅原道真が遣唐使を廃してから国風文化が現われ、江戸時代に歌舞伎をはじめとするいろんな文化が花開く。いま「オタク」というのは海外では非常にポジティヴに扱われていますね。ポスト・ヒューマン展といった展示があるとオタクが人類の新しい姿みたいなことになっている。そんな立派なものだろうかと思いますが(笑)。芸術に関わる人間にとって90年代以後というのはジャンル自体が揺らいでいる時代ですね。

フランスの海外県(旧植民地)にマルティニーク島というのがあって、ノーベル文学賞を取った詩人のデレック・ウォルコットもこの近くの出身、ウォルコットは英語圏の詩人ですが、マルティニーク出身のエドゥアール・グリッサンに『全‐世界論』という素晴らしい本があってグリッサンはそこで、世界は列島化した、かつての世界もない、それに向かい合う“私”もないと言っているんですが、そこをまともに引き受ける力があるのは詩(詩歌)ではないか。》

ここで司会の宇井氏から《草田男が今生きていてもやはり(かつての草田男の個性・個体性に則り、その延長上の)同じようなものを作っていたのではないか。(何でもかんでも世界状況に還元する)世界状況論は限界があるのではないかと思うんですが。》という疑義が入り、城戸氏がやや別の方向から応対。宇井氏が冒頭の主旨報告で外国人俳人たちの各国語での実作を引きつつ触れた「俳句の概念自体の自明性が世界俳句の発生によって揺らいでいるのではないか」という視点に反論する。

城戸 《俳句というのは日本語からしか生まれません。日本語とあと韓国語以外の言語は全部主語論理、それに対して日本語は述語論理で出来ています。『源氏物語』がものすごいのは、あれだけ大勢の登場人物が出てくる大長篇をほとんど主語無しに書きついでいて、これは誰の動作、誰の発言なのかが語尾の尊敬語の違いからしか判別出来ない。これを現代語訳するときに谷崎潤一郎は主語を補わないままでやり、与謝野晶子は主語を一々補って訳した。だから与謝野源氏はわかりやすいわけですが。(外国語での実作例に触れて)主語論理で成り立つのは短歌で、(俳句は)“私”が表現に織り込めるほど長くない。俳句は切れの効果で別な要素が入って別な世界を開く。例えばエズラ・パウンドは「落花枝にかへると見れば胡蝶かな」の、落ちる花びらと舞い上がる蝶の衝突というイメージの重層、ここからイメージが新しい世界を開くことを見て取った。あとブルトンが芭蕉のあれ、何だっけ、「唐がらし羽をつけたら赤蜻蛉」(笑)。ここからやはり重層性を見出している。諸事象、諸存在の出会いで今まで見えなかったものが見えてくる。

俳諧の発端に『新古今(和歌集)』があって、(雅な美意識の)正統派は「柿の木派」、世俗・滑稽の方は「栗の木派」と呼ばれた(註=有心連歌の「柿本衆(かきのもとしゅう)」と無心連歌の「栗本衆(くりのもとしゅう)」という呼称が一般的か)。俳諧は固定観念からの解放という要素が最初からあった。俳諧の「俳」の字は(中国の)春秋戦国ではもともと、変わったことをして人を楽しませる人を指した。同時に方法論として十七音まで切り詰められたため、“私”を容れる余地はなくなった。この、俳句自体が持っている前衛性は未だに何一つ失われていません。》

この後質疑応答が2、3と、安西篤氏(現代俳句協会幹事長)の閉会挨拶があってシンポジウムは終了となり、上の階に場所を移して懇親会。移動のときに池田澄子さんにお会いして少し話すことが出来た。シンポジウムが始まる前に懇親会参加希望者は受付でその会費もまとめて取られ、領収証代わりに名札を渡されるというシステムになっていてそれを首から提げていたのでこちらが誰だか判ったためである。迷子札のようだが顔の知られていない者には役に立つ。

懇親会では主に城戸氏と立ち話していたが、城戸氏、懇親会場でマイクを渡されては次々にスピーチする俳人たちを見て「俳人は皆さんよくしゃべって、しかも話が面白い」と妙なところに感心されていた。詩人は大体しゃべっても1分以内なのだそうで、本当ならば両者がいる場合、乾杯の音頭などは詩人にとってもらった方がよいかもしれない。

宇多喜代子氏とも田中亜美さんらと3、4人で囲んでの立ち話。青年部の勉強会、「前衛俳句再考シリーズ」の第2回のテーマが鈴木六林男だったのだが、そのときのメインが宇多氏による六林男との思い出話だった。出席していた私がザッと取ったメモを田中さんも後で見ていたもので、体験談の生々しさが貴重でありがたいなどと皆で言い合っていたら、宇多氏、何やらおこがましい真似をしてしまってもうしわけないといった風情で頻りに恥ずかしがり、消え入らんばかり。

懇親会がお開きの後、さらにパネラーと司会・総合司会の6人も引っ張り込んで十数人ほどで近くのファミレスに移り、コーヒーまたは生ビールの飲み直し。名古屋から来ていた荻原氏は新幹線で帰るため中座。一部はさらに三次会へ流れた。

       *       *       *

以下はシンポジウムを振り返っての私の雑感。

「前衛」という否定すべき相手、対峙する世界が明確であった時代に有効であった身振りが現在はおよそ無効になっているとはいえ、その中でいかなる更新が可能かということを制作する者は考えないわけにはいかず、その模索の一環が今回のシンポジウムだったのだろうが、「前衛俳句」が仮に「死んだ」のだとしてもその中心人物であった金子兜太は「死」なず、現在も旺盛な自己更新を続けていることにまず興味を引かれた。

前半の金子兜太による講演と後半のシンポジウムの話題とが直接にかみ合う局面はなかったのだが、シンポジウムでパネラーたちの討議が、主に「前衛」への時代状況の影響を検証するという形をとっていたにせよ、その底には未だ見えない今後の新たな更新のありようへの模索という動機が潜在していると思われる。ところがその討議とは無関係に「生き証人」として登場したはずの金子兜太が「前衛」の時代以後も、「一茶」や「山頭火」や「アニミズム」へと自在に跳びはねつつ、易々ととすら見えかねない柔軟さで変容を続け、存在感を示しているのを見て、私は思わずデュシャンの『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』を連想してしまった(そしてそこから新たな説話論的類型を引き出すことにより、それ自体がひとつのシュルレアリスム作品であるかのような奇妙な本となったミシェル・カルージュの評論『独身者の機械』をも)。

別名「大ガラス」と呼ばれるデュシャンの作品は、画面の下半分で機械の姿をした9体の「独身者」が不毛な欲望の運動を展開しているのだが、間仕切りで区切られた上半分にいる「花嫁」にはその欲望は永遠に届くことがない。大枠の確認に終わって個々の作品の再検証にも、否定による更新という弁証法的なあり方自体の有効性の吟味にも踏み込めなかったシンポジウムでの討議と、一方、生身の直観的な飛躍をもって変容を繰り返している金子兜太との関係にその「独身者たち」と「花嫁」がそっくり重なって見えてしまったのだ。シンポジウムというのは概ねパネラー相互の話が化学反応を起こして新たな地平を閃かせることは稀で、それこそ機械的に個々のパネラーに二巡ほど発言の機会をまわせば終わってしまうことも多くて、聴いた側が個々にそこから考える契機をひとつでもふたつでも掴みとって帰れば一応の成果とはいえるというものだし、第一この図式では欲望される対象たる「花嫁」が金子兜太になってしまうのが少々不似合いではあるのだが。

近過去の事象を歴史に繰り込み、定位する作業に熱心だという現代短歌と引き比べるまでもなく、「現在」と「前衛俳句」との関係はごく曖昧なものに留まっている。個々の句を文学テクストとして読み直すというのであれば、背後の時代状況との癒着は「死んだのか」どころではなく一度殺さなければならないのだし、そうした手順を経て歴史化されたものだけが古典として新たに生きなおすことが出来る。ちなみに歴史学は評価の学問であり、現在から見てどういうどれだけの重要度がある事象であったかという視座によって過去の事象を組織立てる。「歴史」は常に「現在」との相関関係の中にある。ルビコン川を渡った者は過去数え切れないほど大勢いたはずだがその中でユリウス・カエサルの渡河のみが特筆されるのは、それが現在の世界がかくのごとき姿となるについて大きな影響があったと評価されたためである。

ことは既に終わった過去の文学運動の生成過程を検証してみようとか、その中で今でも価値のあるものは認めてやって再利用しようとかいった暢気な話ではない。「現在にとって前衛俳句とは何か/前衛俳句にとって現在とは何か」がという関係がまともにマッピングされていない(またはされていてもその認識が「大きな物語」の消失により共有されていない)ことが露になったというのが今回のシンポジウムでの逆説的な成果のひとつであろう。精神分析的には、抑圧されたものが再帰すると「亡霊」となる。マッピングがなされておらず、きちんと死なせていないから生きもしない「前衛俳句」は今後も当分しばしば亡霊として視野に浮上することになるのだろうし、また亡霊を呼び起こしてしまう現在のわれわれの側には、おそらく古典化・歴史化の作業が曖昧に滞ることにより、われわれの現在はついに古典となりうる作品を残せず、歴史の中に然るべき位置を与えられて安置されることもなく、空虚に四散してしまうのではないかという畏れが肚の底に秘められているはずである。「新人」や「若手作家」は今後も幾らでも出てくるだろうし、「新鮮な」作品も幾らでも出てくるであろうが、それが「新しい」かどうかは別である。そして近代の文化・芸術史において古典の位置を占めているものは、その都度その都度当時の前衛であった「新し」かったものばかりなのだ。

過去を歴史化し古典として生かすということは、「前衛俳句」の荒々しく否定的な更新の身振りや雰囲気を恋い真似て「リヴァイヴァル(再生・復興)」することではなく、過去の作品群を「リファレンス(参照・引用元)」に繰り込み、共有されうる土台とするということにほかならない。例えば『新古今集』の『古今集』に対する関係がちょうどそうであるように(そうした意味で田中亜美氏が紹介したような、伝統系俳人による入門的アンソロジーに「前衛」俳人たちの句がさしたる身構えもなく編入されているという事実は相応の意義はある)。

それにしても「前衛俳句」の当事者たる金子兜太が60年代を「あの保守化の雰囲気の中で」と捉えていたのはやや意外で印象的なことだった。その年代に生をうけていなかった者からすると60年代といえば前衛芸術・アングラ文化の百花斉放の時代と見えてしまいがちだからで、当時にしても別段新しい領域を切り開くのに恵まれた時代にいると当事者たちが感じていたわけではなかったのだという当たり前のことに気づかされたからである。

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■関連記事
極私的『第21回現代俳句協会青年部シンポジウム「前衛俳句」は死んだのか』レポート(前篇)・・・関 悦史   →読む

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■関連書籍を以下より購入できます。




























2009年3月22日日曜日

匿名批評について

匿名批評とは、の問いを、かなり、遅まきながら・・

                       ・・・救仁郷由美子

匿名批評に対して「豈weekly」で語られてきた事に別な角度から、発言したいと思います。

「匿名とか実名とかは枝葉末節の問題」との重信の言葉に対しての山口優夢氏の反論に、高山氏は「重信のセンテンスに述べられている認識」を否定するのはむつかしいと判断しています。そのように判断された側からすると、匿名批評にさらに逆撫でされた状態で、感情の発散の場は宙に浮き、恨みの感情のみが残るように思えます。

実名の批評であれば、少なくとも当の個人を嫌悪し、呪詛の儀式へと移行でき、恨みの持って行き場の収まりどころがあります。

では、匿名批評とは?

匿名批評という語の概念を再考してみる必要があると思います。再考しても「無責任・低次元」の発言は、山口氏の情念の内で生き続けると思いますが・・・。

今のままですと山口氏の匿名批評を否定する発言で終わっています。

山口氏は重信が匿名批評に対してあくまでも文学の領域において、判断をおこなっていることに対して、そのことを見過ごしているのではないかと思います。

文学における事実とは、あくまで虚構の世界に成り立つ「事実」です。私達の日常の社会における事実とは異なる設定をもとに組み立てた事実であるという、確認が行なわれていないように思われます。ノンフィクションとフィクションでは、「事実」の意味するものが異なる事を前提に高山氏は発言し、山口氏は社会における事実と同一視しながら、発言しているという行き違いの結果だけが残されています。

あらためてここで確認したいと思います。

文学における事実とは、想像を具体化し、言語表現によって仮説を立て、創造への扉を開く行為です。その前提があって匿名批評の正当性が確認されるのだと思います。そして、なおも匿名批評の意味とは、文学という虚構を構築することによって現実化(言語化・文字化)することです。つまり、架空の領土で架空の闘いを舞台化するために書き出すことです。それは、舞台における主人公が匿名批評に取り上げられた作家・作品であり、演出家が、匿名批評を書いた筆者といえばよいでしょうか。

ドグマとは、社会の場に属します。故に批評を書き出す者の指先に留まるものです。その指が、虚構性へと転化させていきます。高山氏のいう想像力はそのような場に顕現するものだと思います。この匿名批評の問題は、文学の問題の一つとして事実とフィクションの境界のあいまいさの顕われですから、匿名批評の可能性を開くことでもあります。以上、一言申しあげる次第です。

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■関連記事

俳誌雑読 其の六 ほんとに雑読風に・・・高山れおな  →読む

匿名批評をめぐる高柳重信の発言とそれに対する山口優夢氏の異論、並びに高山れおなによる回答   →読む

第31号




第31号

2009年3月22日発行

遷子を読む

はじめに

・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井   →読む

極私的『第21回現代俳句協会青年部シンポジウム「前衛俳句」は死んだのか』レポート(前篇)

         ・・・関 悦史   →読む

俳句九十九折(28)

俳人ファイル XX 福永耕二

          ・・・冨田拓也   →読む

「の」の字の詩学

豊里友行句集『バーコードの森』を読む

          ・・・高山れおな   →読む

-Ani weekly archives 005.15.03.09-

名句の風景

佐保姫を一夜泊めたる峠の灯  有馬朗人 

          ・・・恩田侑布子   →読む

 

あとがき           →読む

豈同人の出版物      →読む

執筆者プロフィール    →読む

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あとがき(第31号)

あとがき(第31号)



■高山れおな

春分の日に、金沢21世紀美術館で「杉本博司 歴史の歴史」展を見ることが出来ました。「海景」シリーズなどで世界的にも評価の高いこの写真家は、かつてニューヨークで古美術ディーラーをしていたこともあり、現在でも神道美術を中心としたコレクションを続けています。「歴史の歴史」展は、杉本氏の回顧展であると共に、氏のコレクションをも使ったインスタレーション的な展示が見どころです。私自身は、この人の作家的コンセプトを素晴らしいとは思うものの、写真そのものには馴染みきれないところがあったのですが、今展は思いのほか楽しめました。

中でも「反重力構造」と題された展示は、当麻寺の三重塔の古材(明治末年の解体修理に際して、老朽のため新材に差し替えられた部材)と、現在の塔の柱や斗供(ときょう。屋根を支えるために柱の上に置かれる組物)の原寸大写真とが組み合わせられ、強い垂直性に満ちた空間が生まれていました。また、平安時代の木造十一面観音像と代表作の「海景」を、美術館の中央にある円形の部屋に配した展示も見応えがありました。まんなかに観音像(法量一メートル内外の像でした)が立ち、ぐるりの壁にたしか十点の「海景」が並んでいたのです。「海景」は、世界各地で撮影された(され続けている)海の写真による連作で、船も人も陸も建造物も排除された画面には、海と空と両者を分かつ水平線しか写っていません。なんだか取り付くしまもないような恐ろしくミニマルでハイブロウな作品ですが、しかし、そこに古い仏像があることで、古代人が目撃した海という、このシリーズのコンセプトがにわかになまなましく迫ってくるようでした。

金沢近辺には何度も行っているのに、いつも時間が無くて参拝せずにきた小松市の那谷寺へも、今回はじめて立ち寄ることができました。奈良時代に泰澄上人が開いたこの寺は、境内の奇岩がおりなす景観を補陀落山(=観音浄土)に見立てた観音信仰・白山信仰の古刹です。そして我々にとってはなにより、芭蕉が『おくのほそ道』の旅の途上、

石山の石より白し秋の風

と詠んだ故地ということになります。午前中、小雨が降って岩が濡れていたせいもあるのでしょうか、「石より白し」の実感はありませんでしたが、たしかに胸さわがせる奇景ではありました。掛造りの本殿や、建築というよりはまるで工芸品のような小ぶりで装飾的な造りの三重塔など建物も興味深く、断じて〈らちもなき春ゆふぐれの古刹出づ  槐太〉などということはありませんでした。

今号より中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井の各氏による、「遷子を読む」の連載がはじまりました。肝煎りの筑紫氏によれば、三年くらいかかる壮大な計画の由。今回はまだイントロダクションですが、多士済々のメンバーによって次回からどんな“読み”が施されることになるのか、展開に大いに期待したいと思います。



■中村安伸

31号の発行が一週間遅れとなってしまい、読者、執筆者他のみなさまにご迷惑をおかけいたしました。
14、15日に中学校時代からの友人と渥美半島を旅行していたため、もともと一日遅れで発行する予定でしたが、15日夜に祖父、正司が急逝したため、高山さんと相談のうえ一週間お休みをいただくことになりました。ご説明が遅くなり申し訳ありません。

祖父は昨年の6月に入院し、8月に一度退院したものの、寝たきりの生活となっていました。

一月にふたたび入院しましたが、徐々に回復しつつあると思っていました。つい数週間前、両親に代わって看護をするために帰省したのですが、そのときはときおり痛みを訴えるものの、病院の食事をほとんど残さず、体調はよさそうでした。数値も改善をつづけており、順調なら今月末頃に退院できるという話もあったので、今回の訃報はまさに晴天の霹靂でした。
享年百三ということで天寿を全うしたともいえるでしょうが、私が付き添っていたときも「もう一度だけ元気になりたい」と言い続けていたので、無念だったことと思います。

祖父のことを事細かに書くべき場ではありませんが、私が俳句を作るようになったきっかけを与えてくれたのがこの祖父でした。元日に必ず披露する自慢話のひとつが、某雑誌の新年号の俳句欄に投稿した句が松瀬青々の特選に入り、かなりの額の賞金を得たというものでした。句は「若水や暁雲に雪まじる」というもので、これが私が記憶した最初の俳句作品となりました。

その話を聞いて興味を持った私が、ひとりで俳句を作りはじめたのが10歳くらいのときだったと思います。祖父は直接私に手ほどきをしてくれるということはなかったのですが、かわりに楠本健吉著の俳句入門書を買い与えてくれたのでした。

若い頃、松瀬青々の「倦鳥」に投句したり、近在の仲間とともに句会をしたこともあったようですが、生業が多忙になるにつれ、句作からは遠ざかっていったようです。「俳句を続けていれば結社の主宰くらいにはなっていただろう。」と言っていたこともありました。

一方で、読者としては俳句に興味を持ちつづけており、特に蕪村の句を好んでいました。私の作品も読んでくれていたようで「安伸の俳句は難しい」と感想を言ってくれたこともありました。

一冊の句集を上梓することもなく、日記に書き付けられた数句が残されているのみですが、濃密に季語の世界を生きていた祖父は、私などよりはるかに「俳人」であったと思っています。


2009年3月21日土曜日

豊里友行句集

「の」の字の詩学
豊里友行句集『バーコードの森』を読む


                       ・・・高山れおな

韓国の比較文化学者・李御寧(イー・オリヨン)の正岡子規国際俳句賞スウェーデン賞受賞が、当ブログ前々号、関悦史の「極私的『国際俳句フェスティバル』レポート」で報告されていた。一九八〇年代にベストセラーになった『「縮み」志向の日本人』(*1)などに見られるすぐれた俳句論が評価されたわけであるが、評者が同書で興味を持ったのは直接俳句に触れた部分ではなく、日本語の助詞「の」についての考察の方。第二章「『縮み』志向 六型 1入れ子型――込める」で李は、

東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる

をはじめとする石川啄木の短歌や、上田敏によるヴェルレーヌの「落葉」の翻訳、

秋の日の
ヸオロンの
ためいきの
身にしみて
ひたぶるに
うら悲し。

などに見られる「の」の重複使用を、日本語の顕著な特徴として指摘している。語順やテニヲハの使用など統辞法的によく似ているとされる日本語と韓国語だが、韓国語でなら「ホシ/ヒカリ」「ムシ/コエ」というふうに名詞を直接複合させてしまえば済むところを日本語では「ほし/の/ひかり」「むし/の/こえ」という具合に二つの名詞の間を「の」で繋ぐ例がはなはだ多い上に、啄木の歌のように「の」を重複させるに至っては韓国語では全く見られない現象だという。さらにヨーロッパ語では、ドイツ語は名詞を直接的に連結させる傾向が非常に強いし、英語でもofの重複使用は稀れ、フランス語ではdeの重複使用がまま見られるものの出来れば避けるべきとされているのに対し、日本人が「の」の重複使用にむしろ積極的に美を感じているらしいことに、李は奇異の目をみはっているわけだ。

「の」を重畳させることで、東海→小島→磯→白砂→蟹というふうに、大景から小景へと焦点をしぼりこんでゆく、前掲啄木歌に典型的に現われた叙法を、李は日本人の「縮み」志向が統辞法の上に現われた例として、自らの論点に引き寄せてゆく。それはそれでよいとして、「の」による語の結合には、大から小へと凝縮してゆくばかりではない、もっと曖昧で多義的、場合によっては拡散的な要素さえあるのではないかと、いちおう俳句の実作者である評者は経験から感じていて、例えば歌人の樋口覚が李の考察に刺激を受けつつ「の」について論じた『「の」の音幻論』(*2)の場合、その行論自体がそうした「の」の曖昧性と拡散性に深く浸されていることが疑われるのである。

やや脱線気味に述べれば、江戸の町が「の」の字型、つまり千代田城を中心に、カタツムリの殻のように渦巻きながら無限に拡大してゆくプランに設計されていたとする説があり、事実、江戸から東京への発展はそのようにしてなされたわけだが、我々の首都の「の」の字なりの茫たる拡がりにも似て、博引傍証がとりとめもなく拡散し、ついに元来の主題さえよくわからなくなるような傾きが樋口の批評文にはそもそもあって、『「の」の音幻論』なる魅力的なタイトルを持つこの本も、そんな一冊に違いない。同書に収録された諸論考中では、「『の』音考 岡井隆への手紙」が比較的コンパクトに纏まっており、そこで樋口は、岡井作品のうち「の」の重複使用が見られるものを〈アトランダムに引いて〉から、次のように述べている。

もちろん「の」を全く使用していない歌もありますが、助詞以外の「の」(△印)を含めると、「の」の応和は著しいと思います。これら(例示された岡井の短歌四首……引用者注)の「の」は英仏語なら一切ofやdeを使わずに表現できるはずです(朝鮮語も然り)。

しかるにこれほど多いのは、李の言うように所有格以外に「の」は極めて豊富かつ多義的であり、その鼻(舌)音noのつらなりに日本人は逆に美的韻律をおぼえ、等時拍音の日本語で綴る(歌う)短歌において、リズム形成因子、あるいはこの膠着語たる日本語の文字通りニカワやトリモチとして、「の」が働いているからではないでしょうか。俳句では十七音のうち一回くらいの使用が妥当なところでしょうし、切れ字との問題からも興味深いことです。

他にも、〈古代には、恐れ畏むべき対象には「が」ではなく「の」を用い、「が」は一般に自己ないし自己が心を許す対象に使われた(「わが君」、「あが君」)ということです。〉という国語学者の説やら、

天飛(だ)む 軽嬢子
いた泣かば 人知りぬべし
波佐の山の 鳩の
下泣きに泣く

という記紀歌謡における「鳩の」が、〈現代語でいえば「鳩のように」と直喩的に使われている〉との吉本隆明の所説やらが紹介されて、はなはだ魅力的なエッセイである。もっとも、〈俳句では十七音のうち一回くらいの使用が妥当〉とした一節は、三十一音に対する十七音という算数のやや安易な適用であろう。たとえば、手元の『ホトトギス雑詠選集』(*3)で当季の句をちょっと覗くだけでも、

母の忌やその日のごとく春時雨  富安風生
恋猫のいくつも飛べり月の溝  白楢
猫の恋太古のまゝの月夜かな  宇野端
岡本の梅の茶店の暖簾かな  虚吼

といった調子で、短歌ほどではないにせよ複数の「の」の応和を利かせた作例は、少しも珍しくない。ただし、〈切れ字との問題からも興味深い〉との指摘は、評者も大いに共感する。拙句に、

衛星写真の葛のあらしの光源氏

というのがあるが(*4)、これなどは文法的に啄木の「東海の…」の歌における「の」の使用に準じたものでありつつ、吉本隆明が指摘した比喩的用法にも近いところがあろうか。しかもまた、成否はともかく、作者の頭には狭義の切れ字を使わずに、「の」を媒介にした転調によって切れ字的な効果を出そうとする意識もあったのであった。

豊里友行の俳句を紹介しようとして、ずいぶん長い枕をふったのは、もちろん豊里が「の」の使用ぶりに顕著なところを見せているためだ。一九七六年九月の生まれというからまだ三十二歳のこの沖縄在住の新鋭は、すでに二〇〇二年、二十六歳の時に第一句集『バーコードの森』(*5)を出版している。同書が二〇〇七年に再版された際に一本を恵まれ、一読感心したが、このたび必要があって読み返してやはりおもしろかった。

教室出る夢探しの入道雲

これは、高校時代の作だという巻頭句だが、「の」の使用によってもたらされる詩的曖昧さが、魅力になっていると思う。つまり、「教室出る」のが「入道雲」であるという文脈では、「入道雲」は作者の寓意ということになろうが、同時に「夢探し」のために「教室出る」と彼方に「入道雲」が見えるという実景に即した解釈もあり得るし、また「夢探し」する混沌としたエネルギーはさながら「入道雲」が湧き立つようだ、という比喩的な受け取りも可能であろう。

糸蜻蛉とどまれば月の眼球

この句の場合、空中でホバリングする「糸蜻蛉」の「眼球」が「月面」のようにクローズアップされているイメージの他、見上げた「糸蜻蛉」の彼方に浮かぶ昼の月がまるで「眼球」のようだと言っているのかも知れない。「月の眼球」という圧縮された表現が、このような多義性を生んでいる。

数式のビルの目盛りを泳ぐ目高

「ビル」は物理的にも経済的にも多くの「数式」に基づいて生まれるのだから、「数式のビル」という表現は有り、だろう。しかし、「数式のビル」は「数式のビル」だからこそ強い喚起力を持つのであって、「数式から生まれたビル」でもないし、「数式のようなビル」でもないのはもちろんのことだ。さらに「目盛り」。これは「数式」の縁語として現われたのであるが、窓枠をはじめなるほど「ビル」自体が「目盛り」に見立て得るさまざまの要素に満ちてもいる。「目高」は、ビルに出たり入ったり、右往左往して生きている我々自身の暗喩ということになりそうだが、同時にそれは暗喩になりきることなくあくまで具体的な「目高」として「泳ぐ」存在であり続けてもいる。この句の錯綜した映像性もまた、重複使用されている「の」の効果に多くを負っているだろう。

煩悩の釈迦の目になる三日月

「釈迦の目」すなわち仏像のいわゆる半眼と、「三日月」の形態的アナロジーから発想された句。しかし、「釈迦」の頭に付いた「煩悩の」なるフレーズが、一句をはなはだ謎めいたものにしてしまった。そもそも「煩悩の」の「の」が、所有格なのか主格なのかが評者には決定できない。主格なら例えば、清らかな「三日月」を見ると「煩悩」に満ちた自分の目も浄化されて「釈迦の目」になるといった解釈が可能であろうか。所有格なら、まるで仏像の「目」のような形をした「三日月」の妖しい美しさが、「煩悩の釈迦」という瀆聖的なイメージを喚起するとでもいうことになろう。

用言の使用が最小限に抑制され、名詞が多用される豊里作品の韻律はかなり剛直な感じがするにもかかわらず、それが大味にならないのも「の」による接続が生み出すニュアンスの豊かさのゆえだろう。もちろん「の」によって、どのような語を結びつけるか、そこに作者のセンスが問われるわけだ。それにしてもこれらの句を見ると、『短詩型文学論』(*6)にある、金子兜太の次のような記述を思い出さないわけにはゆかない。というか、金子的命題のかなり忠実な実践であることに驚くのである。

具象性と韻律の伝統的内容(肉体)と抽象への志向(精神)との葛藤場面が深く激しく現出することによって、具象は抽象操作を経たあとの具象(新具象とでもいうべきか)として、描写段階の素朴と単調から脱し、さらに韻律に乗って、それは力強く表出されるものなのである。逆にいえば、抽象への志向と営みは、具象と韻律に定着することによって、最短詩型として、他の形式では望めないような完結した秩序を示し得るのではないかと思う。

豊里は現在でこそ「海程」に投句しているとはいえ、句集刊行の時点では地元沖縄の「天荒俳句会」のメンバーだった。その頃までに金子の所論を果たしてどの程度読んでいたものか興味深い。高校時代からの作品の展開を見る限り、たぶんに独行的かつ早熟にみずからの文体を確立してしまった作者のように思えるのだが。

豊里友行の生業はカメラマンであり、沖縄の基地問題から自然保護運動、住基ネット反対運動などにいたるまでさまざまな社会運動に幅広くかかわっているようだ。若者一般に通有の感傷や“煩悩”(要するに性欲であろう)を沖縄ならではの自然の世界に結びつけて詠む一方で、そのようなフォトジャーナリストとしての活動や関心のあり方を豊里はダイレクトに作品に反映させてもいて、それが現在の俳句界では稀有な個性をかたちづくっている。先ほどの金子兜太の引用に、「新具象」という言葉が出てきたが、「新社会性俳句」とでもいうべき相貌がそこにはあるのだ。あるいは柳田国男の方言周圏論とのアナロジーで考えるならそれは「新社会性俳句」などではなく、中央ではとうに滅んだ(?)社会性俳句が、中央から最も遠い同心円上にある沖縄に生き残った姿なのかもしれない。

樹のラインに湧き立つ雲は十九歳
人生の実を捥ぐにきびのクレーター
青バナナむけば炎の鮫になる
飛魚のごと甘蔗を行くティーンエイジ
シャワーになるネオンを弾くコザのビート
ふりむけば源氏とロミオ葉桜か

まずこれらは、豊里の青春俳句的な方面を代表する作品ということになる。一句目、「十九歳」の翳りも照れもない誇りがまぶしい。「樹のライン」というビジョン(もちろん沖縄の亜熱帯の森が生み出すスカイラインである)の端的さが嬉しい。二句目、「人生の実」も「にきびのクレーター」もそれ自体いささか安直な表現と思えるが、両者が結びついた時、絶妙なバランスが生まれ、一句としての受肉がなされたと判断する。三句目の「青バナナ」や「炎の鮫」は、あるいは男性器の暗喩だろうか。ペニスをバナナに譬えているとすればやはり感心したレトリックではないし、「炎の鮫」なるフレーズもいささかベタすぎる。にもかかわらず、この場合もその二つのイメージの結合が、思いがけない飛躍を生じ、新鮮な俳句になっている。四句目の「甘蔗」は、他の使用例から見て「きび」と読ませるようだ。これほどはつらつとした青春謳歌も、少なくとも昨今の俳句では見たことがない。言葉の切れ味も申し分ないだろう。五句目の「コザ」は沖縄市コザ地区。嘉手納基地を抱える商業地区・歓楽街として、沖縄の中でも独特の文化を持った町として知られる。豊里は県立コザ高等学校出身だから勝手知ったる地元であると共に、米軍の占領によって生まれた町という点でフォトジャーナリストとしての問題意識にかかわってくる。この句は、「シャワーになるネオン」を「コザのビート」が「弾く」とも、「ネオンを弾くコザのビート」が「シャワーになる」とも読めて、例によって意図的に文脈を錯綜させたとおぼしい。躍動感あふれるイメージに、一九七〇年代の森山大道や中平卓馬といった写真家たちの「アレ・ブレ・ボケ」の手法を連想した。なお、評者は、「弾く」を「ひく」ではなく「はじく」と読んでいる。六句目には、光源氏とロミオ(もちろんシェイクスピアの)が登場する。光源氏は壮年まで生きるが、この場合は、永遠に若いロミオと同じく紅顔の光源氏である。下五の「葉桜か」の急激な転調が、ぶっきらぼうなようでいて的確だろう。

轟音の鼠となり空齧るフェンス
魚眼のままに洞窟裏返す初日
  ⇒「洞窟」に「ガマ」とルビ
缶詰電車ストローから吐く白い影
原発の家電の鮫が泳いでら
さみしい鮫の背鰭で来る電子音
蛙鳴くついに阿摩和利の岩を吐く
  ⇒「阿摩和利」に「あまわり」とルビ
神の槍か海蛇の笛か滑走路
  ⇒「海蛇」に「イブラー」とルビ
皆収奪のランプ点く片降り
  ⇒「片降り」に「カタブイ」とルビ
軍鶏の首捻じる方言札
  ⇒「軍鶏」に「タウチー」とルビ
捨て石の戦火を泳ぐ亀甲墓
慰安婦絞る蛙の声紋の井戸
  ⇒「井戸」に「カー」とルビ
退屈な歩幅コンビニ星人でいる

これらは、「新社会性俳句」的な相貌を見せる作品。沖縄戦の記憶(二句目・十句目・十一句目)や米軍基地の存在(一句目・七句目・八句目)など、本土の都合に翻弄され、苦しめられてきた沖縄の歴史と現状に対するこだわりが強く出た作が多い。もちろん中には、より一般的な文明批評的な着眼から作られている句もある(三句目・四句目・五句目・十二句目)。言葉がきびきびと転調する、イメージの飛躍に富んだ筋肉質な韻律ゆえに、総じて重い内容であるにもかかわらず胸にもたれない。つまりそこには、紛れもなく俳句を読む快楽がある。これまでの鑑賞で示してきた「の」の多義的運用であるとか、文脈の錯綜といった読み方を意識して貰えれば、解釈に困るような句はほとんどないと思うが、一、二、補足しておくと、三句目〈缶詰電車ストローから吐く白い影〉は、高校卒業後、日本写真芸術専門学校で学んだ一九九七年から二年間の東京時代の作らしい。鉄道の無い沖縄育ちの作者の目が捉えたラッシュアワーの光景ということになる。この「ストロー」は石鹸玉を吹くためのものだと思うが、石鹸玉の語は出さず「白い影」といっているのは巧みだろう。ただただ目的駅へ到着して解放されるのを念じているすし詰めの乗客たちのうつろな時間を言い当てると同時に、人いきれで白く曇った窓ガラスのイメージなども重層する。また、ストローの細長い形状そのものが、空間的と時間的の両面で、ラッシュ時の電車の暗喩にもなっていようか。同じ一九九七年には、〈影のない藻になる煩悩の電車〉という作もあってこちらも好句だ。六句目〈蛙鳴くついに阿摩和利の岩を吐く〉については、句集巻末、豊里の最初の師・野ざらし延男(天荒俳句会代表)による解題「俳句の鮫」にすぐれた鑑賞があるので引用しておこう。

彼の表現の特徴には比喩法の駆使があげられる。
この句は比喩の醍醐味とドラマ仕立てが魅力の句である。阿摩和利は勝連
(カッチン)の按司(あんじ)で沖縄の戦国武将の名である。蛙が地を占領するほど鳴いている。小石から岩に膨れ上がっていくような鳴動音。この驚くべき蛙の鳴動を「阿摩和利の岩を吐く」とメタファで表現した。蛙のように頬を張り、大口をあけて絶叫している戦国武将、吐き出された恫喝は岩となって敵の頭を砕いたか……。

そういえば句集本体には採られていないながら、野ざらしの解題中に、

とんぼ舞うちぎり絵の中の通学路

という句が引かれていた。これも高校時代の作らしい。無数のとんぼの羽のきらめきを「ちぎり絵」に見立てた可憐な作。自身、その通学路を往来する高校生でありながら、未来からの回想ででもあるかのようななつかしさにけぶって見えるのも、「ちぎり絵」のノスタルジックな語感のゆえだろう。

仮にも「新社会性俳句」などと呼称することが可能であるような性質を豊里の句が持っている以上、彼の句にもまたかつての社会性俳句が批判されたような、図式性やコード化の欠点が見られるのは事実である。

史の尾消す道しるべ銃剣改竄
九条の首狙う太刀鯉のぼり
流星のスライディング歓喜の海

などといったあたりは、そうした無残な失敗作であろう。しかし、だからといって豊里の作品世界を、単なる素材主義でありエキゾチズムであるとして退けることはできないと評者は考える。というよりそもそも、素材主義やエキゾチズムを過度におそれる必要はないのではないか。素材主義を過度におそれた結果が、現在の中堅若手の、洗練されてはいるが痩せ痩せに痩せた俳句の姿なのではなかろうかと、これは自省を込めての感想である。

二十六歳での句集刊行からすでに七年がたっており、豊里はその後も盛んな制作を続けているようだ。近作から興に入った句、若干を引いて擱筆する。

鳴き通す沖縄戦の空蝉よ
逃げ水がテロも戦争も孕んでる
自転車に永遠のように蛾がとまる
西行も芭蕉も綿毛の旅人
ケータイの螢烏賊とぶ街は楽器
死者も僕らも甘蔗穂波のマラソン
  ⇒「甘蔗」に「きび」とルビ
戦没のカモメカモメが傷をぬう


(*1)李御寧『「縮み」志向の日本人』 二〇〇七年 講談社学術文庫/原著:一九八二年 学生社
(*2)樋口覚『「の」の音幻論』 一九九一年 五柳書院
(*3)豊里友行句集『天荒現代俳句叢書④ バーコードの森』 初版:二〇〇二年/再版:二〇〇七年 天荒俳句会
(*4)高濱虚子選『ホトトギス雑詠選集 春の部』 一九八七年 朝日文庫/原著:一九三八
(*5)高山れおな句集『荒東雑詩』(二〇〇五年 沖積舎)所収
(*6)岡井隆・金子兜太『短詩型文学論』 復刻版:二〇〇七年 紀伊國屋書店/原著:一九六三年 紀伊國屋新書
(*)豊里友行のブログ「とよチャンネル」では、豊里の俳句作品・写真作品を見ることができる。http://toyoanneru123.ti-da.net/

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2009年3月15日日曜日

俳句九十九折(28) 俳人ファイル XX 福永耕二・・・冨田拓也

俳句九十九折(28)
俳人ファイル XX 福永耕二

                       ・・・冨田拓也

福永耕二 15句


浜木綿やひとり沖さす丸木舟
 
萍の裏はりつめし水一枚
 
黒板にわが文字のこす夏休み
 
子の蟵に妻ゐて妻もうすみどり
 
風と競ふ帰郷のこころ青稲田
 
昼顔や捨てらるるまで櫂痩せて
 
寒星をつなぐ糸見ゆ風の中
 
凧揚げて空の深井を汲むごとし
 
省くもの影さへ省き枯木立つ
 
橙やうすれうすれし隼人の血
 
浮寝鳥海風は息ながきかな
 
吹きあぐる風青揚羽黒揚羽
 
新宿ははるかなる墓碑鳥渡る
 
鳥葬のかたちに臥せば雲の峰
 
還らざる旅は人にも草の絮

 

 
略年譜
 
福永耕二(ふくなが こうじ)
 
昭和13年(1938)  鹿児島県生れ
 
昭和30年(1955) 「馬酔木」に投句
 
昭和40年(1965) 上京
 
昭和44年(1969) 「馬酔木」同人
 
昭和45年(1970) 「沖」創刊参加 「馬酔木」編集長就任
 
昭和47年(1972)  第1句集『鳥語』

昭和55年(1980) 第2句集『踏歌』 12月逝去(42歳)
 
昭和57年(1983) 第3句集『散木』
 
昭和63年(1989) 『福永耕二 : 俳句・評論・随筆・紀行』(福永美智子編)
 
 

A 今回でこの「俳人ファイル」は20回目を迎えることになりました。
 
B なんとかここまで続けることができましたね。
 
A 正直ここまで続けることができただけで、私としては御の字というところがあります。

B しかしながら、ここまで続けて来ることができたのはいいのですが、これから先の展開について考えるとなかなか気が重いところがあります。
 
A そうですね。これからについて考えると、相当手強い俳人の存在が今後何人も待ち構えています。
 
B 今後についてはなかなか厳しいものがあると思いますが、気長に続けていくしかないでしょうね。
 
A 今回は20人目として、福永耕二を取り上げることにしました。
 
B 戦後の「馬酔木」の俊英ということになりますね。
 
A 福永耕二は、1938生れで、1980年に42歳で亡くなっています。ですから、もし現在まで生きていればまだ70歳ということになります。
 
B そう考えると、やはり随分と早くに亡くなっているように思えるところがあります。
 
A 同世代として寺山修司、宇多喜代子、矢島渚男、大串章、黒田杏子などといった作者の存在が挙げられます。
 
B 寺山修司も福永耕二と同じく早くに亡くなっていて、1983年に47歳で逝去しています。
 
A 2人とも40代でしたから他の作者たちと比べるとやはり随分と若くして亡くなっているということになりますね。
 
B 福永耕二が俳句を始めたのは高校生の頃で、昭和30年には「馬酔木」に投句を開始します。
 
A 10代の後半ですから、割合早い出発であったということができるかもしれません。
 
B 福永耕二の生涯に残した句集は『鳥語』、『踏歌』、『散木』の3冊があります。
 
A ではその作品について見ていきましょうか。
 
B まず〈浜木綿やひとり沖さす丸木舟〉を取り上げました。
 
A この句は第1句集『鳥語』の劈頭の1句で、昭和33年から昭和39年の作であるそうです。
 
B 「浜木綿」は夏の季語ですから、夏の海の眩しさが感じられます。

A こういった「光」の存在を感じさせるところに「馬酔木」的な雰囲気があるようです。
 
B あとは、1人で丸木舟に乗って沖を目指す青年の自恃や憂愁が入り混じったような感情も感じられるようです。
 
A まさしく青年福永耕二の出立の1句といった感じですね。「浜木綿」と海の煌めきが印象的な1句です。
 
B 続いて〈萍の裏はりつめし水一枚〉を取り上げます。
 
A この句は『鳥語』の昭和40年から昭和43年の作です。
 
B 「萍」ですから季節は夏ですね。萍とその葉の裏側に塞がれ密着している水の表面。この句の「萍」の緑と「水」の取り合わせから一見「馬酔木」的な自然詠における光と清澄さが感じられますが、単純にそれだけでなく、「萍」と「水」の隙間のないほど密着し、均衡しているところから、青年の鋭敏な心性と息苦しさのようなものが窺えるところがあるように思われます。
 
A そう見ると、確かに萍と水面の関係にやや緊張感のようなものが認められるところがありますね。
 
B 続いて〈黒板にわが文字のこす夏休み〉です。この句も『鳥語』の昭和40年から昭和43年の作です。

A 福永耕二は教師であったということで、この句はそういった学校生活の一部を切り取った句であるのでしょう。
 
B 「教師俳句」ともいうべきものでしょうか。他にも〈雪の詩に始まる学期待たれをり〉〈教材の花の詩も了ふ散るさくら〉など学校での生活に材を取った作がいくつか見られます。
 
A この〈黒板にわが文字のこす夏休み〉という句は、内容だけを見ると取り立ててどうといった内実を有しているわけでもないのですが、どことなく長く印象に残るものがあります。
 
B 黒板に書いてある文字は当然「チョーク」で、文字の内容は次の学期における連絡事項といった内容であるということになるはずです。
 
A この句はおそらく「夏休み」という言葉の内包する意味内容と、教室の静けさの対比が眼目なのでしょうね。
 
B 「夏休み」の教室と「普段の日常」における教室の様子の階梯の大きさとでもいったところでしょうか。
 
A 教師である福永耕二も、その生徒も去って行った後の誰もいないがらんとした教室の様子がありありと目に浮かぶようです。
 
B また、「夏休み」には、福永耕二自身の嘗ての学生だった頃の「夏休み」と、現在の教師としての「夏休み」の位相の違いといったものが重ね合わせられているようなところもあるのかもしれません。
 
A 続いて〈子の蟵に妻ゐて妻もうすみどり〉を取り上げます。『鳥語』の昭和40年から昭和43年の作です。
 
B この句もなんとなく「馬酔木調」による抒情といったものが感じられますね。
 
A 「蟵」という言葉がまずそのことを感じさせるところがあり、また「うすみどり」といった言葉からも水原秋櫻子の作風を連想させるところがあります。
 
B 今回福永耕二の資料に目を通していて、この句は福永耕二という作者にとって割合重要な意味を持っている作品なのではないかという気がしました。
 
A どういうことでしょうか。
 
B 実は、この句に見られる反復の手法、即ち「妻ゐて妻も」という部分における表現ですが、この反復の手法はこの時期以降、生涯に渡って多用される手法となります。
 
A そういえば、福永耕二の句には、このような反復の表現が数多く見られます。
 
B この第1句集の『鳥語』の〈子の蟵に妻ゐて妻もうすみどり〉と同じ時期、つまり昭和40年から昭和43年の時期には、他にも〈夜は夜の生徒と対ひ薄暑なり〉〈船酔の眼に花茣蓙の花が燃ゆ〉〈ことごとく枯れ鉄塔の脚も枯る〉〈鶏頭や波にさびしき波がしら〉という反復の手法を用いた句がいくつも見られます。
 
A こうみるとこの反復の手法は、自然発生的なものではなく、意識的なものとして句作の技法に取り入れられているものであるということになるようですね。
 
B この手法は『鳥語』の昭和40年から昭和43年の時期だけでなく、その後の作品にもいくつも見ることができます。その作品を挙げると〈立泳ぎしては沖見る沖とほし〉〈花茣蓙の花の暮色を座して待つ〉〈さんまの味秋刀魚の歌と蘇り〉〈子にゑがきやる青き蟹赤き蟹〉〈をちこちのをちの声澄む鉦叩〉〈産声や天に槻の芽くぬぎの芽〉〈水甕の水のうまさも麦の秋〉〈あらし経し青柿の艶空の艶〉〈菊月の菊をあなどる花舗の隅〉〈心愉し菊のなかなる子菊買ふ〉〈きのふ木枯けふ凪ぐ父の喉仏〉〈朧月母ねむらせてのち眠る〉〈芝焼きて父を焼たる火を想ふ〉ということになります。
 
A こういった作品を見ると、語尾を反復させた作品もあり、段々とその手法が練成されてゆく様子がわかるようです。

B さらにこの手法は、第2句集『踏歌』においても繰り返し用いられ、〈風荒れてたたかふ雀恋雀〉〈夢の蟬ならずこの楠この榎〉〈立ち並び立ちしづまりし杉涼し〉〈藤腐し卯の花腐しつづく谿〉〈舞くらべして桐一葉栃一葉〉〈踏青や手をつなぐ雲ひとり雲〉〈かなかなや梅雨の青杉青檜〉〈黍白穂赤穂信濃に夏をはる〉〈山垣のかなた雲垣星まつり〉〈ふたり子に虫籠ふたつ帰郷行〉〈花消えし花野や径も幽かにて〉〈鳰を見て波を見て午後空しうす〉〈蟻の列切れしがつなぐ蟻走る〉〈鵯追うて鵯とぶ雪のでんでら野〉〈鳰の前腕組むは思ひ組むごとし〉〈躁の牛鬱の牛梅雨はじまれり〉〈紀の国の木の香草の香梅雨に入る〉〈瀧仰ぎつつ踏む木の根はた巌根〉〈かなかなの彼岸此岸の声揃ふ〉〈日盛りや椰子にをさまる椰子の影〉〈海の藍蝶の浅黄や秋立ちて〉〈爽かや啄木鳥の孔樹に壁に〉〈露の世といへど母あり老師あり〉〈家建てむ計や初霜初氷〉〈雪につく双手双膝わが四十〉〈泰山木けふ咲きけふの蕊こぼる〉〈雲の峰雲の峡あり大石田〉などといった作品を確認することできます。
 
A 福永耕二の作品にとって、この手法が主要な基軸のひとつとして用いられていたことがわかります。
 
B 第3句集である『散木』にも、同じように〈きのふよりけふ冬麗の遷子の忌〉〈春愁や土捨てて土買ふことも〉〈日曜大工日曜庭師芝青む〉〈リラ植えてリラの曇の昨日今日〉〈きのふ近江けふは吉野の花衣〉〈谷に凝り岨にただよひ山ざくら〉〈庭暮るまで庭にゐて夏隣〉〈朴植ゑて凡日を凡ならしめず〉〈一葉また一葉落つ庭狭けれど〉〈紫苑咲く日和といへば日和にて〉〈葦枯れて釣の径はた恋の径〉〈雪凍てて網走駅は日陰駅〉〈雪舞ふやわかき白樺老いし樺〉〈眼の曇り眼鏡のくもり椎咲けり〉〈花しどみ妻には妻の歩幅あり〉〈泰山木きのふの白珠けふの盃〉〈秋潮に獲て青き貝紅き貝〉〈杉山に杉の香つよき冬隣〉〈あき子忌を送り波郷忌待つ仰臥〉〈朝百舌も夕百舌もわれ詰るこゑ〉などの作品が見られます。
 
A 一体どのようにこのような手法はどのような経緯によって生み出されるようになったのでしょうか。
 
B 福永耕二がどのようにしてこういった反復による手法を用いるようになったのかということについて少し考えてみたのですが、この反復の手法が用いられ始めたのが、先ほどにも述べたように、第1句集『鳥語』の昭和40年から昭和43年の時期ということになります。
 
A 昭和40年から昭和43年は先ほどにも見たように〈子の蟵に妻ゐて妻もうすみどり〉が登場した時期にあたります。
 
B ということで、この昭和40年から昭和43年という時期に、反復の手法が登場する何らかの要因があるのではないかと推測しました。
 
A 普通に考えると、そういうことになりますね。
 
B そこで考えたのが、この福永耕二の師系です。
 
A 福永耕二は「馬酔木」ですから、師は水原秋櫻子ということになります。
 
B 当前そういうことになるわけですが、ただ、それだけではなく、福永耕二には同門の能村登四郎という存在が近くにありました。
 
A そうでしたね。同じ学校に教師として勤務していたわけですし、昭和45年には「沖」の創刊にも参加しています。
 
B そこで能村登四郎の作品について少し考えてみたのですが、この能村登四郎にはよく考えてみれば大変有名な作品の存在があったわけです。
 
A なるほど。その作品というのは〈春ひとり槍投げて槍に歩み寄る〉というわけですね。この句では「槍」という言葉が反復されています。
 
B この能村登四郎の句は昭和42年の作ですから、ちょうど福永耕二の『鳥語』の昭和40年から昭和43年の期間と重なるということになります。
 
A 〈子の蟵に妻ゐて妻もうすみどり〉については昭和43年の作です。福永耕二の反復の手法の成立の背景には能村登四郎の存在があったというわけですね。
 
B ちなみに〈子の蟵に妻ゐて妻もうすみどり〉には、〈春ひとり槍投げて槍に歩み寄る〉だけでなく、同じく能村登四郎による昭和41年の〈秋蚊帳に寝返りて血を傾かす〉という句の存在も背後にはあったのかもしれません。
 
A なるほど。
 
B また、反復の手法についてですが、さらに、この時期の能村登四郎の作品を『定本枯野の沖』で見てみると、〈また月曜が来て月曜の秋翳り〉〈絮毛の旅水あれば水にはげまされ〉〈切りごろのやや過ぎし餅切りにけり〉〈虹の間の虹うかぶ待つ冬畳〉〈火の国の火の山の今炎天時〉〈膨れんとして膨れざる餅あはれ〉〈妻ねむりゆふべ洗ひし髪も眠る〉〈幾秋の野分を聴かむ野分の碑〉〈土割つて雪割つて独活の芽の太き〉〈数条の汗にさきがく汗一条〉〈ひとつ狂へばつぎつぎ狂ふ花の暮〉〈今日の雲けふにて亡ぶ蟻地獄〉〈花了り花の奥なる藍ふゆる〉〈もどり来て夜深の茶漬さくら漬〉〈あきらかに泳ぎし黒瞳・黒睫毛〉〈柚子と買ひし若き遺句集柚子匂ふ〉〈傷なめて傷あまかりし寒旱〉といった、やはり反復の手法による作品がいくつも確認することができます。
 
A このように見ると福永耕二における能村登四郎からの影響というものがはっきりとわかりますね。
 
B また水原秋櫻子や石田波郷の作品を見てもこのような反復による表現をいくつか確認することができます。
 
A そう考えるとこの反復による表現というものは「馬酔木」的な手法でもあるということもできるのかもしれませんね。高屋窓秋にも〈ちるさく海あをければ海へ散る〉〈雪の山山は消えつゝ雪ふれり〉という作品がありました。このように見てゆくと福永耕二は能村登四郎、そして「馬酔木」の作風をしっかりと自らのものとしてマスターしようという意志があったということのようですね。
 
B 福永耕二は周辺の作者の成果から忠実に学んでいたということなのでしょう。
 
A そういった実直な姿勢が福永耕二の作品の上に「馬酔木調」のもっとも良質な要素を宿らせる結果へと繋がるものであったのかもしれません。
 
B そういった意味ではやはり福永耕二は「馬酔木のエリート」というべきなのでしょうね。
 
A 昭和45年には「馬酔木」編集長に就任していますし、今回15句の中に選んだ〈風と競ふ帰郷のこころ青稲田〉という1句だけを見てもやはり「馬酔木」の抒情の良質な部分を体現した作品であるということを充分に窺わせるものがあります。
 
B 確かに「風と競ふ」の句を見ると、やはり秋櫻子の〈桑の葉の照るに耐えゆく帰省かな〉を髣髴とさせるところあります。
 
A さて、第1句集の作品についていくつか見てきましたが、続いて第2句集『踏歌』の作品について見ていきたいと思います。この句集は昭和47年から昭和53年までの464句で構成されています。
 
B この第2句集あたりとなると、その作品の雰囲気は第1句集の『鳥語』と比べてやや全体的に緊迫感が強まった印象が感じられます。
 
A たしかに〈昼顔や捨てらるるまで櫂痩せて〉という句ひとつを見てもそのことが感じられるようなところがあります。
 
B 捨てられるまで擦り減った櫂の凄まじさと、昼顔の花の鮮やかさ。そして「櫂」という言葉から海や河の水面が厳しい夏の日差しに強く煌めいている様子までイメージされるところがあります。
 
A 確かにはじめの頃の〈浜木綿やひとり沖さす丸木舟〉と比べると、より厳しいというか、ストイックな雰囲気が加わった印象があります。
 
B 福永耕二自身にも、「丸木舟」から出立した「航海」が、ここに来て半ばとはいわないまでもある程度のところには達したという思いがあったのかもしれません。
 
A 続いて〈寒星をつなぐ糸見ゆ風の中〉を取り上げます。昭和48年の作です。
 
B 「寒星」ですから、当然この句の時間は「夜」ということになります。
 
A その「寒星」を繋ぐ「糸」というのは、きっと「星座」のことを意味しているのでしょうね。福永耕二には他に〈いつまでも露台の子らよ星座表〉という句もあります。
 
B 実際に星と星を結ぶ線が見えているわけではなくて、その星と星とを結ぶ線を想像しているということになるはずです。
 
A 昭和49年には〈流星のあと軋みあふ幾星座〉という句もあり、この句とどちらを選ぶか迷うところがありました。
 
B こちらの句も様々な星座が広大な夜空一面にそれぞれに輝きながら犇めき合っているようで、大変な迫力が感じられますね。
 
A 続いて〈凧揚げて空の深井を汲むごとし〉を取り上げます。『踏歌』の昭和50年の作です。
 
B この句からは、実際に凧を揚げた時に手に感じる糸による強い実在感が喚起されます。
 
A それこそ凧を揚げた時の「手応え」そのものが伝わってくるような句ですね。地上から空中の凧を糸で引っ張ると、風の作用により引っ張り返されます。その重みによる実感を井戸を汲んだ時の手応えに近いものとして把握したわけですね。
 
B 単なる井戸ではなく「深井」ですから、なかなかその手応えは重量感のあるものなのではないかという気がします。
 
A そう考えると、身体が凧に持っていかれてしまうようなところがあって、割合スリルが感じられるところがあります。
 
B なかなか臨場感の感じられるところがある句ということになりますね。
 
A 続いて昭和50年の〈省くもの影さへ省き枯木立つ〉です。
 
B この句も先ほどに見た反復の手法による句ということになります。
 
A 『踏歌』における同じ反復の句として他に昭和52年の〈吹きあぐる風青揚羽黒揚羽〉を取り上げました。
 
B 反復の手法を用いた句としては先ほどの〈子の蟵に妻ゐて妻もうすみどり〉とともにこれらの作が高い完成度を誇っているように思われます。
 
A 特に〈省くもの影さへ省き枯木立つ〉についてはその描写の克明さにおいて枯木そのものの形象へ肉迫するような趣きが感じ取れます。
 
B まさしく枯木そのものの実在感を言葉によってそのまま表現しようとするような迫真力が感じられるところがありますね、
 
A 続いて〈浮寝鳥海風は息ながきかな〉を取り上げます。
 
B 季語は「浮寝鳥」で冬ですから、「海風」は大変冷たいものなのでしょうが、それだけでなくこの「浮寝鳥」という言葉により、どこかしら冬麗の日差しによるあたたかさのようなものの存在も浮かんでくるところがあります。
 
A 「海風」を「息ながきかな」と表現したところに、アニミスティックな印象があると思います。
 
B 普通、息を行うのは生物ということになりますが、この句は「海風」を「息」として捉えたところに、なにかしら不可視の大いなる存在の姿そのものを想像によって思い描いてしまうようなところがあります。
 
A 続いて〈新宿ははるかなる墓碑鳥渡る〉を鑑賞しましょう。第2句集『踏歌』の昭和53年の作です。
 
B この句が福永耕二の句ではもっとも有名な作品であるということになると思います。
 
A 「新宿」が「墓碑」であるということですから、当然、思い浮かぶのは「ビル」という建造物ですね。
 
B そこへ秋の鳥が渡って来るということになります。
 
A しかしながら「墓碑」が「ビル」であるというのは、少し規模が違いすぎるようなところがありますね。
 
B それでも季語が「鳥渡る」ですから、秋の高い空の雄大さというものが想像され、その空の下にあってはそれこそ巨大な「ビル」も極く小さなものであるかのように思われてくるようなところもあります。
 
A 大きな空の下ではビルもそれこそ墓石のように小さなものに思われるといった趣きでしょうか。
 
B 角川書店の『俳句』平成15年8月号において、上谷昌憲という方による「はるかなる墓碑」という文章があり、そこに福永耕二自身の語った言葉が再現されているのですが、その内容によるとこの句は、〈「いや…あのね、ぼくは上京して暫く自閉症に陥っていただろう。都会人も俳句も、本当に嫌だった。そして毎晩一人で歌舞伎町へ飲みに行っていたんだよ。ある酒場で流しのおじさんと知り合ってね。その人のレパートリーたるや歌謡曲はもちろん、ジャズ、軍歌、どんな地方の民謡でも何でもござれ。知らない歌なんてない。ぼくはすっかり意気投合しちゃってね。ところがいつの頃からか、はたと姿を見せなくなった。風の噂によると、どうも交通事故で亡くなったらしい。だからあの句は流しのおじさんへの追悼句であり、我が青春の墓碑なんだよ。」〉ということであるそうです。
 
A この句は「流しのおじさん」へのレクイエムだったというわけですか。
 
B この句を読むに際して、必ずしもこの事実にのみとらわれる必要はないと思いますが、こういった事実を踏まえると、この句の意味内容としては、その「流しのおじさん」の墓碑である新宿へ鳥が渡ってくるということになるわけですね。
 
A この季語の「鳥渡る」についてですが、「鳥」というものは、そもそも古代から人々にとって「人の魂」としてみなされていたものであるそうです。
 
B 白川静によると〈人の霊は鳥によってもたらされ、また鳥となって去るとする考えかたがあった。〉ということです。
 
A 万葉集などの和歌でも「鳥」は「人間の霊魂」を意味するものということになります。
 
B 人が死んだら鳥となって去り、また帰って来るという考え方ですね。こういったことを果たして福永耕二は認識していたのでしょうか。
 
A その点については実際のところはよくわかりませんが、そういった考えがあることを認識していたにせよしていなかったにせよ、そのような理屈を超越して、この句における「鳥」は、やはりその「流しのおじさん」の「魂」を象徴したものとしてこの句の中に象嵌されたものではなかったかという気がします。
 
B まさしく福永耕二の「魂」の働きによって詠まれた1句だったというわけですね。
 
A そして、それはまた本人もいうように自らの「青春」への挽歌でもあったということになるのでしょう。
 
B 続いて第3句集である『散木』の作品について見ていきましょう。
 
A この『散木』という句集は昭和54年と昭和55年の2年間の作品約330句から構成されたものです。
 
B 福永耕二は昭和57年に42歳で亡くなっていますから、この句集は遺句集ということになります。
 
A 福永耕二は昭和55年に病により42歳で早世するわけですが、この句集は先の第2句集『踏歌』の作品と比べると、まるで気が抜けてしまったような作品が多く目につきます。
 
B そうですね。これといってあまり見るべき句がないようなところがあります。今回この第3句集については始めて読んだのですが、正直少し驚いてしまうところがありました。
 
A やはりこれは病気が影響を及ぼしているのでしょうか、
 
B この時期は福永耕二の身の上には病気だけでなく、「馬酔木」の編集長からの辞任などあまり芳しくない出来事がいくつも重なっていたようです。
 
A この時期の福永耕二についてはなんとも不憫なところがありますね。
 
B この句集からは昭和55年の〈鳥葬のかたちに臥せば雲の峰〉〈還らざる旅は人にも草の絮〉のを選びました。
 
A 〈鳥葬のかたちに臥せば雲の峰〉についてですが、この句はなかなか凄みのある作品ではないかと思いました。
 
B 「鳥葬」と「雲の峰」ですから、どちらも「地上」にいるしかない人間とは対照的な「空」の領域に属するものということになりますね。
 
A なんとなく先ほどの〈新宿ははるかなる墓碑鳥渡る〉の存在を思い出してしまうようなところもあります。それこそ自らが人間であることの宿命性にまで思いが及んでゆくような、それくらいの迫真力を有した作品であると思います。
 
B 〈還らざる旅は人にも草の絮〉にしてもそういった思いに近いものを喚起させられるところがあるようです。
 
A まさしく死という宿命を正面から見据えたかのような句であるという気がします。
 
B さて、福永耕二の作品について見てきました。
 
A 福永耕二の作品は3冊の句集をあわせて、その作品数は合計で大体1200句前後ということになります。
 
B 第1句集の『鳥語』は、福永耕二の学校での教師生活や妻や子といった家族といった人間関係などを詠んだ句が多く見られ興味深いところも少なくないのですが、句集全体としては、年齢的なものも大きいのでしょうか、まだこの時点では福永耕二の本領は十全に発揮されていない部分があるのではないかという気がしました。
 
A そうですね。やはり福永耕二の才質が最も発揮されていると感じられるのは第2句集である『踏歌』ということになると思います。
 
B その構成の堅牢さ、技術力の高さから来る充実した緊迫感が『踏歌』の作品からは強く感じられます。
 
A また、これは私の望蜀の思いであるのかもしれませんが、その一方で、この第2句集『踏歌』は、その構成の堅牢さ、技術力の高さが、感情や言葉の奔放さ、放恣さを幾分か抑え込んでしまっているような局面もいくつかの作品の上に見られるところがあるように感じられました。
 
B 確かに理性や理知といったものに言葉がコントロールされすぎてしまっているような側面があるようですね。
 
A 〈鵜の礁を春潮が攻めかつ擁く〉〈緋桜の細枝まで緋のみなぎれる〉〈舞くらべして桐一葉栃一葉〉などといった作品を見るとやはりそういった印象を受けるところがあります。
 
B これらの作品のみならず全体的に説明が克明に過ぎるというか、やや言葉をやや詰め込み過ぎるきらいがあって、そのことによって作品の上における余白やそれによって生ずる「あそび」ともいうべき部分が損なわれてしまい、作品がやや窮屈な印象となってしまっているところがあるようです。
 
B 言葉の詰め込みについては、反復の表現の多用にも関わってくるところもあるのでしょうが、やはり「馬酔木」の作風による影響も大きいものであったのかもしれません。こういった例を見ると俳句というものはつくづく難しいものであるという気がします。
 
A ともあれ、やはり現在においても福永耕二の〈萍の裏はりつめし水一枚〉〈昼顔や捨てらるるまで櫂痩せて〉〈ほろびにし蛍がにほふ溝浚へ〉〈凧揚げて空の深井を汲むごとし〉〈浮寝鳥海風は息ながきかな〉〈新宿ははるかなる墓碑鳥渡る〉〈鳥葬のかたちに臥せば雲の峰〉などといった句に見られる青春の息吹きを宿した作品における光耀は、いまなお損なわれてはいないという思いがしました。
 

 

選句余滴
 
 
福永耕二
 

いわし雲空港百の硝子照り
 
わがための珈琲濃くす夜の落葉
 
向日葵に海峡の色またかはる
 
雪の詩に始まる学期待たれをり
 
ひきはがす上衣の胸の金亀子
 
明星と逢ふまでこともなき花野
 
泣く吾子を鶏頭の中に泣かせ置く
 
わが息に触れし綿虫行方もつ
 
脱ぎ捨てし外套の肩なほ怒り
 
白地図に色塗る今日を渡り鳥
 
冬野より父を呼ぶ声憚らず
 
レグホンの白が込みあふ花曇
 
新緑や生れし子に逢ふ硝子越し
 
雁来紅雨だれがうち踊らしむ
 
翳幾重封じてまぶし今日の菊
 
紅葉して桜は暗き樹となりぬ
 
今年わが虹を見ざりし日記了ふ
 
ほろびにし蛍がにほふ溝浚へ
 
水澄むと息つめをらむ田螺らも
 
一灣の縁薄刃なす東風の波
 
山葵田に雪まじりなる雨の音
 
緋桜の細枝まで緋のみなぎれる
 
アネモネを剪りたる後の荒畑
 
青田ゆく胸が支ふる風の量
 
雲青嶺母あるかぎりわが故郷
 
めつむりて茅花流しに流さるる
 
沓脱に出羽の大蟻茂吉ゐず
 
燕が切る空の十字はみづみづし
 
夏逝くか引き汐に堪ふわが踵
 
流星のあと軋みあふ幾星座
 
凌霄を纏き曼陀羅となる一樹
 
落葉松を駈けのぼる火の蔦一縷
 
初燕無数の波の追ひすがり
 
薫風のみなもとの樟大樹なり
 
水涸れてより鶺鴒をうつす水
 
酢茎樽みどりの泡を噴く小春
 
墓七百西日に影をつなぎあふ
 
落椿鯖街道にみづみづし
 
むらさきのリラ咲けばわが鬱の季
 
森染めて蓮華躑躅の大篝
 
長き夜を読み継ぐ童話子は眠り
 
囀りや一弦もなき琵琶残り
 
変哲もなき三椏の若葉かな
 
鳥籠に飼ふ仔うさぎや愛鳥日
 
虎杖の花がほのほをなす荒地
 
菊葎地を這ふ花の霜まみれ
 
椋鳥の百羽の黙をわが頭上
 
露を踏む旅とおもへり一歩より
 
ぼろぼろの身を枯菊の見ゆる辺に

 
 
 

俳人の言葉
 
俳句は姿勢だ、と僕は考える。俳句はそれを生きて行ずる人の姿勢である。俳句という表現形式を愛し、それを人生と等価のものにして生きようとする努力が俳句の歴史を貫いてきたと思っている。
 

福永耕二 「俳句は姿勢」
 

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